旦那様と僕

三冬月マヨ

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向日葵の庭で

きらきらの空の下で※

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 ふわりふわりとひらりひらりと、薄い桃色の花弁が風に吹かれて舞っています。
 それは、踊る様に軽やかに軽やかに。
 青い碧い空の下で。
 陽の光に隠されて、今は見えませんが、沢山のお星様の下で。

「今年も綺麗に咲きましたよ」

 縁側に柔らかな座布団を二枚敷き、その片方、右側に僕は座っています。手には温かなお茶の入った湯呑みを。正座した足の上には、あの青いきらきらでぽかぽかな箱があります。とは、言いましても、もうだいぶ草臥れてしまいましたので、何年も前からですが、青い箱よりは大きなプラスティックの透明な容れ物を買いまして、その中に入れてあります。透明な容れ物でしたら、中が見えますものね。
 …自分で直そうかとも思った時もありましたけど…そうしてしまいましたら、旦那様が直して下さった箱では無くなってしまいますからね…。ですから、不格好ではございますが、これで良いのです。

「ね?」

 と、小さく微笑んで、僕は左側を見ます。
 左側の座布団の上には、赤い盃がちょこんと置いてあります。少しだけ注いだお酒に、薄い桃色の花弁が一枚浮いていました。

「おや…何時の間に…ふふ、美味しいですか?」

 晩年には、お酌の回数が減ってしまいましたが、それでも、美味しそうに呑んでいましたね。僕のつむじを見ながら呑むのが楽しい、と。

「うぅん…今思うと酷いですね」

 湯呑みを傾けて、僕は独り言ちます。
 ふわりふわりと、ひらりひらりと、桜の花弁が踊る様に軽やかに舞います。クスクスと笑う様に。
 けれど、それは嫌な笑いではなくて。
 何処までも温かくて。
 そう、奥様が僕を見て笑って下さっていた様に、何処までも優しくて。
 ぽかぽかとぽかぽかと、ふわふわとふわふわと、何処までも、何時までも胸を擽る温かさです。

「…ふふ…向日葵が咲いていましたら最高でしたのに」

 この時期に咲く事は無いと知っていますが。
 薄い桃色の桜と、鮮やかな黄色の向日葵は、並んだらさぞ綺麗なのでしょうね。
 ふらりふらりと風の気の向くままに舞う花弁達に、しっかりしろと、こっちを向けと、叱咤してしまうかも知れませんね。

「…ああ、それにしても…今日はとても暖かいですね…。…瞼が重くて、このまま眠ってしまいそうです…」

 吹く風は暖かく、空から射す陽の光も柔らかく暖かくて。ぽかぽかとぽかぽかと胸の奥からじわりと暖めてくれます。じわりじわりと、ずっと胸の奥に染み渡って行きます。
 それは、本当に気持ちが良くて。
 胸の奥に、ぽっと光を灯してくれて。
 ずっと、ずっと、それは消えない光で。
 何時までも、何処までも広がって、続いて行く光で。
 それは、あの日。
 旦那様が僕の手を取って下さった時に、灯った光で。あの日から、消えずに今も、これからも続いて行く光なのです。

『…雪は溶けたらお水になるのよ?』

 はい、この冬に降って積もった雪が溶けまして、大地に染みて、今、こうして綺麗な桜の花を咲かせて下さいましたよ。そうして、お水は空へと還りまして、また、こちらに降りて来るのですね? それは恵みとなりまして、僕達…生きとし生けるものの力となるのですよね? それは、夏に咲く向日葵の様に、強く強く。
 …ふふ…本当に、奥様は素敵です。
 奥様の言葉に、本当に僕はどれだけの力を戴いた事でしょう?
 奥様が旅立たれる時に仰って下さった言葉も、音としては聞こえませんでしたが、僕には聞こえました。

『笑って』

 と。
 ですから、一生懸命に笑おうとしたのですけれど、笑えていましたか?
 奥様の言葉の通りに、思い出すのなら、それは笑顔が良いですよね?
 ぽかぽかとした笑顔が一番ですよね?
 ふわりふわりと舞う花弁達に、僕は笑います。
 ひらりひらりと舞う花弁達に、僕は笑います。
 青く碧く広がる空に、僕は笑います。
 あの日、胸の奥に灯った小さな光。
 あの日、旦那様が結んで下さったえにし
 緒は結ぶ物ですと、僕には沢山の緒があるのだと、そう教えて下さったのは奥様です。
 ありがとうございます。
 本当に、僕は幸せ者です。
 
「…はい…」

 僕は小さく頷いて、空へと手を伸ばします。この空の中に。この大気の中に。沢山の緒があるのです。こんなにも沢山の緒の中から、旦那様は僕へと繋がる緒を見つけて結んで下さったのです。本当に、何と云う奇跡だったのでしょうか。

 ふわりふわりと、ひらりひらりと、薄い桃色の花弁が僕の指を掠めて行きます。
 ふわりふわりと、ひらりひらりと、掴めそうで掴めなくて。
 もどかしい様な気もしますが。
 ですが、これで良いのかも知れませんね。
 風の向くまま。
 気の向くまま。
 そうして辿り着いた先にあるのが幸運と云うものなのでしたら、それが、奇跡なのですから。
 ふわりふわりと。
 はらりはらりと。
 目を閉じて、耳を澄ませれば。
 何時だって、僕を呼ぶ優しい声が聴こえるのです。

雪緒ゆきお

 と、低くて優しい声が。

『雪緒』

 はい、何でしょうか、旦那さ…ふが?

「雪緒、こんな処で寝ていたら風邪を引くぞ」

 鼻を摘ままれて目を開けたら、そこには呆れた様な顔をした旦那様が居ました。

「…旦那様…?」

ゆかりだと…まあ、今のお前にはその方が似合うか」

 お呼びしましたら、旦那様は軽く肩を竦めて苦笑してしまいました。

「…今の…僕…?」

 はて? と、首を傾げて気が付きます。僕の鼻を摘まむ旦那様の指には皺の一つも見当たりませんね? と。そして、僕も。先程の僕の声は、とても澄んでいましたね? と。不思議と身体も軽い気がしますし、何時の間にか見上げる旦那様のお顔にも、皺なんてなくて。あれ? 僕は、こんなにも旦那様を見上げていましたでしょうか?

「そら、行くぞ」

 僕の目の前に差し出された大きな手に、僕の小さな手を重ねて。
 何方へ? と、尋ねる間も無く。

鞠子まりこが待っている」

 目を細めて優しく笑う旦那様に。

「はい」

 僕も、とびきりの笑顔を返しました。
 ああ、そうですね。
 奥様が待っていて下さるのですね。
 それでしたら何も怖い事なんてありませんよね。
 どの様な涅槃でも、怖がる事はありませんよね。
 奥様と旦那様がお傍に居て下さるのなら。

 ふわりふわりと風が吹いて。
 はらりはらりと桜の花弁が舞って。
 しとりしとりと心の奥が温かくなって。
 ぽかりぽかりと陽の光は何処までも優しく温かくて。
 ぽかぽかときらきらとした光に包まれて。

「…ふわ…」

 気が付いたら、辺り一面の向日葵畑に居ました。
 何処までも何処までも、鮮やかな黄色が広がっています。
 吹く風は優しく柔らかく、何処までも温かく。
 青い空から射す陽の光も、ぽかぽかと優しくて。

「そら、これを持て。鞠子に見せてやるんだ」

 ぽんと、何処から出したのか、旦那様が僕の両の掌にそれを乗せました。
 きらきらとぽかぽかとした青い箱を。沢山のお星様が散りばめられた青い箱を。
 草臥れてはいますが、この箱には沢山の想いが詰まっているのです。

「…はい…っ…!!」

 これは奥様から戴いた箱です。
 一度は壊れてしまいましたが、旦那様が丁寧に直して下さいました。
 それからも、箱の色が褪せる度に、お星様が剥がれてしまう度に。
 不器用な旦那様が一生懸命に直して下さいました。
 僕も、少しだけお手伝いをしました。
 これは、僕の一番の宝物なのです。
 これには、沢山の想いが、想い出が詰まっているのです。
 何年も何年も。
 幾年も幾年も。
 幾星霜もの想いが。

「…っ、雪緒! そんな出鱈目に…っ…!!」

 青い碧い空の下。
 黄色い向日葵がおひさまを見上げながら、ゆらゆらと揺れる中で、僕は青い箱を胸に抱えて走ります。
 いいえ、旦那様。
 出鱈目ではありませんよ。
 だって、奥様は向日葵なのですから。
 ここにあるどの向日葵よりも、強く強く、それはとても大きく咲いている向日葵なのですから。
 空にあるおひさまにも負けないぐらいに、ぽかぽかと強く輝いている光なのですから。
 ですから、ほら。
 その光を目指して行けば。
 白い日傘がくるくるとくるくると。
 あれは、肖像画に描かれていた物と同じ物ですよね?
 向日葵を背に、その向日葵に負けない笑顔を奥様は浮かべて居ましたよね?

「あらあら…お帰りなさい」

 と。

「ただいま戻りました」

 と。

「ああ、ただいま」

 と。

 ほぼ三人同時だったと思います。
 そして、小さく噴き出して、それが徐々に大きくなって行くのも。
 青い碧い空の下。
 お星様が散りばめられた空の下で。
 終わりも始まりも無い、きらきらの空の下で。
 僕達の笑い声は何処までも何処までも、何時までも何時までも響き渡って行きます。

 そして、それはやがて、青い碧い果てない空に溶けて行ったのでした…――――――――。
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