寝癖と塩と金平糖

三冬月マヨ

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募るもの

【一】遠ざかるもの※

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 高梨の叫び声が林の中に響いた。

 咄嗟に少年の身体を突き飛ばした優士ゆうじは、酷く冷静にそれを見ていた。突き飛ばした際に、少年が手にしていた刀が太腿を掠めて行ったが、優士は僅かに眉を顰めただけだ。
 それよりも。
 黒く光る爪が。
 星の光の瞬きの中で、それはやけに黒く輝いて見えた。
 黒い体毛に覆われた中から覗く、太く鋭い妖の鉤爪。
 それが優士の胸を撫でる様に、まるで匙で豆腐を掬うかの様に、何の抵抗も無い柔らかい何かを掬う様に、優士の胸を抉った。
 皮が裂かれ、肉が抉られ、赤い血が飛び散る。
 赤い赤い血が。
 身体が傾いて行くのを感じながら、優士はただ、その赤い血を見ていた。

 瑞樹みずきの目の前が真っ赤に染まる。
 それが何かを確認するよりも先に、瑞樹の足はそこから動かなくなった。
 瑞樹の視線の先には、赤いまなこの人の形に似たあやかしが居る。その体躯は熊と呼ばれる天野より、一回りも大きい。
 その赤い眼を見た瞬間に、全身の血が震え肌が泡立ち、どうしようも無い吐き気が込み上げて来て、片手で口を押さえ、視線を妖から外した時、瑞樹はそれに気付いた。
 妖の足元に倒れている、朱雀の隊服を纏った一人の青年の姿を。

「っひ…ひっ…!!」

 と、泣く少年の声が聞こえる。
 のろのろと視線を動かせば、地面に尻餅をついて涙と鼻水を垂らしながら、ガタガタと震える少年が居た。その少し離れた場所には刀が落ちていた。

せいっ!!」

 高梨の声も聞こえて来た。
 また視線を動かせば、刀を構え妖へと駆ける高梨の姿が見えた。

「こんにゃろめっ!!」

「わあああああああああっ!?」

 瑞樹の先を走っていた星がその声に応える様に、ぐっと地面を蹴り相手に跳躍していた。
 それは、星におんぶされていた津山も同じで。グンッと身体を後ろに引っ張られた津山がその勢いに堪らず声を上げ、手にしていた鞄から手を離し、それが地面に着くよりも先に星の飛び膝蹴りが人の形をした妖の顔面に食い込む方が早かった。

「はっ!!」

 体制を崩した妖の弱点である赤い眼を高梨が手にしていた刀で貫けば、妖は断末魔の悲鳴を上げて塵となり崩れて行った。

「津山っ!」

 妖が消滅したのを見て、まだ星の背中にいる津山へと高梨が声を掛ける。

「わ、解っていますっ! 杜川君、下ろして下さい。橘君、灯りを!」

 高梨の呼び掛けに津山は軽く頭を振ってから、星の背中から下り、地面に倒れる優士への元へ行き両膝を着いて津山は瑞樹の名を呼んだ。が。

「………っ……………」

 唯一の灯りであるカンテラを持つ瑞樹は、少し離れた場所に佇んだまま、動かない。
 いや、動けないのだ。
 その目は苦しげに歪められ、額には脂汗が浮かび、唇が小刻みに震えて居た。

「…借りるぞ…」

 そんな瑞樹の傍へと高梨が近付いて行き、震えている手からカンテラを取って、津山の脇へと置いた。『ありがとうございます』と、津山は一言言って、鞄の中から治療をする為の道具を取り出し始める。

「坊主、危ないからこいつはおいらが預かるな」

 星は優士が庇った少年の頭を撫でながら、その傍に落ちていた刀を拾っていた。

「星、楠の処置が終わったら、楠を担いで避難場所まで走れ。久川とあと治療隊の誰か一人と先に街へ帰り、病院へ行け」

「ん! 任せろ!」

 星の返事を聞いて、高梨は改めて無線機を手にし、現状を伝える。少年の保護と優士の負傷と星に話した事を。そして近くを巡回している者が居れば、こちらへ来る様に、と。

「あっ、ひっ、うっ…おれ…っ…」

「ん、ん、怖かったな? でも、もう、だいじょぶだからな? 妖はもう近くにはいないぞ?」

 泣きじゃくる少年を、星が宥めているのを見て、高梨はまだ動かない瑞樹の元へと再び歩み寄る。
 星が妖は居ないと言うのなら、姿を隠している妖も居ないのだと知っているから。

「…橘…」

 瑞樹の肩に手を置いた時、その肩が激しく揺れた。

「…っ…ゆ…じ…っ…」

「橘!?」

「…ゆ、じ…っ…!! 優士、何で…っ…!!」

 肩に置かれた高梨の手を払う様にして瑞樹は走り出し、横たわる優士の身体に縋り付いて、その身体を揺さぶる。

「橘! 治療の邪魔だ!」

「ゆっ、ゆーじ…っ…!!」

 蹲る瑞樹の背後から肩に手を置き、退く様にと高梨が促すが、その言葉は瑞樹には届いてはいない。
 ただ、流れる涙をそのままに、優士の身体を揺さぶり名を呼ぶだけだ。まるで、それしか知らぬと云う様に。

「橘!!」

「…橘君」

 瑞樹の名を呼ぶ津山の声は何処までも静かで、何処までも冷ややかだった。

「泣くのは構いませんが、仕事の邪魔はしないで下さい」

「…っあ…」

 怒鳴り散らされた訳では無いが、その声には有無を言わせね迫力があり、瑞樹はのろのろと身体を起こした。それでも、優士から離れたくなくて、血に汚れた優士の左手を掴んだ。
 瑞樹が大人しくなった処で、高梨は瑞樹から離れ、地面に置いていたカンテラを手に取り掲げる。より広くに灯りが行き届く様に。近くに居るだろう誰かが、これを目印にここへと来られる様に。

「…出血は酷いですが、命に関わる物ではありません。何もしなくて良いですから、見ていて下さい」

 津山の声が届いたのかどうかは定かでは無いが、瑞樹はただ、流れる涙をそのままに、抉られた優士の胸を見ていた。
 切り裂かれた上着は開けられ、下に着ている血に染まったワイシャツも開けられ、その傷を顕にしている。優士の胸に出来た四本の爪痕は痛々しく、禍々しく、腹付近まで伸びていた。
 流れた血を拭い、消毒し、ガーゼをあて包帯を巻いて行く。包帯を回す際は、高梨の手を借りた。
 優士は意識が無いのか、されるがままだった。

「高梨!」

「…ああ、来たか。すまんが加藤少年と橘を避難場所まで頼む」

 星が優士の身体を横抱きに抱いて立ち上がった時、天野と隊員の一人の横島がやって来た。

「解った。よし、坊主帰ろうな!」 

 天野はまだ涙を流す少年の頭を撫でてから白い歯を見せて笑って、その大きな手を少年の方へと差し出した。天野の豪快な笑顔を見た少年は『…うん…』と、小さく頷いて差し出された手をそっと掴んだ。

「じゃ、おいら行くな!」

「…あ…っ…!」

 俺も一緒にと瑞樹は言いかけたが、それよりも早く星は駆け出していた。

「よし。行くぞ、橘」

 横島が瑞樹の肩を抱いて歩き出せば、瑞樹はそれに従うしかなくて、星が走り去った方向をただ虚ろに見ながら重い足を動かした。
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