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第一章 黒瑪瑙の陰陽師

《十五》

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「調子はどう、春明君?」

 大結界の外、国立公園の中に白い軍服の女が現れる、三十分前。
 時刻は午後四時半を示していた。

 夕暮れの空は重く澱んだ靄に隠され、帳となった大結界に冷たい風が吹き抜けていく。
 辺りは静寂に満ちて、生物の影らしきものは見当たらない。

 断絶された異世界。
 その中を歩いていく三つの人影。
 影の一つには黒く先の表情を見据えた猿の面がぶら下がっていた。

「平気。何これ、すっげぇ気が楽なんだけど」

 春明の驚き混じりの元気そうな声に、桜下は安堵の息を漏らす。

「よかった。大結界を出るまではそれ付けていていいからね」
「これ一体何なんだよ」
「さっき言ったでしょ。最終兵器って」

 春明の問いかけに、桜下はそれ以上返すことはなかった。
 春明は自分の右耳にそっと手を添えると、硬い感触がある。

 耳たぶの間には五センチの長さとなった如意金箍棒にょいきんこぼうが上手く収まっていた。

「ピアスみたい!」
「この形状で、ピアスはかなりマニアック過ぎじゃないか?」
「でも春明の髪色とよく映えて似合っているよ」

 シリウスがまじまじと春明の耳たぶを見つめる。
 春明の肩まで切り揃えられた緋色の髪と、金箍棒の朱色の光沢。
 偶然にも同じ系統の色合いに、シリウスは感心していた。

「ま、褒められて悪い気はしないな」

 春明は得意げな表情を浮かべると、シリウスが一言添える。

「よーし、元気モリモリスーパー春明だ。よかった、よかった」
「だから適当におかしな呼び方考えるな」

 機嫌を損ねる春明にシリウスは笑みを浮かべながら謝罪をする。
 勿論、彼が反省をしているように、春明には全く見えない。

「シリウス君、ここ真っ直ぐ?」

 先を歩いていた桜下はシリウスに問いかける。
 シリウスは春明に頬をつねられている最中だった。

「そうそう、次の角を右に曲がるんだ」
「わかった」

 先頭を歩く桜下はシリウスの指示に従い大通りを真っ直ぐに進む。
 次いで春明が桜下の後を歩き、殿しんがりにはシリウスが担う。

 彼らは大結界内を元の空間に戻す為、鬼門を飛び出し妖魔が巣くう舞殿に向かっていた。
 賑わいに満ちた大通りは、閑散とした幽霊街となり物悲しさを際立たせる。

「結局、この棒って周りの霊力を見極めてスキャンして、春明に干渉してくる霊力を自動オートで修正してくれているってこと?」

 後方から聞こえるシリウスの声に、桜下は振り返る。

「……よく分かったね。なんで分かったの?」
「うーん、なんとなく?」

 シリウスが見ただけで金箍棒きんこぼうの仕組みを言い当て、桜下は驚きで目を大きくさせていた。

「そんなに凄いのか、これ?」

 対して二人の会話の間に挟まっていた春明は、話の意図が読めず耳に挟まった金箍棒にそっと触れていく。

 桜下はふと、春明に質問を投げかける。

「春明君は、そもそも『霊力』って何かわかる?」
「……何って。オレらの身体に備わっている霊術を使う為の力だろ?」
「……成る程、今はそういう風に伝わっているんだ」

 霊力とは血液と同じ、体内に備わった機能の一つ。
 そのはずだが、桜下の態度に春明は眉間に皺を作っていく。

「なんだよ、基礎中の基礎だろ。オレの答えが間違えてるって言いたいのか?」
「いや、勿論合ってるよ。不快にさせせたのなら申し訳ない。けどね、こういう役割もあるんだ。」

 苛立つ春明に向けて、桜下はゆっくりと諭すように語りかける。

「霊力は、魂と身体を支える為の……言わば隙間を埋める接着剤だよ」
「はぁ?」

 穏やかに紡がれた言葉に春明の脳裏に衝撃が走った。
 言葉の意図が分からない疑問に、増える春明の眉間の皺。
 桜下は捕捉をするつもりで説明を加える。

「霊魂……つまり魂と呼ぶものね。器となる身体に霊魂が宿って、生命が生まれ落ちる。けどね、霊魂と身体はセットに作られていない。元々独立した個々の存在なんだよ」
「お前は何を言っているんだ??」

 困惑する春明の反応を見て、桜下はふとあるものが思い浮かぶ。

「シュークリームって、さっき食べたでしょう? 中が空洞になるように生地が作られて、その中にカスタードクリームを詰め込んだ洋菓子。シャトレのクリームは結構たっぷり入っているけど、完全に隙間なく埋まることはない。ほんの少しだけ、空洞がある」

 突然現れたシュークリームの話題に春明は意図が読めず首を捻る。

「クリームが飛び出して、あえて生地を蓋の様に被せているものもあるぞ」

 シュークリームと一括りしても、形が様々。その中で、二枚の生地の間にクリーム以外にもイチゴやモンブランなど果物を挟んだものがある。
 クリームもカスタードだけでなく、イチゴやチョコなど彩りを重視し、見栄えの華やかさから若い世代に注目が集まっていた。

 まあそれぐらいは知ってるだろうな、と春明は軽い気持ちで口を挟んでしまう。

「えぇえ? そうなの?」

 春明から見て、桜下はなんとも形容し難い顔をしていた。

「てっきり、空洞の中にクリームを突っ込んだものがシュークリームだと思っていた。そっか……色々とあるんだね」
「お前、もしかして……知らない?」

 流行に疎いと指摘した途端、桜下は表情を見せないよう顔を横に向けた。
 春明は不敵な笑みを浮かべ桜下を問い詰める。

「図星なんだな」
「そういう……若い子が食べていそうな、洒落たのじゃあなくてさ。さっき食べたアレのイメージで、お願いします」
「お前だって十分若いだろ」

 春明が的確に言葉を入れると、桜下の耳が赤く色づき更に顔を背けた。

「貴方たちよりかは少しばかり大人だよ。あまりからかわないで」

 桜下はコホンと一つ咳払いを入れる。
 多少恥ずかしがりながらも、やがて落ち着いた口調で話し始めた。

「シュークリームをね、一つの生命体に例えるとして。身体が生地、クリームを霊魂と思って欲しいんだ。空洞の生地の中にカスタードクリームが入ってシュークリームになる。ただ、空洞の中の隙間は全て埋まらない、生命体にとってそれは死に繋がってしまうんだ」

 話のトーン、声の響き。
 桜下の穏やかに、だが芯のある口調にシリウスと春明は真剣な面持ちで聞き入っていた。

「ここで最初に言った、霊力が出てくる。霊力は霊魂からしみ出した隙間を埋める為の接着剤。身体と離れないようにする為に溢れ出た、霊魂の生存本能と言えばいいかな」
「生存本能……」

 妖魔に対抗する為、技術として形に残した遺物。
 桜下が紡ぐ言葉は、春明の認識に衝撃を残していく。

「それで、知っての通り大地にも霊力は宿っている。大地の霊力の方が人間より遙かに上だから、さっきみたいに場の霊力が急変すると、人間の霊力に干渉して体調が悪くなる。これが、霊力酔いってやつだね」
「……じゃあ、この棒が周りの霊力からオレを守ってくれているってことだな」
「そうそう」

 霊力酔いは個人差もあるが、春明は特に酔いが酷い体質だ。
 それはわざわざ追及せずとも、出会った当初の春明を振り返れば桜下は察しが付いた。

「まあ、正直な話。私も金箍棒キンコについてよく分かってないんだ。伸び縮みする原理も分からないので、最終兵器ってことにしておいて」

 そう言い切ると、桜下はすぐに前をむき直し歩きはじめる。
 ちょうどシリウスの指示のあった角に差し、右折していく。

「あれだけ語っておいて、アイツもよく分かっていないのかよ……」
 呆気にとられた春明の後ろで、シリウスが助言していく。
「まあ、いいじゃん。悪いものじゃなさそうだし」

 彼の青い瞳から見ても、金箍棒の正体を明確に知ることは出来ない。
 しかし、少なくとも春明に害を与えるようには映らなかった。

「春明が良くなったのはいいけど、さくは大丈夫なの?」
 後方から聞こえるシリウスの声に桜下は振り返る。
「大丈夫って?」
「霊力酔い。さくだって酔っていたじゃん」

 シリウスは桜下と出会った時の様子を振り返り、心配に想いを膨らませる。

「それ早く言えよ! オレがこれ持っていたらお前が気分悪くするじゃん!」

 事情を知らなかった春明は慌てて耳につけた金箍棒を取ろうとすると、桜下が静止の声をかけた。

「私は気導術があるから大丈夫。酔いもあれから全くないよ」
「本当か?」
「ほんと、ほんと。じゃなきゃ貸さないよ」

 軽やかな口調で話す桜下。
 すると、春明はシリウスを見て首を傾げた。

「ウン、どうしたの?」
「お前はずっとピンピンしてるな。やっぱり、気導術があるとないとじゃ全然違うのか……」
「僕は昔から鍛えているからね。弟子入りするかい?」
「……やめておく。お前、そういうの感覚でやりそうだから、教えるのはすっげぇ下手そう」
「エェー、ソンナコトナイヨ」
「おい、自覚あるのバレバレだぞ」

 二人の会話が静寂な場を打ち壊していく。
 前方で聞き耳を立てていた桜下は、笑みを浮かべていた。

「二人は仲が良いね。お友達?」

 鬼門にいた時から、桜下は不思議に思っていた。
 シリウスと春明、検非違使と舞師という全く異なる立場。

 けれど、彼らは志を共にし、隣に立つ。
 桜下の問いかけに、春明はみるみる表情が険しくなっていった。

「友達ぃ? あのな、こいつとは今日会ったばかりで、初対面にも関わらず担がれて振り回すわ。もう、大変で大変で……」
「オーノウ、なんてこと言うんだい! 僕たちもう友達でしょう?」
「くっつくな、重い!」

 春明は抱きつくシリウスを引き剥がそうとするが、まるでびくともしない。
 桜下は二人の様子を見て、安堵に目を細めた。

「二人とも、そういう縁は大事になさい。窮地の時に必ず助けになるから」

 黒い瞳は彼らの根底を見透かし、穏やかに声をかける。
 シリウスと春明は同時に前を振り向くと、優しく笑みを桜下の姿があった。

「さく……」
 離れていく桜下の姿にシリウスは深くため息を漏らした。
「いくぞ、アイツ行っちまう」
「ウップス」

 シリウスが春明に促され前方を見ると、桜下が次の角を右折しているところだった。
 二人は桜下の後を追って目の前の角を右に曲がる。

「……ああ、見えた」

 曲がった先には、佇む桜下の姿。
 その先に見える光景に言葉を漏らしていた。

 大結界中心部、舞殿。
 妖魔の巣窟となった根城が、大通りを割って出るように堂々とそびえ立つ。
 春明は舞殿を前にして、手に汗をかいていく。

「本当に、妖魔と会わずに来ちまったな……」
「それもここまでだよ。舞殿に入れば、妖魔がたくさんいる」

 これから、安全圏を踏み越え、妖魔の領域に突入する。
 桜下の一言はその境界を意味するものだった。

「準備はいい?」

 一度は背を向けて逃げ去った舞台。
 侵略された取り返すべき場所。
 春明は手に汗をかきながら深呼吸をする。

「ああ、やってやるよ」

 春明は腕を組み憤然した態度を取ると、シリウスは声を掛けた。

「リラーックス、春明。妖魔のことは僕に任せて、再公演リベンジマッチにだけ集中して」

 春明の腕が緊張で震えていることを、シリウスは看破していた。
 それでも前に進もうとする彼の勇気が誇らしくなり、思わず春明の肩を軽く叩く。

「……っ?」
 もちろん、春明は行動の意図が読めず、怪訝な顔をするだけに終わった。

 そんな二人の決意を再確認し、桜下は再び歩み始める。
 後を続いて、春明、シリウスも舞殿に向かって歩き出し、舞殿の建物後方に差し掛かる。

「シリウス君、あそこの扉で合っている?」

 桜下が示す方角には、舞殿に通じる小さな扉。舞殿の非常口だ。
 春明は見覚えのある扉に頷きそうになるが、

「ノー、違うよ」

 すぐに返されたシリウスの言葉に思わず振り返る。

「いやあの扉だろ。オレらが出たところ」

 形状や大きさを思い返しても、春明の記憶ではあの鉄の扉に間違いは無い。
 だがシリウスは、自信を持って否定する。

「たしかに僕らが脱出した時の扉に見えるね。けれど、ここにあの扉はなかった。もっと建物の奥だよ」
「そうだったか?」

 言われてみればそうかもしれない。
 春明が首を捻る横で桜下はあるものに気がついた。

「シリウス君、春明君」

 数メートルほど先を歩き、桜下は手招きをして二人を呼ぶ。
 桜下に促され、シリウスと春明が見たものは同じように付けられたもう一つの非常口だった。

「ここにも扉がある……」

 二つ目の非常口に春明が困惑する中、シリウスが建物の外壁を確認する為、先に走り出す。

「さく、春明! ここにも同じ扉がある!」

 十メートル先の位置でシリウスは三つ目の非常口を発見し、春明は眉間に疑問の皺を増やしていく。

「非常口ばっかり……」

 もちろん、春明の記憶では外壁に多くの扉があるはずがなかった。
 心境が疑問から異常へと変わり、違和感を募らせていく。

「シリウス君、その扉には近づかないで」
「オーライ!」

 桜下は十メートル先にいるシリウスに指示を出すと、春明の前に手をかざす。

「少し離れていて」

 桜下に言われるがまま春明は数歩後ろに離れる。
 一定の距離が離れたことを確認すると、桜下は地面を蹴り上げた。
 足の甲を器用に扱い、ふわりと浮かんだ灰色の軌跡。
 五センチほどの小石が宙に舞い、弧を描きながら前へ飛び出していく。

「……」

 春明は定められた自然の法則を、何故か奇跡の一瞬を見たように目を輝かせていた。
 小石が最後に辿りついた場所は、桜下の前方に位置する非常口の扉。


 トン、と小石が扉に衝突した途端。


「おわぁあ!」


 どかぁん、と鳴り響く衝撃音。


 同時に響く春明の叫び声。


 爆発が桜下と春明がいる距離まで襲うことはなかった。
 けれど、もし二人が扉の正面に立っていれば無事では済まなかっただろう。


「やっぱりこれ、二柱式にばしらしきの結界術だ。去る者は拒まず、けれど認定されていない者に対しては容赦なく迎え撃つ攻撃的防衛。非常口としての役割を担いながら、偽の扉を用意させて入ろうとした侵入者を爆発死ぼかん。そうだよね、建物の後ろにこんなに扉を用意したら入ってきて下さいって言っているようなものだから」
「爆発するって分かっていたら前もって言え!!」

 春明の怒号に桜下は大きく目を見開く。
 何故彼が怒っているのか、不思議に首を傾げるだけだった。

「凄い音がしたけど、今のなんだい?」

 駆けつけたシリウスは二人の無事に安堵しながら、爆発音の原因を問いかける。

「扉が爆発した音だよ」
「ナルホド、とんでもドアだね!」

 どんな理解の仕方だ。

 春明はシリウスの理解速度に感心するも、見習おうとは全く思えなかった。

 シリウスは桜下の端的すぎる言葉に納得すると、本来の非常口があった場所を見つけたと報告する。

「案内して」
「オーケー、付いてきて!」

 シリウスは得意げに頷くと先頭に立ち、後に続く二人を案内する。

 舞殿の外壁を沿って歩くような形となり、道中壁には同じような非常口の模倣が連なっていた。
 奇妙な景色を横目で見ながら、シリウスに案内されて三分ほど。

 扉は疎か、目印など見当らない。
 真っさらな舞殿の外壁だった。

「何もねぇじゃん。本当にここだっけか」
「……合っているよ。ここから見る街並みに見覚えがある」

 大結界の最果て、未だ赤く点灯をし続ける鬼門の姿がここからでもよく見える。
 シリウスの思い返す光景と、今見る景色に変わりは無かった。

「見えないだけで隠しているんだよ。これは舞殿の結界が作用して外敵の侵入を妨げている。場所さえ合っていれば、ここに扉があるのは間違いないよ」

 桜下は何もない壁を一定の距離を離れて凝視し続けるが、どれだけ眺めても扉の鱗片を感じ取れない。

「高さと幅が分かればいけるけれど、ここまで完璧に隠すとは。流石は陰陽衆と言うべきか」
「高さならだいたい覚えているぞ」

 春明のうろ覚えの記憶を桜下は否定する。

「これはだいたいじゃダメ。どの位置で、高さと幅はどれくらいか。出来ればセンチ単位で教えてくれれえば分かりやすいけど」

 場所が正確に示されれば、入り口は開かれる。
 されど、桜下にとって図面を見ずに直接現地で建設しろと言われているようなものだった。

 ズレた位置で解除の霊術を施したとすれば、

「不発だったらまだいいよ。下手したら爆発ぼかんしかねない。それくらい、二柱式の結界術って繊細で厄介なんだよ」

 さて、どうしたものか。

 桜下はじっと姿の見えない扉を見続けている。
 悩む青年を春明は不安げに見守るしかなかった。

「もう半歩、左にずれて」

 しかし、絶たれたと思われた道はまだ繋がっていた。
 青い瞳の青年は白い壁を睨み付け、桜下に扉のありかを示していく。

「……ここでいい?」
「オーケー、正面を見て。ちょうど目の前が扉のあった位置だ。高さはそうだね……190、幅は80だね」

 桜下の背中に手を添えながら、シリウスは指を差し扉の位置を的確に指示をする。

 声色は変わらない明るいまま。表情は陽気に満ちあふれている。

 だが、春明は真剣になるシリウスの瞳の青さに身震いをした。
 その理由を追及する勇気を彼は持ち合わせていない。

「……詳しくありがとう。よく覚えていたね」
「たまたまだよ。僕の頭にぶつかりそうだな、ってかがんだのは覚えているからさ」
「あとは私に任せて」

 桜下はシリウスの指示に合わせ正面を向き直すと、自分の髪を軽く弄っていく。
 まるで頭をかいているような素振りだった。

「大先生、出番ですよ」

 髪から手を話すと指の先には、小さなハエトリ蜘蛛が一匹。
 牡丹は気怠そうな声を上げながら、白い壁を見つめていた。

「やると言うても、二柱式の方が明らかに出力上じゃねぇか。糸が保つワケねぇ」
「頑張れば何秒は保つ?」
「五秒がいいところだ」
「それで充分ですよ」

 桜下は牡丹と手短にやりとりを終えると、左手を自分の中央に構える。
 桜下の正面には見えない入り口。
 手の甲には牡丹が移動し、延長線上にある中指と人差し指は真っ直ぐ上に向けられる。

「……糸?」

 シリウスは、桜下の指先の先端に見えたか細い銀の糸を見逃さなかった。
 振りかざされた糸は、真っ直ぐ下へ線を描く。

「一線」

 桜下の涼やかな合図と、左手の形を保ったまま振り下ろされる腕。
 桜下が施した霊術は扉と結界術の縫い目に沿って浸食する。

「春明君を抱えて走って」
「は?」

 なんでまた抱えられないといけないんだ?

 疑問に声を上げてしまう春明をシリウスは問答無用で担ぐ。
 同時に、正面に見えるのは隠されたはずの舞殿へと通じる扉。
 滝の中に潜む洞窟が如く、二人の前に姿を現す。

「いくよ、春明!」
「ちょ、おま」

 春明の声はシリウスに届くことはなく、シリウスは扉に向かって走り出す。

 猶予は五秒間。

 制限された僅かな時間で、シリウスは扉のノブを開き春明を投げ入れる。

「てめっ」

 痛みはなかったが、自分の雑な扱われ方に腹が立つ春明。しかし、彼の反感を相手にしている余裕はなかった。

Come on!さく!

 シリウスは扉の内から桜下に向かって手を伸ばす。
 桜下は二人が舞殿内に入ったと分かるとすぐに地面を蹴り上げる。
 気導術で練り上げた脚力は僅か二秒の時間をもろともしなかった。

「よろしくね」

 伸ばされた桜下の右腕をシリウスはしっかりと掴む。
 澄んだ夜空のような色を帯びた黒に、シリウスの姿が鏡のように映り込んだ。

 シリウスはドキリと顔の火照りを感じつつも、桜下を内側に引き寄せて舞殿内に連れ入れる。
 バタンと扉が閉まった直後には、外敵の侵入を妨げる結界術が再び作動した。

「大先生は……いるね、よし」

   桜下は左手の甲にしがみつく牡丹の姿を確認すると、安定する髪の位置に移動させる。

「よし……じゃねぇ! やるなら一言言ってくれ!」

 地べたに尻をつける春明の姿を見て、桜下は咄嗟に右手を伸ばす。

「ごめんなさい、地面に座らせてしまった」
「ったく、けど入れたな……」

 桜下の手を借り、春明は立ち上がる。
 広がる光景は薄暗い灯りが並ぶ先の見えない通路。
 彼らが舞台から逃げた時の光景と、全く変わっていなかった。

「なんだか迷路みたいな通路。薄暗い光景を延々と続かせて、自分の立ち位置を見失わせる。まあ、侵入された後の対処法としては効果的ではあるけど……シリウス君?」

 桜下は後ろを振り返り呼びかけるも返答がない。
 シリウスは桜下の腕を掴んだ感触を思い返しながら、自身の手を凝視続ける。

「シリウス君。先導、お願い出来る?」
「……! オーケー、勿論だよ!」

 二度目の呼びかけには気がつき、シリウスは何事もなかったように颯爽と先頭に立つ。

「こっち、僕から離れないでね」

 シリウスを先頭に春明が続き、殿は桜下が受け持つ。
 三人の足音が仄暗く、先が見えない通路に響き渡る。

「よくこんな薄気味悪い場所で、道順覚えているな」
「フッフーン、どうだ、見直したかい? なんなら僕に弟子入りをして、その極意を教えて進ぜようか?」

 鼻を高くさせ誇張するシリウスに春明はうんざりしながら答える。

「いや、いい。どうせ、お前のことだから『前を歩けばすぐに着くよ』とか言うだろ」
「ブッブー、残念。正解は、『360度、ありとあらゆる場所を見渡そう。ピンときた方向が、進むべき道だ!』でした。」
「結局、勘じゃねぇか」

 しかしその勘に助けられたのも、また事実。
 春明も自分では真似出来ない方法に呆れはするも、否定はしなかった。

「なあ、お前も気導術使えるんだろ? ああいうのも出来るのか?」

 桜下は振り返った春明に問われると首を横に振う。

「私は基本的なことしか出来ないし、自信があるのは脚力ぐらい。直感だけで道筋が分かるなんて無理だよ」
「そうだよな、普通」

 再度ため息を漏らす春明。すると前方からシリウスが声を掛ける。

「僕は、ちょっと極端オーバーなんだ。昔からやっていたし。でも、気導術自体は誰でも学べることだよ。今じゃ『酔い止め健康法』として手頃に学べるくらいにね」
「あれって、霊術と勝手が違うんだろ」
「ウーン、そうだね……、霊力を使わない霊術って言われているかな」

 眉をひそめる春明にシリウスは言葉を続けていく。
 一番後方の桜下は彼の話を静かに見守っていた。

「霊術だと霊力をエネルギーとしているけど、気導術は違うんだ。さくがさっき『霊魂からは身体から離れないよう霊力が発生する』って言っていただろう? 身体もね、肉体が衰えず魂がくっつくようにちゃんと頑張っているんだよ。それが、『気』っていう力。『気力』『活力』なんて、呼ばれているね」 

 ふざけずに真面目に話すシリウスに春明は興味を持ち始める。

「へー、お前もちゃんと勉強しているんだな」
「そりゃあそうだ。じゃなきゃ、じいちゃんに殺されるって」
「はぁ?」
「おーっと失言ウップス失言ウップス。話を戻すね」

 シリウスは咳払いを落としながら話を切り替える。

「ご飯を食べたり、息をしたり、寝たり……。気は生きるために必要な行動の中で循環して、身体に元気を与えているんだ。気は誰にでもあるし、春明も呼吸をちゃんと練習すれば、霊力酔いが良くなるかもしれない」
「極端な話、気導術を使えるヤツは誰でも身体が丈夫になったり強くなれるのか?」

 春明の期待混じりに問いかけに、シリウスは困ったように笑みを浮かべる。

「それは保証出来ないな。健康法としての気導術は誰でも出来るけど、戦闘法になると……悲しきかな、センスの差が出てくる。気の巡りを良くさせて基礎能力を高めるのも、やっぱり何年も修行を重ねないと出来やしない」
「……」

 身体の技術を磨き上げることは一朝一夕では旨くいかない。
 春明は舞の演目を練習する日々を思い返す。
 シリウスが茶化さず、真剣に語る口調が気導術の訓練もまた同じ道理なのだと思い知らされた。

「それと、もう一つ特徴があってね。気を熟知マスターした猛者なら、身体の一点に気を集中させて、その箇所を特化させることも出来るんだ。さくが脚の気導術を得意としているようにね。得意な場所も人によって様々なんだ」
「視力が格段に良いヤツがいれば、怪力に自身があるヤツもいるってことか」
「そうそう、ナイスインスピレーション」

 春明の理解の早さにシリウスの話が加熱していく。

「つまりシリウス君は、」

 すると、後方にいる桜下から、シリウスに対して声がかかる。

「ウン?」
「……いや、止めておきましょう。それより、だいぶ話し込んでいるけれど、ここはもう妖魔の活動区域内。喋るなとまで言わないけど、声は潜めた方がいいよ」

 中央大ロビー、そして舞台と繋がったこの避難通路はいつ妖魔と鉢合わせとなってもおかしくない状況だった。
 春明は慌てて口を塞ぐが、シリウスは焦る様子もなく平静さを保ち続ける。

「来ないよ。なんでか分からないけど、妖魔がここに来るイメージが全く湧かない」
「それは、何故?」
「勘、かな」

 堂々とした面構えでシリウスは断言する。
 桜下は通路の外壁に左手を当て、歩きながら手を沿っていく。

 指から伝う壁の感触は硬く、滑らかな石の感触のみ。結界術による妖魔妨害の施しはなく、桜下が近くで凝視してもコンクリート製の壁に過ぎなかった。

 ただの壁か。

 桜下は内心で呟くも、何故ここまで音を立ててもなお妖魔が来ないのか、疑問を募らせていく。
 壁から手を離し、視線を前へと切り替える。

「でも僕も軽率な行動だった。敵地で話し続けていたら不審に思われて当然だよ」

 申し訳なく項垂れるシリウスに桜下は肩を落とす。

「まあ、ここに入った時点で音を立ててしまったわけだし。これだけ雑談をしても来ないのならば、通路に妖魔はいないというのも妥当な線かもしれない」

 建物の外とはいえ爆発音を立てた件や、舞殿に侵入した直後の慌ただしさを考えれば桜下も物言える立場ではない。

 雑談と比べたら、そちらの方が妖魔に気づかれる可能性は遙かに高かった。

「貴方の直感と行動に任せるよ」
「さく……」

 穏やかな桜下の口調にシリウスは安心して息を漏らす。
 再び前を向き、通路の曲がり角に差し掛かろうとした時だった。

「ストップ」

 シリウスが歩みを止め、後ろを歩く二人に静止を促す。その目つきは、真剣そのものだった。

「なんだよ」
「しー……、静かに」

 桜下は小声で語りかけながら、春明の両肩に手を置き待つように促す。
 その間、シリウスは通路の曲がり角の先をじっと見つめてあることに気がつく。

「ここで待っていて。すぐに戻るよ!」

 用件だけ言い終えると、シリウスはすぐに駆け出す。
 タッタッタ、とシリウスが走り去る音が空間に響き渡る中、春明は彼の唐突な行動に眉間に皺を寄せる。

「アイツまた一人で勝手に……、まぁ、今は声かけてくれたから良かったけどよ」
「……?」

 桜下が首を傾げると、春明は当時の状況を思い返す。

「オレの演目が始まる前の話な。舞殿から舞台に入る直前、見送っていたはずのアイツが突然いなくなっていたんだ」

 その後起こった、舞台の大惨事。
 妖魔が押し寄せ取り残された春明を駆けつけたシリウスと合流し無事脱出する。

 春明から経緯いきさつを聞き終えると、桜下は自然と口元に手を当てていた。

「ふーん……?」

 思わず漏れ出た疑問の声。

 何かがひっかかる、と首を傾げる桜下は再度春明に問いかけようとする。
 だが、それよりも早く近づいてくる足音に気がついた。

「お帰り、早かったね」

 全速力で駆けてきたのか、息を切らすシリウスに桜下はねぎらいの言葉をかける。

「はぁ、はぁ、あのね……この先だけど……」
「息を整えてから話しなさい」

 シリウスは膝に手を置き、屈みながら深呼吸をする。
 息を整えることで気を循環させ、すぐにシリウスの体力は本調子に戻っていく。

「この先、五百メートルくらいしたら舞台の入り口になってたはずなのに、そこが瓦礫で潰れていた」
「……マジかよ、おい」

 愕然と声を震わせる春明。
 舞台はもうすぐ目の前にある舞台に上がれないやるせなさが彼に悔しさを募らせていく。

「人が通れる隙間も無かったの?」

 春明君を何としてでも舞台に上がらせたい。
 その想いから、桜下は僅かな可能性を賭ける。
 しかし、通れる隙間がもしあれば『なんとか通れる』と報告も含めているはず。

 シリウスは言葉を重くさせながら話しを続ける。

「残念だけど、通れそうな箇所ポイントは潰されていて……もっと言うと、瓦礫の向こうから妖魔の足音が聞こえんだ。仮に通れたとしても、すぐに妖魔の群れと鉢合わせバッティングすることになる。別の道筋ルートを探そう」
「妖魔が入り口を破壊したのはプラスに考えよう。でなければ、今頃ここが妖魔で充満している」

 桜下は今の状況を踏まえ考えを巡らす。
 塞がれた道の先では妖魔が跋扈ばっこする。
 遭遇する前に把握出来たことは不幸中の幸いだが、ほかの経路を探すにも薄暗い迷路の中手探りで当てなければならない。

「シリウス君、一旦ロビーに出るというのはどう? 逆の方向へ行けばロビーに繋がっているでしょう」

 一か八か、大ロビーに出た瞬間妖魔たちを牡丹の糸で拘束させ、自分の脚力でテムイを蹴り壊す。

「私がロビーの妖魔をなんとかしてくるよ」

 何故、大ロビーからの妖魔がこちらに流れてこないかは未だ不明だが、打って出るのも一つの作戦。
 あまりにも無謀、だが大ロビーを確保することで、舞台への侵入経路がほかに見つかるかも知れない。

 その考えはシリウスに筒抜けだった。

「ダメダメ。春明を助けに行った時も妖魔の攻撃を躱して、なんとか通れたんだ。相手にするのは無茶過ぎる」
「……ああ、一つ修正。シリウス君は春明君の傍にいて。妖魔の殲滅は私一人でやるけど、春明君の近くをどうしても離れてしまうから。通路に隠れていて、終わったら出てくればいい」
「……ッ! そういう意味で言ったわけじゃないよ!」

 自分の命を優先させていると勘違いされ、シリウスは声を荒げてしまう。

「僕は、春明を舞台に連れて行きたいのはもちろんある。けどね、さく一人に危険な役割を背負わせたくないんだ」

 困難な道に可能性を切り開き進むことと、無謀な道に身を投げることは全く意味合いが違う。
 桜下が提案した自分を蔑ろにした無謀をシリウスは真っ向から否定する。

「……じゃあ、どうする? 貴方の勘は何と言っているの?」

 桜下は口調に棘を含ませながら言い放つ。
 対して、シリウスはすぐに返答することが出来ず眉間に薄い皺を作らせてしまう。

 ほんの少しばかりの沈黙が痛いほど感じられた。

「あのさ、VIPフロアのって使えねぇか?」

 そこに割って出た緋色の髪の舞師。
 春明の言葉の意図が読めず、桜下は問いかける。

「アレって何?」
「あ、そうか。お前は知らないのかVIPフロアにあったテムイのこと。それを使ってオレは舞殿から舞台に転位したんだ」

 桜下が所持していた舞殿の地図で、唯一秘匿となっていたVIPフロア。
 春明を含め特別優遇された著名人にのみに与えられた控え室の建物、と桜下は認識をしていた。

「初耳。けれど、同じテムイならそこも妖魔に占領されているんじゃないかな」

 四門のテムイは実際現場を目視し、舞殿の大ロビーもシリウスが妖魔と遭遇している。
 大結界内のテムイはすべて暴走化、きっとVIPフロアのテムイも例外ではない。

 桜下が考える中、春明が険しい表情を浮かべ言葉を続けた。

「いや……言い直す、アレはテムイじゃなかった。まずテムイと比べて倍近く大きかったし、形も機械の柱みたいな感じだった。風間はアレを何て言っていたっけか……、そうだ」

 春明はVIP出演者用の入り口に辿り着いた時の出来事を思い返し、桜下に改めてそこにあったモノを伝える。

「転位術の演算装置スパコン。風間はテムイの大本って言っていたな」
「……紫微しびの光があるんだ」
「あ?」
「そうだね、うん。ならテムイとは別物と考えても良さそう。何せ、さっきの二柱式の結界術だってアレが司令塔として動いてると言っても納得がつく」

 ブツブツと自分の考えを整理する桜下に春明は話の半分も理解出来ない。

「おーい、分かるように言えー」
「ああ、ごめんごめん」

 春明の呼びかけに桜下はコホンと咳払いを一つ立てて話をまとめる。

「春明君の見たスパコンがテムイや結界術などなど、舞殿全体の警備システムの総括だよ。それで、スパコンが故障バグを起こしているのかといえばそれは違う。二柱式の結界術がちゃんと機能していたからね。スパコン本体が故障バグっていたら、結界も故障ダメになっているよ」
「じゃあ、VIPフロアに行ければ、舞台に入れる……!」
「結界についてはちゃんと数値を測りたいけどね。それに、この薄暗い通路からフロアまで行けるルートが……私にはさっぱりわからん」

 お手上げ、という分かりやすいポーズを桜下は示すと春明は不快ため息を吐いた。

「じゃあ、結局行けないっていうのかよ……」

 その場にしゃがみこみ蹲る春明を桜下が背中を優しく撫でていく。

 道順が分かれば、と桜下は口をギュッと結びながら、考えを巡らす。
 何回も、何回も春明が辿り着く方法を思案するも、春明が妖魔と対峙する結末しか見えない。

 やるせない気持ちが桜下を募らせると、横から声が掛かる。

「時間が掛かるけど……それでも大丈夫なら、僕が案内するよ」
「……本当マジか」

 しゃがみながら上を見上げる春明の目に期待の光が宿る。
 シリウスはゆっくりとだが力強く頷いた。

「マジでリアリィだよ。けど、ここからだときっと遠回りになるし、長距離で行ったことのない通路だと勘を巡らせるのに時間がかかっちゃうんだ。そこは許して」
「……分かった、任せた」

 シリウスは手を差し伸べ、春明を立ち上がらせる。
 背後には二人の決意を見守る視線があった。

「シリウス君、私も出来うる限り手伝うよ。妖魔の索敵は大先生の糸が手助けになるはず」

 結局俺様任せかよ、と髪の中で牡丹が愚痴を漏らすが桜下は気がつく素振りを見せない。
 桜下の視線はシリウスに集中する。

「貴方一人で無茶はしないで」

 それは僕の台詞なんだけどなぁ……。

 シリウスは内心のみで返答をすると、別の言葉で話を切り返す。

「サンキュー、さく。それはとっても心強いや。けどね、もっと手伝って欲しいことがあるんだ」
「なんだろ、私に出来るかなぁ」

 顎に手を当てながら問いかける桜下にシリウスはにこやかに答えた。

「春明がくたびれた時、励まし続けて!」

 シリウスが見上げた先は非常用に備え付けられた上の階へと続く階段ハシゴ。
 その先には、上の階に続く入り口があり、ちょうど人が一人分入れるほどの大きさだった。

「まさか……」

 これから待ち受ける道のりに春明は想像を巡らし、眉間の皺が増えていく。

「よし、一緒に頑張ろう。春明君」

 桜下は両手で拳を作り前に出すと、早速励ましの言葉をかけた。


 ○


「また前のめりになっている。ちゃんとしっかり歩く」
「……」
「そんなペースだと、シリウス君が先に行っちゃうよ」
「あー、もう分かったから! 押すな!」

 舞殿の内部に侵入し、通路を巡ること十分が経過した。
 シリウスは勘を巡らせ、VIPフロアに繋がる通路を選び、後に続く桜下と春明を案内する。

 その道のりは上へ上へと続いていた。

 非常用に備え付けられたハシゴで二階に上がり、さらに上へ繋がる階段を見つけ駆け上がっていく。
 階と階をまたぐ階段は衣装を纏う春明にとって険しいものだった。

 途中、階段の外壁にフロアに続く扉があり、シリウスは数秒立ち止まるが、すぐに扉に背を向けて階段を上がる。

 疲れる素振りも見せず階段を上がるシリウスに対し、春明の歩く速度は徐々に落ちていった。
 春明が疲労の色を見せ、シリウスとの間に距離が生まれそうになる。

「ならさっさと行く。決めたのは貴方でしょう?」

 その度に、桜下が春明の後ろで鼓舞をかける。
 桜下のかける言葉は、春明の歩みに活力を与える充分な材料になり得た。

「もう、何階まで行くんだよ……」
「ほら、頑張って」
「……はい」

 桜下の圧に押され、春明は自分の足に力を込め一歩踏み出す。
 一段一段を確実に、舞台に上がる道のりと考え、前へと進む。
 すると、先頭を歩くシリウスがピタリと立ち止まる。

「……」

 長く続いた階段の途中に、外壁に備え付けられた扉。
 これまでは、通り過ぎていたが今回に限ってはドアノブを握りながら彼は考え込んだ。

「……ここ、かな」

 勘を巡らせ、ドアノブを回し扉の隙間をわずかに作る。
 隙間のあいだから見える景色にシリウスは目を細めながら確信した。
 すると、自分の下からやってくる足音に振り返る。

「お疲れ、二人とも」

 シリウスの屈託な笑みに、春明はどっとため息を漏らす。

「あー……、何階くらい登った?」
「そうだね、十階以上は登ったんじゃないかな?」
「足バッキバキなんだけど」
「階段ルートはここまでだけど、まだまだ歩くから頑張ろう」

 舞台までの道のりは先が長い。
 シリウスから突きつけられた現実に、春明はガックリ肩を落とす。

「頑張って上がったけど、どうしてこんな上層階まで?」

  一方で、春明の後方にいた桜下は自然と疑問を口に出す。

 単純に階段を上がるのに疲れたという理由も含まれていたが、通過した扉から出れば時間にも余裕が生まれたはずだった。

 これから舞を行う春明の体力を消費して、わざわざ階段を上がる行動に桜下は首を傾げる。

「そうだね、これは見てもらった方が早いや。百聞は一見にしかず、だろう?」

  シリウスはドアノブを回して扉を開くと、吹き抜け構造となった大ロビーの真上に到着した。
 ベランダ状の展望スペースとなり、下の様子がよく見渡せるようになっている。

「ほら、下を見て」

 シリウスに促され、桜下と春明は転倒防止に設置された柵の上から顔を覗かせる。
 すぐそこに答えはあった。

「うわぁ……」

 春明はその光景に思わず顔を歪める。

 妖魔の坩堝るつぼ
 出演者フロア、一階大ロビーは大量の妖魔を詰め合わせた最悪の玉手箱だった。

 設置されたテムイは未だ一定の時間間隔で妖魔を排出し、大ロビーは妖魔で大渋滞。
 さらに、重なり合ったワニの妖魔たちが円形状となった外壁にのしかかり、壁を這うように高さを築き上げる。

 表情を歪める春明の横で、桜下は大ロビーの一角に散らばった瓦礫に注目する。
 ちょうど、位置、方向から見て、舞殿舞台に繋がる社員用裏方の通路だった。

「妖魔が押し寄せて入り切らず、入り口を塞いでいた、ということね」

  舞台側、ロビー側、共に瓦礫で入り口が塞がっていた。
 シリウスが上への道順を示さなければ、あの通路の迷路を彷徨っていたこととなる。

 そして、桜下が何より愕然としたのは壁際に積み重なったワニの高さだ。
 おおよそ、五階ほどの高さまで達している。

「……」

 桜下は無言で自分たちが立つ真下をのぞき込む。

 自分たちが立つ展望スペースの下にも見晴らしの良い場所があった。
 広いロビーを悠々と見渡せるほどの連絡通路。
 それはVIPフロアに繋がる通路でもあったが、高く連なったワニの壁により壊されている。

 シリウスが仮に、途中の扉で開け外に出ていたら。
 押し寄せるワニの群れに襲われているところだった。

「種の繁栄性を甘く見ていました。たかがテムイ一台でここまでの数をたたき出せるとは……うん、やっぱり生き物ってすごい」
「……さく?」

 シリウスが桜下の言葉に首を傾げ、意味を問いかけようと隣を見る。
 そこには、慈悲深く温もりがある眼差しで蠢く妖魔を見つめる桜下の姿があった。

「……さく」

 シリウスの呼びかけと共に、桜下は顔を上げ彼を見つめる。

「恐れ入りました」
「ウン?」
「……貴方の勘、にだよ」

 シリウスの勘は、桜下の推測を遙かに超える洞察力だった。
 天から賜った彼の才能に、桜下は素直に讃えるも本人は顔に疑問符を並べていく。
 桜下はそんな彼にため息を落とし、改めて問いかける。

「それじゃあ、ここからどうやって移動しようか」

 見渡す展望スペースにはほかのフロアに移動する通路がない。

「ウーン、待っていて。探してくる」

 シリウスが柵に沿って横に移動し、対面にある建物を注意深く観察する。

 その間に、春明があるものを見つけた。

「なんだこれ?」

 疑問の声を上げる方向に桜下が向かう。
 入ってきた扉の隣には、機械作りの計測器が設置され、電子文字で『80』と記されている。

「八十? 数値高っかいなぁ。大結界と二柱が作動してこんなに?」

 呆れた声を出す桜下に、春明は問いかける。

「なあ、それなんだ?」
「ああ、これ? 霊力数値計……数値計って結界整備師は略すけど、特定した場所の霊力を数値化させて、これを元に大結界の出力を調整していくんだよ」
「へ、へぇ……」
「どうしても人の多い場所だと土地が活性化させ霊力を反発してしまう。だから、たくさん人が出入する場所には数値計を置いて、建物内の数値が高くなると数値計からの受信で大結界が警報を発生する仕組みになっているんだよ。これの前で霊術使ったらダメね。近い場所だと反応して数値が上がるから」

 温度計の横で火を炙るイメージかな? と桜下は説明を補足すると視線を外側に向ける。
 相変わらず、真下は妖魔の群れで混雑していた。

「大抵は結界術で霊力は抑えられて、数値は正常のままだけど……妖魔が出てしまって数値がガッタガタ、警報も壊れている。舞殿全域の結界を持ってしても八十だから、なかったら百は越えているね」

 唐突に語られる、結界整備師の業務知識に春明は半分ほどしか理解出来なかった。
 適当に相槌を打つ春明を見て、桜下は咳払いを一つ落とし、最後の締めに入る。

「まあ、私が言いたいのは……もし金箍棒キンコがなければ……春明君、貴方意識が酩酊して立っていられてないよ。あってよかったね」

 その言葉に春明はゾッとし、耳たぶの間に挟まった金箍棒きんこぼうを外れないように無意識的に手を添えていた。

「二人とも、ちょっとカムオーン」

 すると、二人のいる数値計とは反対に位置する柵の隅の方からシリウスの呼び声が聞こえてくる。
 桜下と春明はシリウスの元にやってくると、柵を越えて正面にはVIPフロアの建物があった。

 彼らが立つ展望フロアから柵を越えて十五メートル先、同じような造りでVIPフロアの展望スペースが見える。

「さく、あそこまで行ける?」

 シリウスが指を差す方向に、桜下はその意図を理解する。

「春明君、準備はいい?」

 問いかけられた質問に春明は冷や汗をかく。

「……まさか、飛び移ろうとか思っているんじゃないだろうな」
「正解。ちょっと失礼」

 困惑する春明をよそに、桜下は春明の身体を抱き抱える。
 助走距離五メートル。
 柵から離れ、数値計の場所まで距離を開くと一気に駆け抜ける。

「マ、ジ、かよぅ!!」

 吹き抜ける風のごとく、加速していく。
 絶叫する春明をしっかり抱えて、桜下は柵を足場にして跳び上がった。

「わああああああ!!」

 高さ十階分を相当する高さから、春明の叫び声が響き渡る。
 ふわりと体感する浮遊感を、桜下の腕の中でしっかりしがみつき堪え忍ぶ。

「大丈夫だよ、安心して」

 対して桜下は相も変わらず落ち着いた口調。
 真っ直ぐ吸い込まれるようにして、VIPフロアの展望スペースに無事着地した。

「よし、到着。お疲れ様でした」
「お、おう……」

 桜下は春明を下すと、未だ残るシリウスに向かって両手を大きく振る。

「オーケー! 僕もそっちに行くよ!」

 シリウスは数値計よりさらに後ろ、端から端まで十メートルの距離を取り、全速力で駆け出す。

「ホゥワ、チャア!!」

 雄叫びと共に柵を蹴り上げた。
 制御の効かない弾丸のように、二人の元へ向かって飛び出していく。
 気導術を駆使した跳躍は十五メートル間を見事渡りきる。

「おい、掴まれ!」

 しかし、春明はそれに気がついていない。
 やってくるシリウスを受け止めようと端まで近づき身を乗り出す。

「あっ」

 桜下が声を漏らした時にはすでに遅かった。

「そこどいて!」

 咄嗟にシリウスが叫ぶも、勢いは止められない。
 二人は正面から衝突し、着地と共に床を転がっていく。

 カツン。

 その衝撃で、何かが落ちる音が床に響く。
 シリウスと春明にその音は届いていない。

「……っ!」

 唯一、桜下だけが危機的状況に気がつく。

 黒い猿の面が、春明の腰からほどけてしまっていた。

 猿面は悠然とゆっくり回転し、柵の間を通り過ぎようとする。
 桜下が取りに向かうも、すでに柵から落ちる寸前。間に合わないのは充分承知だった。

 しかし、落下する刹那の間際、猿の碧緑の瞳と桜下の黒い視線が交差する。


 手を伸ばしても、もう遅い。
 それでも、まだ手はある。


 桜下の思考は、ただ、猿面をすくい取ることだけに集中された。


「春明! 飛び出しちゃ危ないよ! ほら金箍棒はめて!」
「いてて……ロケットかよ、お前は……」

 一方、シリウスが転倒の間際かばったことで春明は怪我を負わずに済む。
 転倒の際、春明の耳から溢れ落ちそうだった金箍棒をシリウスはすかさず回収する。

 だが、転倒時に床のホコリで春明が身にまとう白い衣装は所々灰色に汚れてしまっていた。

「……」

 春明はバツの悪い表情を浮かべながら。
 受け取った金箍棒を耳にはめ直し、シリウスの手を借りて立ち上がる。
 衣装の状態を再度確認する春明の横で、シリウスもまた後悔の念に駆られる。

 もう少し着地の場所をずらせば、と考えが渦巻く中、

「春明、お面は……?」

 春明の腰に括り付けられていた猿面が無くなっていた。
 シリウスの問いかけに春明はハッと後ろを振り返る。

「今ので落とした……」

 辺りを見渡しても黒い猿面は見つからず、春明の声は震えていた。
 千年以上、代々伝わる舞面が妖魔の渦の中に落としてしまう。

「……っ」

 情けない。

 少年は事実を受け止めきれず、立ちすくむ。
 思考が凍結し、何も考えたくなかった。

「春明、春明」

 シリウスはなんとか春明を呼びかけるも、全く応じてくれる気配がない。

 何故自分の勘が働かなかったか、その疑問を探すよりこれからをどうするか考えるのが先決だった。
 けれど、改めて辺りを見渡しても、目立ったものは存在しない。

 愕然とうなだれる春明に、シリウスの打つ手がない。

「春明君」

 すると、桜下がシリウスの横に立ち、彼の名を呼びかける。

「オレはバカだ」

 後ろから聞こえる優しい声に、春明は振り返らずにただ声だけを返した。

「シリウスが飛び込んできたのが見えて咄嗟に乗り出しちまった。ちゃんと届いていたのにさ」

 うろんだ瞳で虚空を見つめても何も映らなかった。

 実力がないくせに、前に出ようとする。
 混天大聖には遠く及ばない。

 長年言われ続けた負の蓄積、絞り出した感情が春明の心を淀み濁していく。

「ここまで来たのに、あげく舞面を落とすとか、だっせぇ……」

 その淀みが、彼の吐く『ださい』という言葉だった。

 自分の身勝手な行動が阿部家の伝統を一つ失う結末に陥る。
 そして、桜下とシリウスが導いてくれた道のりチャンスを台無しにしてしまう。
 春明は足手まといの自分に、爪が食い込むほど手を強く握りしめた。

「ほんと、だっせえ……」
「ださくないよ」

 凛とした一筋の声に春明はゆっくりと振り返る。
 彼の培った実力は土地の霊力に安寧を与えている。
 誉れある事実を、桜下は結界を通じて熟知していた。

「ここまで来た貴方のことを、私はださいなんて思わない」

 夜空のように黒く、澄んだ眼差しが春明を射抜く。
 
「けれど、大先生の糸には感謝してね」

 桜下はゆっくりと歩み寄り、手にしたものを春明に差し出す。


 黒く磨かれた猿の面は鮮やかに緑の目を見開き、
 常に現実を直視する。


「……っ!」

 春明は目を大きくさせながら猿面を見つめ、両手でしっかり受け止めた。

「……よかった……ほんとに、落ちなくて」

 途切れながら安堵の声を紡いでいく。
 彼の瞳に光が宿り、今度こそ落とさないよう、猿面を腰紐に固くくくりつける。

 白を基調とした衣装に映える黒い猿の面。
 己の存在を誇張させるように、猿面は春明の腰に装着された。

「……悪い、心配かけた」

 緋色に燃える髪を揺らしながら、春明は二人と向き合い頭を下げる。
 それを見たシリウスは、謝罪する春明に肩を置いた。

「春明はさ、僕を助けたいって思って手を伸ばしてくれたんでしょう?」

 広く大きなシリウスの手の平は暖かく、春明の心に寄り添っていく。
 春明が顔を上げると、シリウスが笑みを浮かべる。

「ありがとう、すっごく嬉しいや」
「……やっぱり、お前のその顔見るとイラッとする」
「エェー、何でぇー」

 わざとらしい態度のシリウスに、春明は彼の横腹を何度も叩く。
 けれど彼ら二人は、青春らしさを滲ませながら自然と口角が上がっていた。

「やっぱり、あの二人仲がいいね」
「お前さぁ……」
「うん?」
「いや、いい」

 二人の青春を見守る青年と、深いため息を漏らす相棒の蜘蛛。
 彼らの背後に位置する数値計は、変わらず『80』と示されていた。
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