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1巻
1-3
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こんな最中に彼の下の名前を呼ぶのは恥ずかしい。だからできるだけ呼ばないようにしているのに、湊はそれを知ってか逆に呼ばせようとする。
「湊のが欲しいの!」
素直に名前を呼んだのに、彼は笑みを浮かべると中と外とを同時に嬲り始めた。
感じる場所を知りつくした指は遠慮なく中の上部をこすりあげ、同時に膨らんだ芽を撫で続ける。
恵茉はたまらず脚を伸ばした。
彼の指をきゅっと締めつけて離さず、まるで自ら貪欲に快感を求めるように。
淫らに体を跳ねさせながら卑猥な声をあげて、恵茉は欲しかったものとは違うものでイかされ続けた。
「つ、つみくん、意地悪よ……」
激しく達して快楽で滲む涙を拭いながら恵茉は湊を詰った。批難しているのに甘えた口調になっているのが自分でもわかる。
「湊、だろう。恵茉が最初から素直に名前を呼ばないからだ」
湊はさらに羞恥を煽るように、恵茉の蜜に塗れた指をいやらしく舐めた。
「だって……」
私は彼女じゃないもの、という言葉を呑み込んだ。
こんな風に追い詰めてくる彼が嫌でたまらない。それなのに湊は優しい笑みを浮かべて、涙を流す恵茉の眦にキスを落とす。
頬に張りついた髪を優しくよける指先にさえ体は震えて、恵茉は顔を背けた。
それを阻むように湊は唇を塞ぐ。舌はすぐに恵茉の口内に入り込んでくる。躾けられたせいで恵茉も素直に舌を絡めた。自分の蜜を舐めていた姿を思い出して複雑な気分になったものの、それはいつもと同じ唾液の味に戻っていく。
敏感になってどこを触られても反応する恵茉に構わず湊は触れ続けた。いやらしいのか優しいのかわからない手つきは、呆気なく恵茉をふたたび快感の海へ引き戻していく。
欲しいものはまだ得られていない。彼の硬いものが肌にあたる感覚に体が震えた。
「あっ! ああんっ」
いつのまに避妊具をつけたのか、いきなり奥に打ち込まれて恵茉は声をあげた。
切なかった部分が埋められたのに、今度はその奥がさらなる快楽を求めて蠢く。
この男の目にはきっと、いやらしく喜ぶ自分が映っているのだろう。
「はっ……きつっ」
湊はゆっくりと腰を動かす。そうしながら恵茉の頬を両手で固定すると目を合わせた。
「おまえの中に入っているの、誰?」
自分の存在を強調するかのような問い。
恵茉はためらいつつもそれに答えた。
「湊」
情事の最中にしか呼ばない名前。
頭の中でもなぞることのないその言葉が縛りつける楔になる。
ゆるゆると引き抜かれては奥へ突っ込まれる。繰り返される緩慢な動きは、敏感に作り替えられた体に甘い痺れを運んでくる。
彼の形を、覚え込ませるかのように。
引き抜かれるごとに追いかけようとする自分の内側のうねりを忘れさせないように。
「しがみついて、離れねーな」
「言わ、ないで」
「欲しくてたまらないってひくついている。恵茉、いやらしいよ」
湊は目を細めてそう言った。
汗で湿った前髪の奥で軽く眉間に寄せられた皺に、彼が感じているのだと思えた。
恵茉の中に入ったまま湊は首筋に舌を這わせた。同時に彼の手が恵茉の胸をまさぐる。下から持ち上げるように揉んでは、その先端を指先で挟んでこすりつける。
腰の動きを速めて、湊は恵茉の体を揺さぶった。
だらしなく半開きになる口からはいやらしい喘ぎが響き、揺さぶられるごとに淫らに胸が動く。
もっと奥へと湊自身を引き込むように、恵茉は湊の背中に脚をまわして自らもまた腰を揺らし続けた。
彼に乱されるのであれば、いっそ卑猥な自分を彼に刻みつけたい。
かすかにあった羞恥心を欲望に塗り替えて、恵茉は誰の前でも見せたことのない痴態を湊に見せつけた。
湊に抱かれた後は全身がだるくてたまらない。
ずっと水の中にいたような浮遊感に包まれ、いっそこのまま微睡んでしまいたくなる。
湊は使用済みの避妊具を片づけて戻ってくると、ふたたび恵茉を腕の中に閉じ込めた。
終わると抱きしめるのはこの男の癖なのだろうかと思うこともある。
恋人だったら軽くおしゃべりをして、キスをして、そのまま自然に眠りについて朝を迎えるのかもしれない。
恵茉は乱れた髪をかきあげて、なんとか体を起こした。
「帰るのか?」
「ええ」
「帰れるのか?」
その言葉に恵茉は湊を睨んだ。そして腰に巻きついていた腕を離す。
「明日は仕事なのよ。もう少し手加減して」
「だから朝まで休めばいいだろう?」
暗に始発で帰れと湊は言っているのだろうが、そんな風にバタバタと朝から慌てるようなみっともない真似をするのは嫌だ。
いつもと同じように服や下着を集めバスルームに飛び込む。
心地よい倦怠感とは裏腹に、切なさに満たされた胸の痛みに恵茉は蓋をした。
* * *
大学の同級生である駒田麻耶に誘われて、恵茉は今夜レストランのワイン会に参加した。
ワイン好きが高じてソムリエのセミナーに通うようになった麻耶は、そこで知り合った男性たちとの相席をセッティングしてくれたのだ。
おいしい料理と、料理に合わせて提供されるワイン。
最初はかしこまっていた雰囲気も、ワインを楽しんでいるうちに酔いも加わって、フランクなものに変化していった。
ワイン初心者の恵茉は、ボルドーとブルゴーニュの簡単な違いしかわからなかったが、麻耶はヴィンテージがどうとか、右岸と左岸でどう違うとか語っていて、今付き合っている男に随分影響を受けているのが見てとれた。
そうしてワイン会を終えて、男性たちの社交辞令の誘いをかわして、二人でバーに飲み直しにきたのだ。
案内された部屋の席は奥まっておりカウンターも薄暗いからか、麻耶は今夜の戦利品ともいえる名刺を恵茉から奪い取ると、トランプのカードのように広げた。
「うーん、どれが誰だったか区別がつかないわね」
ワインを飲んですでにほろ酔いかげんなのに、会社名や部署や肩書、裏にプライベートの連絡先が書いてあるかどうかまで細かくチェックしている。
「気に入った男いた?」
「……どうかな」
今夜出会った男たちの顔を、恵茉は思い浮かべた。
一緒になったテーブルで一人だけ恵茉と同じようにワインに詳しくない男性がいた。恵茉同様ワイン好きの友人に誘われて来たのだというその男性とは、ワインについて語れない分、料理についてコメントし合って話が弾んだ。
恵茉と同年代だったけれど、少し高城に雰囲気が似ていた。
ワイングラスを手にする神経質そうな指を見て、それがどんな風に触れるか想像した。
この男に抱かれてもいいか、触れられても嫌じゃないか。
恵茉はいつしかそんな判断基準で男を選別している。
両想いの相手でないと付き合えないとか、セックスできないとか、そんな初心な感情はとっくの昔にどこかにいっている。
「ねえ、今回もやっぱり同期くんとやっているの?」
名刺をまとめて恵茉のバッグの中にしまうと、麻耶がおもむろに切り出してきた。
湊との関係は褒められたものではない。だから女友達といえども話す相手は限られる。
過去、不倫経験のある麻耶だから、恋人でもない男との関係をついこぼしてしまった。
それは自分一人で抱え込めるほどの覚悟がない、卑怯な女だという証拠でもある。
恵茉はワインの後に飲むには似つかわしくない、甘めのロングカクテルのグラスに口をつけた。
その態度だけで麻耶は正解を導いたようだ。
「いっそ付き合えば?」
「彼女いる」
麻耶が小さく肩をすくめた。
「その男も恵茉が別れるたびに誘いをかけてくるなんて、どういうつもりなんだろうねえ」
「本当、どういうつもりなんだか」
「聞いてみれば?」
身も蓋もない言葉に恵茉は彼女を軽く睨んだ。
聞いてみようと何度も思った。でも同じぐらい聞いてどうするのだとも思うのだ。
どうせ『ただ単にセックスをしたいから』とか『都合がいいから』とかいった理由でしかない。
あの男なら『大人の付き合いをお互い楽しめればいいだろう?』ぐらいのことは言いそうな気がする。
たとえもし『好きだから、抱いている』なんて言われたとしても信憑性など一切ない。
せいぜい情事の最中の睦言か、都合のいい存在を引き留めるための戯言かと思うだけだ。
なぜなら、湊が付き合う女たちと恵茉はまったくタイプが違う。
不毛な関係を繰り返してきたことからも、本命になれないのは明らかだ。
「まあでも、拒まない恵茉にも責任の一端はあるんだろうけどね」
女友達の容赦のない言葉がぐさりと胸に突き刺さる。
恵茉はなんの反論もできずにグラスに口をつけた。水でも飲むような勢いでごくごくと中身を飲み干す。
麻耶の言う通り恵茉が拒否をすれば、そもそもこんな関係は始まりさえしていなかっただろう。
恵茉が拒めばきっと、湊は『そう』と一言言ってすんなり引き下がるに違いない。そして自分たちの関係はあっけなく終わってしまう。
(拒まない……責任)
拒まない理由なんかはっきりしている。
湊に抱かれたいから断らない。彼と少しでも一緒にいたいから浮気相手として応じている。
次の恋人ができるまでの繋ぎと言えれば遊び慣れた女みたいだけれど。
本当は逆。
彼の一番になることができないとわかっているから、二番目でもいいと思っている自分がいるだけ。そう『二番目』。
『一番』にはなれないけれど『二番』にはなれる。
麻耶は恵茉の様子に小さくため息をつくと、空になった恵茉のグラスを揺らしておかわりを頼んでくれた。
「永遠に浮気相手でいれば、一緒にいられるのかな?」
「本命になりたいから、今夜だって来たんでしょう?」
麻耶はすぐさま恵茉の言葉を否定する。
「浮気相手は浮気相手、所詮本命にはなれないのよ」
いつもと同じ台詞を麻耶は穏やかに呟いた。
そんな忠告をしても、恵茉が関係を絶ち切れないことはわかっているから、静かに言い聞かせるような優しい口調で。
『やめなよ』、そう言われてやめられる関係なら始まったりはしない。
止めても無駄だとわかっていても『やめたほうがいい』と言い続けるのが麻耶の優しさで、それがわかるから恵茉も新たな恋を見つけようと必死になる。
ホールの中央にかかげられたアーティチョーク型の照明が、心に刺さる刃みたいにきらめいて見えた。
* * *
ランチ後の職場のパウダールームは、噂話に花を咲かせるには好都合の場所だ。
それが嫌で恵茉はいつも空いているフロアまで足を延ばす。しかし今日は珍しく恵茉の後から女子社員が数人入ってきた。
四つある鏡はすべて女たちの顔で埋めつくされる。
気まずい思いをしつつ途中でやめるわけにもいかなくて、恵茉はメイク直しを続けた。
年齢のせいか、乾燥している職場環境のせいか、こうして途中で潤いを与えないと夕方までもたない。
「さっき見た? S社から来たお遣いの子。海外事業部の堤さんの彼女なんだって」
「あ、だから堤さん彼女を送っていったんだ。もしかして今頃二人でランチ?」
「それを見た私の後輩、泣きそうになってた。でも堤さん、社内の女の子とは付き合わないから、あきらめればって言っているんだけどね」
恵茉は最後の仕上げに口紅を塗り終えると、ポーチにメイク道具をしまった。さも、なにも聞いていないような無関心さを装って木目調の扉をあける。
そういえば企画部の――と、話題は別の人へと変わっていった。
湊の噂話を聞くと複雑な心境になる。
彼とは部署が異なるし仕事上の接点もあまりないので、自分と湊が同期だとは彼女たちも知らないのだろう。
『社内の子とは付き合わない』、そんな噂が広がっているためか、彼に興味や関心を抱いたとしても女の子たちはあまり表だって騒いだりはしない。
相手にされないことがわかっているからだ。
『社内の女と浮気はするけどね』と恵茉は心の中でぼやいた。
恋人がいながら浮気をするろくでもない男だなんて、彼女たちは想像もしていないだろう。
(そう、ろくでもない男なのよ)
そして浮気相手になっている自分もろくでもない女だ。
裏切られているとも知らないで、湊の恋人は楽しいランチタイムを過ごしたのだろうか。
見たこともないくせに、明るくて素直で甘え上手な女の子らしい恋人の姿が想像できてしまう。
エレベーターを降りて出たところで、恵茉は何気なく窓の外を眺めた。
サークル状に並んだレンガのグラデーションと、うまい具合に配置された銀杏の木とのバランスが好きで、恵茉はいつもその公園を見てしまう。
地下鉄の駅に下りる階段の入り口あたりで軽く手を振る女の子と、それを見送る男とが目に入って恵茉は歩みを止めた。
明るい茶色の髪は毛先だけが軽く内に巻いている。オフホワイトの丈の短いジャケットに花柄のスカートがふんわり広がる。
見るからに甘めな砂糖菓子みたいな雰囲気。
湊はしばらくそこに立ちすくんでいたけれど、ゆっくりとその場を離れた。
彼女が階段を下りきるまで見送ったのだと気づいた瞬間、恵茉は昨夜きた男からのメッセージに返事をしようと決めた。
* * *
男と女が付き合い始めるのなんて本当は簡単だ。
気になる相手がいれば食事に誘う。いい雰囲気で過ごせたらメッセージのやりとりをして、次に会う約束をする。そうして何度かデートを重ねていけばキスぐらいする。それが嫌じゃなければベッドまでいくのにたいして時間はかからない。
二人の関係のはじまりをいちいち言葉にしなくても、自分の気持ちに名前がなくても、いつのまにか付き合いは始まって問題がなければ続いていくものだ。
そのうち恋愛感情が芽生えるのか、なんの感情も伴わないまま終わるのかは、男としばらく過ごしてみなければわからない。
恵茉はワイン会で自分に興味を持ってくれた男からのメッセージに返事をした。
すぐに食事をする日程が決まって、恵茉は今、ワイン会で出会いながらワインに詳しくないという共通点のあった男――中野啓一と二人で食事に来ていた。
ワイン会の時からいい人だなとは感じていた。
ワインのことなど知らずともそういう場所を楽しめる柔軟性とか、穏やかに話す口調だとか、綺麗な食事の仕方だとかに好感を覚えた。
恵茉は空になった相手のグラスにビールを注いだ。啓一はコップを傾けて、さりげない気遣いを見せる。
「早川さんも、おかわりは?」
残り少なくなった恵茉のグラスを見て彼は切り出した。
一重の細い眼は真摯に恵茉を見つめ、優しそうな雰囲気が全体に滲み出ている。
「じゃあまた同じものを」
恵茉が答えると、啓一はすぐにスタッフに飲み物を頼んでくれた。
これまで恵茉が付き合ってきた男性は年上が多く、しっかりして落ち着いてどこか余裕のある、女性慣れしたタイプだった。
啓一は少し頼りなげな感じだが、穏やかで控えめで同年代ということもあってか気が楽だ。考えてみれば湊以外の同年代の男性と深く関わるのも初めてだと思った。
ワイン会で出会った友人たちの話から始まって、仕事の話へと移り変わる。当たり障りのない話題を広げてさりげなく互いの情報収集をする。
興味のあるものの傾向が似ているとか、価値観にずれがないとかそんなことまで確かめる。
(あざといな……)
恵茉はそう自分のことを評価した。
けれど大概の女性は自分と同じはずだとも開き直る。
出会った瞬間ビビビッときただの、キラキラして見えただの、この人だと確信しただのそんな経験をする人は一握りだと思う。
話していくうちにだんだん敬語が消えて、親しげな口調が混ざるようになる。
同年代の気安さは恋人というより友人のような空気を生み出している気もした。
帰り際の支払いで割り勘を申し出れば、啓一は「僕が誘ったんだから今夜は奢らせて」と言った。
恵茉もここは彼の顔を立てるべきだろうと甘えることにした。
お礼を伝えて店を出ると、駅までの道を二人並んで歩く。
さっきまで話が盛り上がっていたのに、今は嘘のように無言だった。
なにか話題をとも思うのにわざとらしい気がしてなにも言えない。
男と女の駆け引きの時間。
恵茉は大通りを行き交う車の流れを見つめることで小さな緊張をそらす。
このまま駅に着いてすんなり別れるのか、それとも誘いをかけられるのか。
二人きりでの食事に応じていながら、そうなったらどうなるかこの先を予想していながら、この期に及んで自分がどちらを望んでいるのかわからなかった。
「これからどうしますか? もしよかったらもう一軒行きませんか?」
駅への道を曲がったところで啓一が誘いの言葉を放つ。
自然に歩みが止まった。
敬語に戻った台詞に、彼の緊張が伝わってきた。
メッセージでやりとりをしていた時から遠慮がちな部分を感じていたけれど、こうして実際に会うと彼のぎこちない一生懸命さが伝わってくる。
「いいですよ」、そう言えばきっと彼はほっとして笑みを浮かべるかもしれない。そして自分たちの関係が一歩進むだろうことは経験からも想像できた。
これまでと同様、啓一との時間を少しずつ増やしていって、湊との時間を減らしていけばいいだけだ。
啓一との関係が深まっていけば、自ずと湊との距離は離れていく。
そのために今、恵茉はこの場所にいる。
それなのに恵茉はなんの言葉も発することができなかった。
啓一はかすかに探るような視線を恵茉に向けた。そしてすぐにふっと息を吐いて肩の力を抜く。
「やっぱり今夜は帰りましょう。駅まで送ります」
啓一は明るい声でそう言ってくれた。
きっと恵茉の戸惑いに気づいて、気に病むことのないよう気遣ってくれたのだと思った。
ふたたび歩き始めた啓一に合わせて、恵茉も足を進めた。
「また連絡してもいいですか?」
その言葉にはすぐに頷く。
ずるいな、と自分でも思う。
啓一はおそらくいい人だ。そして恵茉に興味を持ってくれている。
そんな彼を、湊と距離を置くために利用している。
それでもいつも一縷の期待を抱いてもいるのだ。
もしかしたら湊以上に、この人を好きになれるかもしれないと、好きになれればいいと思っている。
「私からも連絡していいですか?」
だから自分からも歩み寄る。
「もちろん。いつでも連絡して」
嬉しそうにほほ笑んだ啓一の表情には、駆け引きも裏も見えなかった。
* * *
三か月に一度ぐらいのペースで、恵茉たちは同期会という名の飲み会を行う。社内でも仲がいいと評判なため、他の社員からは羨ましがられるほどだ。
同期入社といえども部署が同じになるか仕事で関わりがなければ、滅多に顔を合わせることはない。同期会は互いの部署の情報交換を兼ねていることもあって、結婚や妊娠といったイベントを経ても出席率は高かった。
前回は、この同期会の幹事役である大谷翔の結婚式の二次会を兼ねて実施したので、気楽な飲み会は半年ぶりだ。
店員に案内された障子をあけると、すでにメンバーはあらかたそろっているようだった。恵茉はさりげなく今夜の出席者を確認した。
髪を短く切って精悍さを増した翔の周囲はいつものように盛り上がっている。すぐ隣には、冷めた様子で輪の中にいる湊の姿もあった。
恵茉は空いていた端の席にこっそり腰を下ろした。
同期の飲み会であるがゆえに始まりも終わりも曖昧だ。途中から来ようと帰ろうと会費さえ払えば制約はない。
そんな気楽な部分がこの会が続く理由だろう。
テーブルにはすでに料理が並べられていて、恵茉はとりあえず食べようと取り皿へと手を伸ばした。
「恵茉、久しぶり! はい、ビールでいいよね?」
挨拶も早々に、同期の中でも仲のいい友人が、手にしていたビールのグラスを差し出した。恵茉は苦笑しつつそれを受け取る。
「久しぶり。元気そうね」
「まあ、元気と言えば元気だけど」
彼女は恵茉の隣に座ると、そう言うなりビールを半分ほど飲んでしまう。
翔の周囲で「わあっ」という歓声とともに「おめでとう」と言い合う声が響く。グラスを打ちつけて乾杯を交わす様子に恵茉が目を向けると「ついに彼も結婚だって」と、友人が妬ましそうに教えてくれた。
「あの遠距離していた彼女?」
「そうみたい。大谷くんに続いて彼もだなんてね。まだ私たち二十八なのに、独身組がだんだん減っていく……」
彼女の飲むペースが早いのはそのせいかと、残りのビールを勢いよく飲み干すのを見て思った。
「恵茉は抜け駆けしたりしないわよね」
まだ、飲み始めて間もないだろうに目を据わらせて絡んでくる。
以前は短かった髪が今は肩まで伸びて、雰囲気が随分女っぽくなった。
女性としての変化が著しい年齢なんだなと友人を見ていると思う。少しは自分も大人の女性として成長しているのかと振り返ってみても自信はない。
「そんな予定があったら、ここにはこないわよ」
「そうよね、貴重な三連休前の金曜の夜に同期の集まりになんてこないわよね」
「言えている」
本音半分で恵茉が答えると、「同士ー」と言って抱きついてきた。
三連休、恋人でもいれば二人で予定を合わせて旅行に出かけるのかもしれない。でも恵茉にいるのは、恋人未満の曖昧な相手とセフレという虚しい存在だけだ。
「プロポーズの言葉は?」なんて幸せそうな質問を受けて、頬を染めている男との差は歴然。
そのまま視線をずらすと、湊は翔となにやら楽しげに談笑している。
二人は最初の配属部署が一緒だったせいか意外に仲がいい。
体育会系で体格も面倒見もいい翔と、要領よく立ち回りそつなくこなす湊とはどこか相反するように思えるのに。
結婚した翔、婚約したらしい同期の男、そして恋人のいる湊――男連中ばかり幸せそうで、恵茉も友人のペースに合わせてアルコールを飲んだ。
テーブルに並んだ料理を適当に取り皿にのせながら、彼女の近況兼愚痴を聞く。
どうやらつい最近まで付き合っていた相手と別れたばかりのようで「男なんかもういい! 仕事に生きる」なんてリスキーな発言をしている。
結婚適齢期なんて誰が言い出したのか。
おかげで周囲に結婚していく同期が増えていけばいくほど、嫌でも焦燥感を抱かずにはいられない。
友人は愚痴りながら瓶ビールを手にして手酌で注ぎ足していく。ついでに恵茉のグラスにも注いでくれる。
少し自棄になったような飲み方に付き合ううちに、恵茉もいつもより飲むペースが速くなった。
「湊のが欲しいの!」
素直に名前を呼んだのに、彼は笑みを浮かべると中と外とを同時に嬲り始めた。
感じる場所を知りつくした指は遠慮なく中の上部をこすりあげ、同時に膨らんだ芽を撫で続ける。
恵茉はたまらず脚を伸ばした。
彼の指をきゅっと締めつけて離さず、まるで自ら貪欲に快感を求めるように。
淫らに体を跳ねさせながら卑猥な声をあげて、恵茉は欲しかったものとは違うものでイかされ続けた。
「つ、つみくん、意地悪よ……」
激しく達して快楽で滲む涙を拭いながら恵茉は湊を詰った。批難しているのに甘えた口調になっているのが自分でもわかる。
「湊、だろう。恵茉が最初から素直に名前を呼ばないからだ」
湊はさらに羞恥を煽るように、恵茉の蜜に塗れた指をいやらしく舐めた。
「だって……」
私は彼女じゃないもの、という言葉を呑み込んだ。
こんな風に追い詰めてくる彼が嫌でたまらない。それなのに湊は優しい笑みを浮かべて、涙を流す恵茉の眦にキスを落とす。
頬に張りついた髪を優しくよける指先にさえ体は震えて、恵茉は顔を背けた。
それを阻むように湊は唇を塞ぐ。舌はすぐに恵茉の口内に入り込んでくる。躾けられたせいで恵茉も素直に舌を絡めた。自分の蜜を舐めていた姿を思い出して複雑な気分になったものの、それはいつもと同じ唾液の味に戻っていく。
敏感になってどこを触られても反応する恵茉に構わず湊は触れ続けた。いやらしいのか優しいのかわからない手つきは、呆気なく恵茉をふたたび快感の海へ引き戻していく。
欲しいものはまだ得られていない。彼の硬いものが肌にあたる感覚に体が震えた。
「あっ! ああんっ」
いつのまに避妊具をつけたのか、いきなり奥に打ち込まれて恵茉は声をあげた。
切なかった部分が埋められたのに、今度はその奥がさらなる快楽を求めて蠢く。
この男の目にはきっと、いやらしく喜ぶ自分が映っているのだろう。
「はっ……きつっ」
湊はゆっくりと腰を動かす。そうしながら恵茉の頬を両手で固定すると目を合わせた。
「おまえの中に入っているの、誰?」
自分の存在を強調するかのような問い。
恵茉はためらいつつもそれに答えた。
「湊」
情事の最中にしか呼ばない名前。
頭の中でもなぞることのないその言葉が縛りつける楔になる。
ゆるゆると引き抜かれては奥へ突っ込まれる。繰り返される緩慢な動きは、敏感に作り替えられた体に甘い痺れを運んでくる。
彼の形を、覚え込ませるかのように。
引き抜かれるごとに追いかけようとする自分の内側のうねりを忘れさせないように。
「しがみついて、離れねーな」
「言わ、ないで」
「欲しくてたまらないってひくついている。恵茉、いやらしいよ」
湊は目を細めてそう言った。
汗で湿った前髪の奥で軽く眉間に寄せられた皺に、彼が感じているのだと思えた。
恵茉の中に入ったまま湊は首筋に舌を這わせた。同時に彼の手が恵茉の胸をまさぐる。下から持ち上げるように揉んでは、その先端を指先で挟んでこすりつける。
腰の動きを速めて、湊は恵茉の体を揺さぶった。
だらしなく半開きになる口からはいやらしい喘ぎが響き、揺さぶられるごとに淫らに胸が動く。
もっと奥へと湊自身を引き込むように、恵茉は湊の背中に脚をまわして自らもまた腰を揺らし続けた。
彼に乱されるのであれば、いっそ卑猥な自分を彼に刻みつけたい。
かすかにあった羞恥心を欲望に塗り替えて、恵茉は誰の前でも見せたことのない痴態を湊に見せつけた。
湊に抱かれた後は全身がだるくてたまらない。
ずっと水の中にいたような浮遊感に包まれ、いっそこのまま微睡んでしまいたくなる。
湊は使用済みの避妊具を片づけて戻ってくると、ふたたび恵茉を腕の中に閉じ込めた。
終わると抱きしめるのはこの男の癖なのだろうかと思うこともある。
恋人だったら軽くおしゃべりをして、キスをして、そのまま自然に眠りについて朝を迎えるのかもしれない。
恵茉は乱れた髪をかきあげて、なんとか体を起こした。
「帰るのか?」
「ええ」
「帰れるのか?」
その言葉に恵茉は湊を睨んだ。そして腰に巻きついていた腕を離す。
「明日は仕事なのよ。もう少し手加減して」
「だから朝まで休めばいいだろう?」
暗に始発で帰れと湊は言っているのだろうが、そんな風にバタバタと朝から慌てるようなみっともない真似をするのは嫌だ。
いつもと同じように服や下着を集めバスルームに飛び込む。
心地よい倦怠感とは裏腹に、切なさに満たされた胸の痛みに恵茉は蓋をした。
* * *
大学の同級生である駒田麻耶に誘われて、恵茉は今夜レストランのワイン会に参加した。
ワイン好きが高じてソムリエのセミナーに通うようになった麻耶は、そこで知り合った男性たちとの相席をセッティングしてくれたのだ。
おいしい料理と、料理に合わせて提供されるワイン。
最初はかしこまっていた雰囲気も、ワインを楽しんでいるうちに酔いも加わって、フランクなものに変化していった。
ワイン初心者の恵茉は、ボルドーとブルゴーニュの簡単な違いしかわからなかったが、麻耶はヴィンテージがどうとか、右岸と左岸でどう違うとか語っていて、今付き合っている男に随分影響を受けているのが見てとれた。
そうしてワイン会を終えて、男性たちの社交辞令の誘いをかわして、二人でバーに飲み直しにきたのだ。
案内された部屋の席は奥まっておりカウンターも薄暗いからか、麻耶は今夜の戦利品ともいえる名刺を恵茉から奪い取ると、トランプのカードのように広げた。
「うーん、どれが誰だったか区別がつかないわね」
ワインを飲んですでにほろ酔いかげんなのに、会社名や部署や肩書、裏にプライベートの連絡先が書いてあるかどうかまで細かくチェックしている。
「気に入った男いた?」
「……どうかな」
今夜出会った男たちの顔を、恵茉は思い浮かべた。
一緒になったテーブルで一人だけ恵茉と同じようにワインに詳しくない男性がいた。恵茉同様ワイン好きの友人に誘われて来たのだというその男性とは、ワインについて語れない分、料理についてコメントし合って話が弾んだ。
恵茉と同年代だったけれど、少し高城に雰囲気が似ていた。
ワイングラスを手にする神経質そうな指を見て、それがどんな風に触れるか想像した。
この男に抱かれてもいいか、触れられても嫌じゃないか。
恵茉はいつしかそんな判断基準で男を選別している。
両想いの相手でないと付き合えないとか、セックスできないとか、そんな初心な感情はとっくの昔にどこかにいっている。
「ねえ、今回もやっぱり同期くんとやっているの?」
名刺をまとめて恵茉のバッグの中にしまうと、麻耶がおもむろに切り出してきた。
湊との関係は褒められたものではない。だから女友達といえども話す相手は限られる。
過去、不倫経験のある麻耶だから、恋人でもない男との関係をついこぼしてしまった。
それは自分一人で抱え込めるほどの覚悟がない、卑怯な女だという証拠でもある。
恵茉はワインの後に飲むには似つかわしくない、甘めのロングカクテルのグラスに口をつけた。
その態度だけで麻耶は正解を導いたようだ。
「いっそ付き合えば?」
「彼女いる」
麻耶が小さく肩をすくめた。
「その男も恵茉が別れるたびに誘いをかけてくるなんて、どういうつもりなんだろうねえ」
「本当、どういうつもりなんだか」
「聞いてみれば?」
身も蓋もない言葉に恵茉は彼女を軽く睨んだ。
聞いてみようと何度も思った。でも同じぐらい聞いてどうするのだとも思うのだ。
どうせ『ただ単にセックスをしたいから』とか『都合がいいから』とかいった理由でしかない。
あの男なら『大人の付き合いをお互い楽しめればいいだろう?』ぐらいのことは言いそうな気がする。
たとえもし『好きだから、抱いている』なんて言われたとしても信憑性など一切ない。
せいぜい情事の最中の睦言か、都合のいい存在を引き留めるための戯言かと思うだけだ。
なぜなら、湊が付き合う女たちと恵茉はまったくタイプが違う。
不毛な関係を繰り返してきたことからも、本命になれないのは明らかだ。
「まあでも、拒まない恵茉にも責任の一端はあるんだろうけどね」
女友達の容赦のない言葉がぐさりと胸に突き刺さる。
恵茉はなんの反論もできずにグラスに口をつけた。水でも飲むような勢いでごくごくと中身を飲み干す。
麻耶の言う通り恵茉が拒否をすれば、そもそもこんな関係は始まりさえしていなかっただろう。
恵茉が拒めばきっと、湊は『そう』と一言言ってすんなり引き下がるに違いない。そして自分たちの関係はあっけなく終わってしまう。
(拒まない……責任)
拒まない理由なんかはっきりしている。
湊に抱かれたいから断らない。彼と少しでも一緒にいたいから浮気相手として応じている。
次の恋人ができるまでの繋ぎと言えれば遊び慣れた女みたいだけれど。
本当は逆。
彼の一番になることができないとわかっているから、二番目でもいいと思っている自分がいるだけ。そう『二番目』。
『一番』にはなれないけれど『二番』にはなれる。
麻耶は恵茉の様子に小さくため息をつくと、空になった恵茉のグラスを揺らしておかわりを頼んでくれた。
「永遠に浮気相手でいれば、一緒にいられるのかな?」
「本命になりたいから、今夜だって来たんでしょう?」
麻耶はすぐさま恵茉の言葉を否定する。
「浮気相手は浮気相手、所詮本命にはなれないのよ」
いつもと同じ台詞を麻耶は穏やかに呟いた。
そんな忠告をしても、恵茉が関係を絶ち切れないことはわかっているから、静かに言い聞かせるような優しい口調で。
『やめなよ』、そう言われてやめられる関係なら始まったりはしない。
止めても無駄だとわかっていても『やめたほうがいい』と言い続けるのが麻耶の優しさで、それがわかるから恵茉も新たな恋を見つけようと必死になる。
ホールの中央にかかげられたアーティチョーク型の照明が、心に刺さる刃みたいにきらめいて見えた。
* * *
ランチ後の職場のパウダールームは、噂話に花を咲かせるには好都合の場所だ。
それが嫌で恵茉はいつも空いているフロアまで足を延ばす。しかし今日は珍しく恵茉の後から女子社員が数人入ってきた。
四つある鏡はすべて女たちの顔で埋めつくされる。
気まずい思いをしつつ途中でやめるわけにもいかなくて、恵茉はメイク直しを続けた。
年齢のせいか、乾燥している職場環境のせいか、こうして途中で潤いを与えないと夕方までもたない。
「さっき見た? S社から来たお遣いの子。海外事業部の堤さんの彼女なんだって」
「あ、だから堤さん彼女を送っていったんだ。もしかして今頃二人でランチ?」
「それを見た私の後輩、泣きそうになってた。でも堤さん、社内の女の子とは付き合わないから、あきらめればって言っているんだけどね」
恵茉は最後の仕上げに口紅を塗り終えると、ポーチにメイク道具をしまった。さも、なにも聞いていないような無関心さを装って木目調の扉をあける。
そういえば企画部の――と、話題は別の人へと変わっていった。
湊の噂話を聞くと複雑な心境になる。
彼とは部署が異なるし仕事上の接点もあまりないので、自分と湊が同期だとは彼女たちも知らないのだろう。
『社内の子とは付き合わない』、そんな噂が広がっているためか、彼に興味や関心を抱いたとしても女の子たちはあまり表だって騒いだりはしない。
相手にされないことがわかっているからだ。
『社内の女と浮気はするけどね』と恵茉は心の中でぼやいた。
恋人がいながら浮気をするろくでもない男だなんて、彼女たちは想像もしていないだろう。
(そう、ろくでもない男なのよ)
そして浮気相手になっている自分もろくでもない女だ。
裏切られているとも知らないで、湊の恋人は楽しいランチタイムを過ごしたのだろうか。
見たこともないくせに、明るくて素直で甘え上手な女の子らしい恋人の姿が想像できてしまう。
エレベーターを降りて出たところで、恵茉は何気なく窓の外を眺めた。
サークル状に並んだレンガのグラデーションと、うまい具合に配置された銀杏の木とのバランスが好きで、恵茉はいつもその公園を見てしまう。
地下鉄の駅に下りる階段の入り口あたりで軽く手を振る女の子と、それを見送る男とが目に入って恵茉は歩みを止めた。
明るい茶色の髪は毛先だけが軽く内に巻いている。オフホワイトの丈の短いジャケットに花柄のスカートがふんわり広がる。
見るからに甘めな砂糖菓子みたいな雰囲気。
湊はしばらくそこに立ちすくんでいたけれど、ゆっくりとその場を離れた。
彼女が階段を下りきるまで見送ったのだと気づいた瞬間、恵茉は昨夜きた男からのメッセージに返事をしようと決めた。
* * *
男と女が付き合い始めるのなんて本当は簡単だ。
気になる相手がいれば食事に誘う。いい雰囲気で過ごせたらメッセージのやりとりをして、次に会う約束をする。そうして何度かデートを重ねていけばキスぐらいする。それが嫌じゃなければベッドまでいくのにたいして時間はかからない。
二人の関係のはじまりをいちいち言葉にしなくても、自分の気持ちに名前がなくても、いつのまにか付き合いは始まって問題がなければ続いていくものだ。
そのうち恋愛感情が芽生えるのか、なんの感情も伴わないまま終わるのかは、男としばらく過ごしてみなければわからない。
恵茉はワイン会で自分に興味を持ってくれた男からのメッセージに返事をした。
すぐに食事をする日程が決まって、恵茉は今、ワイン会で出会いながらワインに詳しくないという共通点のあった男――中野啓一と二人で食事に来ていた。
ワイン会の時からいい人だなとは感じていた。
ワインのことなど知らずともそういう場所を楽しめる柔軟性とか、穏やかに話す口調だとか、綺麗な食事の仕方だとかに好感を覚えた。
恵茉は空になった相手のグラスにビールを注いだ。啓一はコップを傾けて、さりげない気遣いを見せる。
「早川さんも、おかわりは?」
残り少なくなった恵茉のグラスを見て彼は切り出した。
一重の細い眼は真摯に恵茉を見つめ、優しそうな雰囲気が全体に滲み出ている。
「じゃあまた同じものを」
恵茉が答えると、啓一はすぐにスタッフに飲み物を頼んでくれた。
これまで恵茉が付き合ってきた男性は年上が多く、しっかりして落ち着いてどこか余裕のある、女性慣れしたタイプだった。
啓一は少し頼りなげな感じだが、穏やかで控えめで同年代ということもあってか気が楽だ。考えてみれば湊以外の同年代の男性と深く関わるのも初めてだと思った。
ワイン会で出会った友人たちの話から始まって、仕事の話へと移り変わる。当たり障りのない話題を広げてさりげなく互いの情報収集をする。
興味のあるものの傾向が似ているとか、価値観にずれがないとかそんなことまで確かめる。
(あざといな……)
恵茉はそう自分のことを評価した。
けれど大概の女性は自分と同じはずだとも開き直る。
出会った瞬間ビビビッときただの、キラキラして見えただの、この人だと確信しただのそんな経験をする人は一握りだと思う。
話していくうちにだんだん敬語が消えて、親しげな口調が混ざるようになる。
同年代の気安さは恋人というより友人のような空気を生み出している気もした。
帰り際の支払いで割り勘を申し出れば、啓一は「僕が誘ったんだから今夜は奢らせて」と言った。
恵茉もここは彼の顔を立てるべきだろうと甘えることにした。
お礼を伝えて店を出ると、駅までの道を二人並んで歩く。
さっきまで話が盛り上がっていたのに、今は嘘のように無言だった。
なにか話題をとも思うのにわざとらしい気がしてなにも言えない。
男と女の駆け引きの時間。
恵茉は大通りを行き交う車の流れを見つめることで小さな緊張をそらす。
このまま駅に着いてすんなり別れるのか、それとも誘いをかけられるのか。
二人きりでの食事に応じていながら、そうなったらどうなるかこの先を予想していながら、この期に及んで自分がどちらを望んでいるのかわからなかった。
「これからどうしますか? もしよかったらもう一軒行きませんか?」
駅への道を曲がったところで啓一が誘いの言葉を放つ。
自然に歩みが止まった。
敬語に戻った台詞に、彼の緊張が伝わってきた。
メッセージでやりとりをしていた時から遠慮がちな部分を感じていたけれど、こうして実際に会うと彼のぎこちない一生懸命さが伝わってくる。
「いいですよ」、そう言えばきっと彼はほっとして笑みを浮かべるかもしれない。そして自分たちの関係が一歩進むだろうことは経験からも想像できた。
これまでと同様、啓一との時間を少しずつ増やしていって、湊との時間を減らしていけばいいだけだ。
啓一との関係が深まっていけば、自ずと湊との距離は離れていく。
そのために今、恵茉はこの場所にいる。
それなのに恵茉はなんの言葉も発することができなかった。
啓一はかすかに探るような視線を恵茉に向けた。そしてすぐにふっと息を吐いて肩の力を抜く。
「やっぱり今夜は帰りましょう。駅まで送ります」
啓一は明るい声でそう言ってくれた。
きっと恵茉の戸惑いに気づいて、気に病むことのないよう気遣ってくれたのだと思った。
ふたたび歩き始めた啓一に合わせて、恵茉も足を進めた。
「また連絡してもいいですか?」
その言葉にはすぐに頷く。
ずるいな、と自分でも思う。
啓一はおそらくいい人だ。そして恵茉に興味を持ってくれている。
そんな彼を、湊と距離を置くために利用している。
それでもいつも一縷の期待を抱いてもいるのだ。
もしかしたら湊以上に、この人を好きになれるかもしれないと、好きになれればいいと思っている。
「私からも連絡していいですか?」
だから自分からも歩み寄る。
「もちろん。いつでも連絡して」
嬉しそうにほほ笑んだ啓一の表情には、駆け引きも裏も見えなかった。
* * *
三か月に一度ぐらいのペースで、恵茉たちは同期会という名の飲み会を行う。社内でも仲がいいと評判なため、他の社員からは羨ましがられるほどだ。
同期入社といえども部署が同じになるか仕事で関わりがなければ、滅多に顔を合わせることはない。同期会は互いの部署の情報交換を兼ねていることもあって、結婚や妊娠といったイベントを経ても出席率は高かった。
前回は、この同期会の幹事役である大谷翔の結婚式の二次会を兼ねて実施したので、気楽な飲み会は半年ぶりだ。
店員に案内された障子をあけると、すでにメンバーはあらかたそろっているようだった。恵茉はさりげなく今夜の出席者を確認した。
髪を短く切って精悍さを増した翔の周囲はいつものように盛り上がっている。すぐ隣には、冷めた様子で輪の中にいる湊の姿もあった。
恵茉は空いていた端の席にこっそり腰を下ろした。
同期の飲み会であるがゆえに始まりも終わりも曖昧だ。途中から来ようと帰ろうと会費さえ払えば制約はない。
そんな気楽な部分がこの会が続く理由だろう。
テーブルにはすでに料理が並べられていて、恵茉はとりあえず食べようと取り皿へと手を伸ばした。
「恵茉、久しぶり! はい、ビールでいいよね?」
挨拶も早々に、同期の中でも仲のいい友人が、手にしていたビールのグラスを差し出した。恵茉は苦笑しつつそれを受け取る。
「久しぶり。元気そうね」
「まあ、元気と言えば元気だけど」
彼女は恵茉の隣に座ると、そう言うなりビールを半分ほど飲んでしまう。
翔の周囲で「わあっ」という歓声とともに「おめでとう」と言い合う声が響く。グラスを打ちつけて乾杯を交わす様子に恵茉が目を向けると「ついに彼も結婚だって」と、友人が妬ましそうに教えてくれた。
「あの遠距離していた彼女?」
「そうみたい。大谷くんに続いて彼もだなんてね。まだ私たち二十八なのに、独身組がだんだん減っていく……」
彼女の飲むペースが早いのはそのせいかと、残りのビールを勢いよく飲み干すのを見て思った。
「恵茉は抜け駆けしたりしないわよね」
まだ、飲み始めて間もないだろうに目を据わらせて絡んでくる。
以前は短かった髪が今は肩まで伸びて、雰囲気が随分女っぽくなった。
女性としての変化が著しい年齢なんだなと友人を見ていると思う。少しは自分も大人の女性として成長しているのかと振り返ってみても自信はない。
「そんな予定があったら、ここにはこないわよ」
「そうよね、貴重な三連休前の金曜の夜に同期の集まりになんてこないわよね」
「言えている」
本音半分で恵茉が答えると、「同士ー」と言って抱きついてきた。
三連休、恋人でもいれば二人で予定を合わせて旅行に出かけるのかもしれない。でも恵茉にいるのは、恋人未満の曖昧な相手とセフレという虚しい存在だけだ。
「プロポーズの言葉は?」なんて幸せそうな質問を受けて、頬を染めている男との差は歴然。
そのまま視線をずらすと、湊は翔となにやら楽しげに談笑している。
二人は最初の配属部署が一緒だったせいか意外に仲がいい。
体育会系で体格も面倒見もいい翔と、要領よく立ち回りそつなくこなす湊とはどこか相反するように思えるのに。
結婚した翔、婚約したらしい同期の男、そして恋人のいる湊――男連中ばかり幸せそうで、恵茉も友人のペースに合わせてアルコールを飲んだ。
テーブルに並んだ料理を適当に取り皿にのせながら、彼女の近況兼愚痴を聞く。
どうやらつい最近まで付き合っていた相手と別れたばかりのようで「男なんかもういい! 仕事に生きる」なんてリスキーな発言をしている。
結婚適齢期なんて誰が言い出したのか。
おかげで周囲に結婚していく同期が増えていけばいくほど、嫌でも焦燥感を抱かずにはいられない。
友人は愚痴りながら瓶ビールを手にして手酌で注ぎ足していく。ついでに恵茉のグラスにも注いでくれる。
少し自棄になったような飲み方に付き合ううちに、恵茉もいつもより飲むペースが速くなった。
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