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1巻
1-2
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湊はすぐには動かずに、そのまま恵茉をぎゅっと抱きしめた。
まるで大事なものを守るような仕草に、胸がきゅっと締めつけられる。同時に勝手にわきあがってくる愛しい感情。
結局――――欲しいのはこの男なのだと、こんな時思い知らされるのだ。
湊には恋人がいる。
今の自分は表現するならセックスフレンドで、ただの浮気相手。
幾度体を重ねても、優しくされても、この男の本命にはなれない。
なによりこの男は『恋人がいるのに浮気をする男』なのだ。
(最低!)
浮気をするこの男も、恋人がいると知っていて抱かれる自分も最低だ。
恵茉はその最低な男の顔を記憶に刻むべく、あえて目を開けた。
乱れた前髪が額に落ち、うっすらと汗が浮かぶ。
欲に耐える男の表情はどこまでも色っぽくて、最低な男だと思うのに恵茉の体はきゅっと湊を締めつけた。
「……っ、締めるな、バカ」
「締めてないっ」
「抱くのは久しぶりなんだ。もたないだろうが」
目を細めて声をかすれさせて、まるで欲しかったのだと求めていたのだと言っているようで、首のうしろに手を伸ばして抱きつきたくなる。
そうしないようにぎゅっとシーツを掴んだ。
「悪い。余裕ない。動くぞ」
そう宣言すると、湊は恵茉の膝を掴んで大きく開く。ゆっくり腰を引いた後、それは強引に恵茉の奥を突いてきた。勢いづいて激しく腰を振られると、恵茉の口からは嬌声が漏れる。
「あっ……ああっ、深いっ」
「恵茉、恵茉!」
突かれるごとに動く体を押さえるべく湊は恵茉の腰を掴んだ。名前を呼ばれながら、自分の中を出入りする男の形を思い出す。
そして与えてくる快感を受け止める。
理性を飛ばすような、悪く言えば乱暴で、でも熱を抱かせるセックス。
「はぁ、やぁっ……ああんっ」
恵茉の気持ちのいい場所を的確に突いてくるのは、それを彼が覚えているからだ。
高城とでは得られなかった大きな波が恵茉をさらっていく。
溺れる、と恵茉は思った。また自分はこの男に溺れてしまう。
こうして相手をしてくれるのなら、抱いてくれるのならばたとえ『二番目』でも構わない。
浮気相手でも構わない。
そう思ってしまうほど、湊とのセックスは気持ちがいい。
そんなバカなことを考える愚かさにいつも恵茉は自分を嘲笑いたくなる。
バスルームに入ると、恵茉は思わず床に膝をついた。
「あの、バカ」
腰が痛くて膝ががくがくする。
どうしてこんな飢えたような抱き方を自分相手にするのか恵茉にはわからない。恋人ではないのだから、少しは手加減してほしいと切に思う。
それとも逆か。
浮気相手だから相手の負担など気にせずに、性欲の赴くまま振る舞うのだろうか。
快楽の余韻が全身に残っていてまだ疼いている。今あの指で触れられれば、体はすぐに目覚めてふたたび素直に反応してしまうだろう。
できることならこのままベッドで眠りについてしまいたい。
恵茉はほんの少しだけお湯の温度を高めにしてシャワーを浴びた。
セックスの後はベッドで戯れることなく、すぐに湊から離れてシャワーを浴びることにしている。
あの男が触れた感触も、肌に残る唾液も、感じた証の蜜もすべて洗い流すためだ。
クリトリスは自分で触れてもわかるほど大きく膨らんでいるし、膣の周囲はぬるぬるしたものが残っている。
恵茉はそこも丁寧に洗った。
――堤湊とは同期だ。
知人よりは少し親しくて、友達というには距離がある。
そんな間柄でしかなかった男と恋人でもないのにセックスをする。
自分たちの関係に名前をつけるならセックスフレンドになるのだろう。
いや浮気の共犯者だろうか。
湊とのセックスは気持ちがいいけれど、終えた後はいつも後味の悪い感覚が残る。
恋人のいる男とセックスをするべきじゃない。同期の男に浮気をさせるべきじゃない。
誘われたって断ればいい。
正しい答えがわかっているのにそうできないのは――――
恵茉は頭を振って、それ以上深く考えることから逃げた。
バスタオルで体を拭き、忘れずに拾い上げてきた衣服を身に着ける。
湊の前でバスローブを羽織ったことは一度もない。それも恵茉が決めたルールのひとつ。
きちんと洋服を着てバスルームから出ると、まだシーツにくるまったままの湊が目を細めて恵茉を見た。
「帰るのか?」
「終電はないけど、タクシー拾うから」
情事の痕があからさまなベッドから目を背けて、恵茉は荷物の置いてあったソファに近づく。
「明日は休みなんだから泊まれば?」
首を緩く振って拒むと、バッグを肩にかけた。
「おまえは絶対泊まらないんだな」
不貞腐れたように湊が吐き出す。
『泊まるわけにはいかないでしょう?』その言葉を恵茉はぐっと呑み込んだ。
湊とこういう関係になってから、恵茉が勝手に決めたルールを彼に説明する必要はない。だから笑みを浮かべて「じゃあね」とだけ言って背を向けた。
湊の隣で眠らない。一緒に朝は迎えない。
だって朝を迎えたら、どこで離れればいいかわからなくなるから。
自分の部屋に戻ると、恵茉は倒れ込むようにベッドに横たわった。シャワーを浴びてすっきりしてきたはずなのに快楽の余韻が全身に残っている。
『恵茉』と呼ぶかすれた声も、肌をなぞる掌の大きさも、耳元で漏らす彼の喘ぎも、果てへと導く彼自身もふたたび記憶に刻み込まれた。
湊との関係が始まった最初のきっかけを恵茉は思い出した。
恵茉たちは同期入社の人数が多い年度のせいか、定期的に飲み会を開催するほど仲が良かった。数か月に一度の割合で開催されるそれは、仕事の愚痴を言い合ったり、互いに労い合ったり、情報交換をしたりする場でもある。
毎回幹事を引き受けてくれる面倒見のいい男がいて、大抵彼が勝手に日時と場所を決めて連絡してくる。
恵茉は仕事の都合がつけば参加する程度のスタンスだったし、部署の異なる湊とは、同期仲間の一人でしかなく、仲が良くもなければ悪くもないぐらいの浅い付き合いだった。
それでも見た目からして目立つ湊の噂は恵茉の耳にも入っていた。
来る者は拒まず去る者は追わない。だから付き合う女は頻繁に変わる。
それでも女遊びが激しいとか、二股をかけているとかいう話は聞かなかった。
――あの日は人生で一番、最悪な気分で同期会に参加していた。
飲みたくてたまらない心情の時に開催されたから、女友達に愚痴るつもりで出席したのだ。
けれど参加予定だった友人は仕事のトラブルで欠席となり、たまたま席が隣になったのが湊だった。
入社してしばらくして付き合い始めた年上の男とは、恵茉にしては長く関係が続いていた。それなのにお互い仕事が忙しくなって、会う時間が減って、そのうち相手から別れを告げられた。
その後、落ち込んでいた恵茉の耳に入ってきたのは、自分と別れてすぐに彼が婚約したことと、相手が妊娠していたこと。
彼が二股をかけていたのか、それともそっちのほうが本命だったのか、恵茉には知りようもなかった。
ただ、いつもこのパターンだった。
『恵茉は俺がいなくても平気みたいだ』とか『甘えてくれないと好かれている気がしない』とか言われて振られることが多い。そして別れた後の男たちは大抵、別の女性と新たな付き合いを始めている。
『会いたい』なんてかわいらしく甘えられるタイプじゃない。
『仕事が忙しくて』とデートをキャンセルされたら『無理しないで』と言ってしまう。
『寂しい』とか『仕事と私どっちが大事なの?』なんて口が裂けても言えない。
おそらく恋人としてはあまりかわいげがない部類に入るのだろう。
だからいつも振られるのかもしれないと、惨めな自己分析をしていた矢先に、その日の同期会ではそんな話題で盛り上がっていた。
『しっかりしている女よりかわいげのあるほうがいい』だとか『適度なわがままはむしろ甘えてくれる感じがする』と男性たちが言うと、『男ってすぐに騙される』とか『そういう女ほど裏があるんだからね』とか言って、女性たちは反論していた。
だから恵茉も酔った勢いもあって、隣に座っていた湊に珍しく絡んだ。
この男が付き合うタイプが甘え上手なかわいい系の女だと話題になっていたからだ。
自分と正反対のタイプの女と付き合う彼に、『甘えられるのって鬱陶しくないの?』とか『仕事が忙しいのに会いたいなんて迷惑じゃないの?』とか男性としての意見を聞いては、勝手に落ち込んだ。
結局、女としての魅力に欠けた部分を確認する羽目に陥って、かなりお酒に逃げた。
湊にはモテる男の余裕があった。
恵茉の質問にも戸惑いながらも真面目に答えてくれた。ああ、こんな酔っ払いの相手まで丁寧にするなんて律義なところもあるんだと見直した。
砂糖菓子みたいな甘い女とばかり付き合う男。
この男に愛されれば、どんな女もそんな風になれるんだろうか。
きっと彼にはそんな醜い思惑を見抜かれたに違いない――――
同期会を途中で抜けて、バーに行って二人で飲み直した。
『早川の愚痴を聞ける機会なんて滅多にないから聞いてやる』そんな風に言われて、最初は事実を語っていただけだったのに、最後に弱音を吐いた。
キスを仕掛けてきたのは湊だったけれど、誘いをかけたのは自分のほうではなかったかと今でも恵茉は思う。
キスをされて驚いた。彼には恋人がいる。だからダメだと思った。
それなのに唇の間から入ってきた舌を受け入れてしまった。
最初は驚いてすぐに反応できなかっただけ。けれど緩やかに優しく探られているうちに、酔いもあってその気持ちよさに身を委ねたくなった。
激しさを増したキスが終わって重なった視線は、互いに欲を露わにしていた。
仕事をそつなくこなし、周囲の噂話も気にせず、冷静に自分のペースを守る男が、今は余裕をなくして男の色香を振りまいている。
それは女の本能的なものを刺激した。
いつのまにかホテルに入って互いに服を脱がし合った。
羞恥と理性を取り戻さなくて済むように、後戻りできない状況に追い込みたかった。
湊は容赦なく恵茉の体の隅々まで暴いたし、恵茉もまたためらうことなく卑猥な喘ぎを聞かせた。
『恵茉』と名前を呼ばれるたびに、なぜか大事にされている気がした。
そんなまやかしを与える湊を恨めしく思うのに、快楽に溺れることでそんな感情をなかったことにした。
湊は恵茉の傷心につけ込んだ。恵茉は酔いのせいだと言い訳した。
それがその日の夜だけの過ちになっていれば、忘れてなかったことにして、ただの同期に戻れただろうに。
二度目に誘われた時は、食事だけのつもりだったし酔ってもいなかった。
三度目は、恵茉の体の事情でホテルへは行かなかったのに激しいキスをした。
理由も説明も言い訳も――――お互い口にはせず、都合の悪い部分から目を背けて。恋人でも友人でもないからこそ生まれた関係性は最初こそ気楽だった。
いつしか、恵茉に新しく付き合う相手ができると終わり、別れると始まるという関係になった。
誘うのはいつも湊で、恵茉はただ受け入れるだけ。
「ねえ、どうして抱くの? どうして私は抱かれるの?」
レースのカーテンの隙間から、淡い月の光が漏れる。
理由を深く突き詰めていけば、そこには直視したくない感情がある。
眩しくもない月の光を遮るように瞼の上に腕を置いた。同時にそれ以上自分の心と向き合うことも放棄して、恵茉はそのまま目を閉じた。
* * *
湊は『いい店見つけた。興味あるか?』とか『今夜メシでも行こう』とか、食事にかこつけて誘ってくることが多い。
彼の目的は、恵茉との食事ではなくその後の行為だ。
ただこの男は、セックスのための前座としては雰囲気のいい店を選ぶ。そして二人で過ごす食事の時間は、恵茉にとっては予想以上に心地いい。
カウンター十席のみの小さな店内は、照明が薄暗いためかシックな雰囲気だ。満席なのにひっそりとしているのは店主が無口だからだろうか。
『雰囲気のいい串焼き屋』だと聞いた通り、カウンターの目の前で、店主は黙々と炭火でいろんな食材を焙っていた。
鶏や豚などの肉だけでなく、旬の魚や野菜などが串に刺さっている。丁寧に下ごしらえされているのが見るだけでわかった。
炭火で焙られると、じゅっと脂が落ちる音がした。煙は大きな換気扇が吸い取るが、おいしそうな匂いは広がる。
食材にこんがりと焼き色がついていく様子を見ていると食欲が刺激された。日本酒にもついつい手が伸びてしまう。
「太刀魚を焙ったものです。抹茶塩でもお手製のポン酢でもお好みでどうぞ」
お皿にのせられた串を恵茉は手にした。まずは抹茶塩をつけて一切れ口にする。焙った太刀魚はふわふわとやわらかい。抹茶塩が淡白な太刀魚のいいアクセントになる。
合間にはさまれた青ネギも焙ったことで甘味が増しているようだ。
「おいしい!」
「ああ。うまいな」
周囲の客からも同じような声が聞こえる。だがみんな声を落として会話をしているため内容まではわからない。
おしゃべりするためではなく、食事を楽しむためのお店だと思った。
だからか湊とも特に話さずとも苦じゃなかった。お猪口が空になると、どちらからともなくお酌をする。
「よく知っているね、こんなお店」
「うまいもの食べるのが楽しみで働いているからな」
「そっか」
恵茉は焙られたばかりのアスパラを口にする。しゃきっとした食感とほくほくの甘味のバランスがいい。
「意外に豪快だよな、食べ方」
串にかぶりついて食べていたからだろう。湊が笑みを浮かべてそう言う。
あなた好みの女の子だったらきっと、お箸で一切れずつ串からはずして食べるのでしょうね、と言ってやりたくなった。
「だって、そのほうがおいしいもの」
「ああ、俺もそう思う」
嘘だ、と恵茉は思う。
彼はいつも他愛のない嘘をつく。きっと串からはずして食べたって「食べやすいならいいんじゃない?」と肯定するはずだ。
優しいと評せばいいのか、ずるいと罵ればいいのか、湊と一緒にいると時々わからなくなる。
でも、仕事の愚痴を軽く言えば頷いて共感する。弱音を吐けば慰め、アドバイスを求めれば意見をくれる。
彼がモテるのはきっと外見のせいだけじゃない。仕事の能力だけでもない。
恵茉はいつからか、湊の前だと自然に肩の力を抜いている自分に気づくようになった。
どんな男と交際しても、恵茉はつい自分を偽ってしまう。
相手がなにを望んでいるか勝手に想像して、当たり障りなく振る舞う癖がついている。
だからデートをして帰ってくると、『疲れた』と感じてため息をついてしまうのだ。
でも湊とはそれがない。
それがないことに気づいた時、自分の本音を知って愕然とした。
――恋人がいるのに平気で浮気をする男を好きになるなんてバカげている――そう思った。
食後のお茶をいただいているタイミングで、恵茉はこっそり湊にお札を渡した。会計を済ませる前に払っておかないと、なかなか受け取ってもらえない。
案の定、湊は恵茉が差し出したお札を見て眉根を寄せた。
店内で押し問答をするのはスマートじゃない。だからカウンターの下で、渋々お札を受け取ってくれる。
「いらないって言っているのに」
財布にしまいながら湊がぼやく。
「受け取らないなら、もう食事には付き合ってあげないわよ」
わざと上から目線でふざけて言った。
「おまえらしいけど」
できるだけ彼との食事は割り勘にするように心掛けていた。同期だから互いの給料はなんとなく想像できるし、恋人ではないのだから奢ってもらう筋合いはない。
それに――さすがにその後のホテル代は任せている。
だからきっとこういうのは自分の小さなプライドで、そんな部分にかわいげがないのだろうと自己分析する。
会計を湊に任せて、恵茉は先に店を出た。
このまま同期らしく食事の後は解散すればいい。食事をともにし、仕事の愚痴を言い合うだけの関係に戻ればいい。
通りを行き交うタクシーを見ていると、手をあげて停めて逃げ出したくなった。
そんな恵茉の心情に気づいたみたいに湊に腕を掴まれた。何事かと顔をあげれば、すぐうしろを酔った風情のサラリーマン男性の集団が通っていく。
「ぼんやりしていると危ないぞ」
「うん、ありがとう」
そのまま庇うように湊は恵茉の肩を抱き寄せた。その仕草だけで、恵茉の身勝手な願いは呆気なく消えていく。
湊に肩を抱かれて彼の進む方向へ一緒に歩いていく。細くて薄暗い路地へ入って行けば雰囲気が一気に変わる。
そういう目的のホテルがちらほら目に入った。どこへ入るか悩んでいる様子のカップルがいて、このあたりを歩く人々の目的は一緒なのだと思った。
大きな手で肩を抱かれると、なぜか守られているような気分になる。こうして密着すれば、男としての湊を意識する。手の大きさも抱く力強さも、仄かな匂いも、かすかに伝わる体温も、これからの行為を想像させるのに充分だ。
ホテルの部屋に入った途端すぐさま唇が塞がれた。
アルコールの残りなのか苦味が口内に広がった。その名残を薄めていくように互いの唾液を混ぜ合わせる。恵茉の喉の奥まで探る激しい舌の動きに必死に応える。唾液を与えているのか飲んでいるのかわからないぐらい卑猥な音がした。
ベッドへ――そう言いかけた時、彼の胸元で雰囲気にそぐわない振動が響く。
それはしばらく続いて、湊は観念したように恵茉をそっと離すと、スーツの内ポケットからスマホを取り出した。
一瞬、かすかに目を細めて画面を確認した後、恵茉に背中を向けてドアのほうへと向かう。
恵茉は唾液に塗れた唇を拭うと、部屋の奥のソファへ移動し無造作にバッグを置いた。
「ああ」とか「うん」とか言う低めの声が聞こえてくる。もし家族や友人なら、恵茉の存在など気にせずに気楽に話すはずだ。
だとすれば電話の相手はおそらく――恋人。
湊が返す言葉は少ない。けれどそれが逆に相手の話をきちんと聞いているように思える。
もちろん恵茉に内容を聞かれたくないせいもあるだろう。
ちりちりと小さく胸が痛んだ。
当然ながら恋人は恵茉の存在を知らないはずだ。湊が浮気をしていることなど気づいていない。いや、思いもしていないかもしれない。
湊はきっとバレないように、仕事同様抜かりなくやる。
こんな男やめればいいのに――――
自分はやめられないくせに、見知らぬ彼女にそう言ってやりたくなった。
自分のバッグの中から、突然スマホのバイブ音が響いて恵茉はびくっとした。
湊がまだ電話中なのを確かめてからスマホを取り出して画面を見た。
大学時代の友人からのメッセージは合コンの誘いだ。
高城と別れたことを知らせた途端のお誘いメールに苦笑が漏れた。二十八歳という恵茉の年齢からすれば、合コンというよりも婚活に近いだろうけど。
出会いなど限られている。
会社と家との往復の日々で交際相手を見つけられないのであれば、他に出会いを求めるしかない。
ほんの少しの迷いを消して、恵茉は『了解』とメッセージを手早く打って送信した。
今のうちにシャワーでも浴びようとバスルームに行きかけると、電話を終えたらしい湊が戻ってきた。
「どこへ行く?」
帰るのかとでも問いただしそうな厳しい声音に、恵茉は驚きながら視線でバスルームを示した。湊がほっと安堵したように息を吐く。
「電話、終わったの?」
「ああ、心配ない」
彼女から? と胸の内だけで問うに留め、恵茉は「そう」とだけ答えた。ダメになったのなら彼はすぐに言うだろう。
「シャワー浴びてくる」
「一緒に浴びるか?」
バカじゃないの! という感情を隠さずに睨んで恵茉は湊を押し離した。意地悪そうな笑みを浮かべて湊もすんなり離れる。
セックスフレンドなんて、うまい言葉だと思う。こんなのは所詮お互いの性欲処理でしかない。
だから恵茉は言い聞かせる。
自分もこの男もただ性欲を解消するための相手でしかないのだと。
湊の舌が恵茉の敏感な場所を舐めまわす。左右に大きく広げられた脚の間で、彼の頭が動くたびにやわらかな髪が太腿をくすぐった。露わになった小さな芽を舌で転がし、あふれた蜜を音をたてて吸い上げる。
「あっ……あんっ」
いやらしい自分の声が部屋に響いた。
自分の唾液を塗しているのか、あふれる蜜を吸っているのかわからない彼のささやかな動きに恵茉は翻弄されていた。
軽く何度も達しているせいで、体の奥が満たされなくて切ない。
指を入れて激しくかきまぜてほしい。中も外もぐしゃぐしゃにされたい。
恵茉はたまらなくなって、湊に弱音を吐く。
「やああっ、もう、入れて」
「なにを? 恵茉」
蜜に塗れた口元を乱暴に拭って、湊は恵茉を見下ろした。
目つきだけはギラギラしているのに、口調はやけに落ち着いている。自分だけが乱されて快楽に溺れている。
「恵茉、なにを入れてほしい?」
湊がなにを言わせたいのかはわかっていた。普段なら絶対口にしない言葉を、この男はあえて引き出そうとしてくる。
胸の先を指先でこすりながら、湊は楽しそうに口の端をあげた。こんな時、同期という関係性があるせいで気恥ずかしさが勝る。
「恵茉、言えよ」
「やっ、意地悪!」
「じゃあ、誰のが欲しい?」
誰の、なんて目の前の男のものに決まっている。恵茉は戸惑いつつ答えた。
「つ、つみくんっ」
「違うだろう?」
湊はじっと恵茉を見つめながら、欲していた場所に一気に数本指を突っ込んできた。
「ひゃっ、あんっ」
たまらず声をあげる。
彼の指が出し入れされ、ばらばらに動かされる。卑猥な蜜の音をわざとたてて、恵茉だけをまた高みにあげようとする。
快楽に歪む恵茉の顔をじっと見つめて、湊は耳元で囁いた。
「恵茉、下の名前を呼べ」
反射的に恵茉は首を横に振った。瞬間、戒めるように敏感な芽を弾かれた。切なさにつきあげられて恵茉は観念する。
「やあっ、湊の!」
まるで大事なものを守るような仕草に、胸がきゅっと締めつけられる。同時に勝手にわきあがってくる愛しい感情。
結局――――欲しいのはこの男なのだと、こんな時思い知らされるのだ。
湊には恋人がいる。
今の自分は表現するならセックスフレンドで、ただの浮気相手。
幾度体を重ねても、優しくされても、この男の本命にはなれない。
なによりこの男は『恋人がいるのに浮気をする男』なのだ。
(最低!)
浮気をするこの男も、恋人がいると知っていて抱かれる自分も最低だ。
恵茉はその最低な男の顔を記憶に刻むべく、あえて目を開けた。
乱れた前髪が額に落ち、うっすらと汗が浮かぶ。
欲に耐える男の表情はどこまでも色っぽくて、最低な男だと思うのに恵茉の体はきゅっと湊を締めつけた。
「……っ、締めるな、バカ」
「締めてないっ」
「抱くのは久しぶりなんだ。もたないだろうが」
目を細めて声をかすれさせて、まるで欲しかったのだと求めていたのだと言っているようで、首のうしろに手を伸ばして抱きつきたくなる。
そうしないようにぎゅっとシーツを掴んだ。
「悪い。余裕ない。動くぞ」
そう宣言すると、湊は恵茉の膝を掴んで大きく開く。ゆっくり腰を引いた後、それは強引に恵茉の奥を突いてきた。勢いづいて激しく腰を振られると、恵茉の口からは嬌声が漏れる。
「あっ……ああっ、深いっ」
「恵茉、恵茉!」
突かれるごとに動く体を押さえるべく湊は恵茉の腰を掴んだ。名前を呼ばれながら、自分の中を出入りする男の形を思い出す。
そして与えてくる快感を受け止める。
理性を飛ばすような、悪く言えば乱暴で、でも熱を抱かせるセックス。
「はぁ、やぁっ……ああんっ」
恵茉の気持ちのいい場所を的確に突いてくるのは、それを彼が覚えているからだ。
高城とでは得られなかった大きな波が恵茉をさらっていく。
溺れる、と恵茉は思った。また自分はこの男に溺れてしまう。
こうして相手をしてくれるのなら、抱いてくれるのならばたとえ『二番目』でも構わない。
浮気相手でも構わない。
そう思ってしまうほど、湊とのセックスは気持ちがいい。
そんなバカなことを考える愚かさにいつも恵茉は自分を嘲笑いたくなる。
バスルームに入ると、恵茉は思わず床に膝をついた。
「あの、バカ」
腰が痛くて膝ががくがくする。
どうしてこんな飢えたような抱き方を自分相手にするのか恵茉にはわからない。恋人ではないのだから、少しは手加減してほしいと切に思う。
それとも逆か。
浮気相手だから相手の負担など気にせずに、性欲の赴くまま振る舞うのだろうか。
快楽の余韻が全身に残っていてまだ疼いている。今あの指で触れられれば、体はすぐに目覚めてふたたび素直に反応してしまうだろう。
できることならこのままベッドで眠りについてしまいたい。
恵茉はほんの少しだけお湯の温度を高めにしてシャワーを浴びた。
セックスの後はベッドで戯れることなく、すぐに湊から離れてシャワーを浴びることにしている。
あの男が触れた感触も、肌に残る唾液も、感じた証の蜜もすべて洗い流すためだ。
クリトリスは自分で触れてもわかるほど大きく膨らんでいるし、膣の周囲はぬるぬるしたものが残っている。
恵茉はそこも丁寧に洗った。
――堤湊とは同期だ。
知人よりは少し親しくて、友達というには距離がある。
そんな間柄でしかなかった男と恋人でもないのにセックスをする。
自分たちの関係に名前をつけるならセックスフレンドになるのだろう。
いや浮気の共犯者だろうか。
湊とのセックスは気持ちがいいけれど、終えた後はいつも後味の悪い感覚が残る。
恋人のいる男とセックスをするべきじゃない。同期の男に浮気をさせるべきじゃない。
誘われたって断ればいい。
正しい答えがわかっているのにそうできないのは――――
恵茉は頭を振って、それ以上深く考えることから逃げた。
バスタオルで体を拭き、忘れずに拾い上げてきた衣服を身に着ける。
湊の前でバスローブを羽織ったことは一度もない。それも恵茉が決めたルールのひとつ。
きちんと洋服を着てバスルームから出ると、まだシーツにくるまったままの湊が目を細めて恵茉を見た。
「帰るのか?」
「終電はないけど、タクシー拾うから」
情事の痕があからさまなベッドから目を背けて、恵茉は荷物の置いてあったソファに近づく。
「明日は休みなんだから泊まれば?」
首を緩く振って拒むと、バッグを肩にかけた。
「おまえは絶対泊まらないんだな」
不貞腐れたように湊が吐き出す。
『泊まるわけにはいかないでしょう?』その言葉を恵茉はぐっと呑み込んだ。
湊とこういう関係になってから、恵茉が勝手に決めたルールを彼に説明する必要はない。だから笑みを浮かべて「じゃあね」とだけ言って背を向けた。
湊の隣で眠らない。一緒に朝は迎えない。
だって朝を迎えたら、どこで離れればいいかわからなくなるから。
自分の部屋に戻ると、恵茉は倒れ込むようにベッドに横たわった。シャワーを浴びてすっきりしてきたはずなのに快楽の余韻が全身に残っている。
『恵茉』と呼ぶかすれた声も、肌をなぞる掌の大きさも、耳元で漏らす彼の喘ぎも、果てへと導く彼自身もふたたび記憶に刻み込まれた。
湊との関係が始まった最初のきっかけを恵茉は思い出した。
恵茉たちは同期入社の人数が多い年度のせいか、定期的に飲み会を開催するほど仲が良かった。数か月に一度の割合で開催されるそれは、仕事の愚痴を言い合ったり、互いに労い合ったり、情報交換をしたりする場でもある。
毎回幹事を引き受けてくれる面倒見のいい男がいて、大抵彼が勝手に日時と場所を決めて連絡してくる。
恵茉は仕事の都合がつけば参加する程度のスタンスだったし、部署の異なる湊とは、同期仲間の一人でしかなく、仲が良くもなければ悪くもないぐらいの浅い付き合いだった。
それでも見た目からして目立つ湊の噂は恵茉の耳にも入っていた。
来る者は拒まず去る者は追わない。だから付き合う女は頻繁に変わる。
それでも女遊びが激しいとか、二股をかけているとかいう話は聞かなかった。
――あの日は人生で一番、最悪な気分で同期会に参加していた。
飲みたくてたまらない心情の時に開催されたから、女友達に愚痴るつもりで出席したのだ。
けれど参加予定だった友人は仕事のトラブルで欠席となり、たまたま席が隣になったのが湊だった。
入社してしばらくして付き合い始めた年上の男とは、恵茉にしては長く関係が続いていた。それなのにお互い仕事が忙しくなって、会う時間が減って、そのうち相手から別れを告げられた。
その後、落ち込んでいた恵茉の耳に入ってきたのは、自分と別れてすぐに彼が婚約したことと、相手が妊娠していたこと。
彼が二股をかけていたのか、それともそっちのほうが本命だったのか、恵茉には知りようもなかった。
ただ、いつもこのパターンだった。
『恵茉は俺がいなくても平気みたいだ』とか『甘えてくれないと好かれている気がしない』とか言われて振られることが多い。そして別れた後の男たちは大抵、別の女性と新たな付き合いを始めている。
『会いたい』なんてかわいらしく甘えられるタイプじゃない。
『仕事が忙しくて』とデートをキャンセルされたら『無理しないで』と言ってしまう。
『寂しい』とか『仕事と私どっちが大事なの?』なんて口が裂けても言えない。
おそらく恋人としてはあまりかわいげがない部類に入るのだろう。
だからいつも振られるのかもしれないと、惨めな自己分析をしていた矢先に、その日の同期会ではそんな話題で盛り上がっていた。
『しっかりしている女よりかわいげのあるほうがいい』だとか『適度なわがままはむしろ甘えてくれる感じがする』と男性たちが言うと、『男ってすぐに騙される』とか『そういう女ほど裏があるんだからね』とか言って、女性たちは反論していた。
だから恵茉も酔った勢いもあって、隣に座っていた湊に珍しく絡んだ。
この男が付き合うタイプが甘え上手なかわいい系の女だと話題になっていたからだ。
自分と正反対のタイプの女と付き合う彼に、『甘えられるのって鬱陶しくないの?』とか『仕事が忙しいのに会いたいなんて迷惑じゃないの?』とか男性としての意見を聞いては、勝手に落ち込んだ。
結局、女としての魅力に欠けた部分を確認する羽目に陥って、かなりお酒に逃げた。
湊にはモテる男の余裕があった。
恵茉の質問にも戸惑いながらも真面目に答えてくれた。ああ、こんな酔っ払いの相手まで丁寧にするなんて律義なところもあるんだと見直した。
砂糖菓子みたいな甘い女とばかり付き合う男。
この男に愛されれば、どんな女もそんな風になれるんだろうか。
きっと彼にはそんな醜い思惑を見抜かれたに違いない――――
同期会を途中で抜けて、バーに行って二人で飲み直した。
『早川の愚痴を聞ける機会なんて滅多にないから聞いてやる』そんな風に言われて、最初は事実を語っていただけだったのに、最後に弱音を吐いた。
キスを仕掛けてきたのは湊だったけれど、誘いをかけたのは自分のほうではなかったかと今でも恵茉は思う。
キスをされて驚いた。彼には恋人がいる。だからダメだと思った。
それなのに唇の間から入ってきた舌を受け入れてしまった。
最初は驚いてすぐに反応できなかっただけ。けれど緩やかに優しく探られているうちに、酔いもあってその気持ちよさに身を委ねたくなった。
激しさを増したキスが終わって重なった視線は、互いに欲を露わにしていた。
仕事をそつなくこなし、周囲の噂話も気にせず、冷静に自分のペースを守る男が、今は余裕をなくして男の色香を振りまいている。
それは女の本能的なものを刺激した。
いつのまにかホテルに入って互いに服を脱がし合った。
羞恥と理性を取り戻さなくて済むように、後戻りできない状況に追い込みたかった。
湊は容赦なく恵茉の体の隅々まで暴いたし、恵茉もまたためらうことなく卑猥な喘ぎを聞かせた。
『恵茉』と名前を呼ばれるたびに、なぜか大事にされている気がした。
そんなまやかしを与える湊を恨めしく思うのに、快楽に溺れることでそんな感情をなかったことにした。
湊は恵茉の傷心につけ込んだ。恵茉は酔いのせいだと言い訳した。
それがその日の夜だけの過ちになっていれば、忘れてなかったことにして、ただの同期に戻れただろうに。
二度目に誘われた時は、食事だけのつもりだったし酔ってもいなかった。
三度目は、恵茉の体の事情でホテルへは行かなかったのに激しいキスをした。
理由も説明も言い訳も――――お互い口にはせず、都合の悪い部分から目を背けて。恋人でも友人でもないからこそ生まれた関係性は最初こそ気楽だった。
いつしか、恵茉に新しく付き合う相手ができると終わり、別れると始まるという関係になった。
誘うのはいつも湊で、恵茉はただ受け入れるだけ。
「ねえ、どうして抱くの? どうして私は抱かれるの?」
レースのカーテンの隙間から、淡い月の光が漏れる。
理由を深く突き詰めていけば、そこには直視したくない感情がある。
眩しくもない月の光を遮るように瞼の上に腕を置いた。同時にそれ以上自分の心と向き合うことも放棄して、恵茉はそのまま目を閉じた。
* * *
湊は『いい店見つけた。興味あるか?』とか『今夜メシでも行こう』とか、食事にかこつけて誘ってくることが多い。
彼の目的は、恵茉との食事ではなくその後の行為だ。
ただこの男は、セックスのための前座としては雰囲気のいい店を選ぶ。そして二人で過ごす食事の時間は、恵茉にとっては予想以上に心地いい。
カウンター十席のみの小さな店内は、照明が薄暗いためかシックな雰囲気だ。満席なのにひっそりとしているのは店主が無口だからだろうか。
『雰囲気のいい串焼き屋』だと聞いた通り、カウンターの目の前で、店主は黙々と炭火でいろんな食材を焙っていた。
鶏や豚などの肉だけでなく、旬の魚や野菜などが串に刺さっている。丁寧に下ごしらえされているのが見るだけでわかった。
炭火で焙られると、じゅっと脂が落ちる音がした。煙は大きな換気扇が吸い取るが、おいしそうな匂いは広がる。
食材にこんがりと焼き色がついていく様子を見ていると食欲が刺激された。日本酒にもついつい手が伸びてしまう。
「太刀魚を焙ったものです。抹茶塩でもお手製のポン酢でもお好みでどうぞ」
お皿にのせられた串を恵茉は手にした。まずは抹茶塩をつけて一切れ口にする。焙った太刀魚はふわふわとやわらかい。抹茶塩が淡白な太刀魚のいいアクセントになる。
合間にはさまれた青ネギも焙ったことで甘味が増しているようだ。
「おいしい!」
「ああ。うまいな」
周囲の客からも同じような声が聞こえる。だがみんな声を落として会話をしているため内容まではわからない。
おしゃべりするためではなく、食事を楽しむためのお店だと思った。
だからか湊とも特に話さずとも苦じゃなかった。お猪口が空になると、どちらからともなくお酌をする。
「よく知っているね、こんなお店」
「うまいもの食べるのが楽しみで働いているからな」
「そっか」
恵茉は焙られたばかりのアスパラを口にする。しゃきっとした食感とほくほくの甘味のバランスがいい。
「意外に豪快だよな、食べ方」
串にかぶりついて食べていたからだろう。湊が笑みを浮かべてそう言う。
あなた好みの女の子だったらきっと、お箸で一切れずつ串からはずして食べるのでしょうね、と言ってやりたくなった。
「だって、そのほうがおいしいもの」
「ああ、俺もそう思う」
嘘だ、と恵茉は思う。
彼はいつも他愛のない嘘をつく。きっと串からはずして食べたって「食べやすいならいいんじゃない?」と肯定するはずだ。
優しいと評せばいいのか、ずるいと罵ればいいのか、湊と一緒にいると時々わからなくなる。
でも、仕事の愚痴を軽く言えば頷いて共感する。弱音を吐けば慰め、アドバイスを求めれば意見をくれる。
彼がモテるのはきっと外見のせいだけじゃない。仕事の能力だけでもない。
恵茉はいつからか、湊の前だと自然に肩の力を抜いている自分に気づくようになった。
どんな男と交際しても、恵茉はつい自分を偽ってしまう。
相手がなにを望んでいるか勝手に想像して、当たり障りなく振る舞う癖がついている。
だからデートをして帰ってくると、『疲れた』と感じてため息をついてしまうのだ。
でも湊とはそれがない。
それがないことに気づいた時、自分の本音を知って愕然とした。
――恋人がいるのに平気で浮気をする男を好きになるなんてバカげている――そう思った。
食後のお茶をいただいているタイミングで、恵茉はこっそり湊にお札を渡した。会計を済ませる前に払っておかないと、なかなか受け取ってもらえない。
案の定、湊は恵茉が差し出したお札を見て眉根を寄せた。
店内で押し問答をするのはスマートじゃない。だからカウンターの下で、渋々お札を受け取ってくれる。
「いらないって言っているのに」
財布にしまいながら湊がぼやく。
「受け取らないなら、もう食事には付き合ってあげないわよ」
わざと上から目線でふざけて言った。
「おまえらしいけど」
できるだけ彼との食事は割り勘にするように心掛けていた。同期だから互いの給料はなんとなく想像できるし、恋人ではないのだから奢ってもらう筋合いはない。
それに――さすがにその後のホテル代は任せている。
だからきっとこういうのは自分の小さなプライドで、そんな部分にかわいげがないのだろうと自己分析する。
会計を湊に任せて、恵茉は先に店を出た。
このまま同期らしく食事の後は解散すればいい。食事をともにし、仕事の愚痴を言い合うだけの関係に戻ればいい。
通りを行き交うタクシーを見ていると、手をあげて停めて逃げ出したくなった。
そんな恵茉の心情に気づいたみたいに湊に腕を掴まれた。何事かと顔をあげれば、すぐうしろを酔った風情のサラリーマン男性の集団が通っていく。
「ぼんやりしていると危ないぞ」
「うん、ありがとう」
そのまま庇うように湊は恵茉の肩を抱き寄せた。その仕草だけで、恵茉の身勝手な願いは呆気なく消えていく。
湊に肩を抱かれて彼の進む方向へ一緒に歩いていく。細くて薄暗い路地へ入って行けば雰囲気が一気に変わる。
そういう目的のホテルがちらほら目に入った。どこへ入るか悩んでいる様子のカップルがいて、このあたりを歩く人々の目的は一緒なのだと思った。
大きな手で肩を抱かれると、なぜか守られているような気分になる。こうして密着すれば、男としての湊を意識する。手の大きさも抱く力強さも、仄かな匂いも、かすかに伝わる体温も、これからの行為を想像させるのに充分だ。
ホテルの部屋に入った途端すぐさま唇が塞がれた。
アルコールの残りなのか苦味が口内に広がった。その名残を薄めていくように互いの唾液を混ぜ合わせる。恵茉の喉の奥まで探る激しい舌の動きに必死に応える。唾液を与えているのか飲んでいるのかわからないぐらい卑猥な音がした。
ベッドへ――そう言いかけた時、彼の胸元で雰囲気にそぐわない振動が響く。
それはしばらく続いて、湊は観念したように恵茉をそっと離すと、スーツの内ポケットからスマホを取り出した。
一瞬、かすかに目を細めて画面を確認した後、恵茉に背中を向けてドアのほうへと向かう。
恵茉は唾液に塗れた唇を拭うと、部屋の奥のソファへ移動し無造作にバッグを置いた。
「ああ」とか「うん」とか言う低めの声が聞こえてくる。もし家族や友人なら、恵茉の存在など気にせずに気楽に話すはずだ。
だとすれば電話の相手はおそらく――恋人。
湊が返す言葉は少ない。けれどそれが逆に相手の話をきちんと聞いているように思える。
もちろん恵茉に内容を聞かれたくないせいもあるだろう。
ちりちりと小さく胸が痛んだ。
当然ながら恋人は恵茉の存在を知らないはずだ。湊が浮気をしていることなど気づいていない。いや、思いもしていないかもしれない。
湊はきっとバレないように、仕事同様抜かりなくやる。
こんな男やめればいいのに――――
自分はやめられないくせに、見知らぬ彼女にそう言ってやりたくなった。
自分のバッグの中から、突然スマホのバイブ音が響いて恵茉はびくっとした。
湊がまだ電話中なのを確かめてからスマホを取り出して画面を見た。
大学時代の友人からのメッセージは合コンの誘いだ。
高城と別れたことを知らせた途端のお誘いメールに苦笑が漏れた。二十八歳という恵茉の年齢からすれば、合コンというよりも婚活に近いだろうけど。
出会いなど限られている。
会社と家との往復の日々で交際相手を見つけられないのであれば、他に出会いを求めるしかない。
ほんの少しの迷いを消して、恵茉は『了解』とメッセージを手早く打って送信した。
今のうちにシャワーでも浴びようとバスルームに行きかけると、電話を終えたらしい湊が戻ってきた。
「どこへ行く?」
帰るのかとでも問いただしそうな厳しい声音に、恵茉は驚きながら視線でバスルームを示した。湊がほっと安堵したように息を吐く。
「電話、終わったの?」
「ああ、心配ない」
彼女から? と胸の内だけで問うに留め、恵茉は「そう」とだけ答えた。ダメになったのなら彼はすぐに言うだろう。
「シャワー浴びてくる」
「一緒に浴びるか?」
バカじゃないの! という感情を隠さずに睨んで恵茉は湊を押し離した。意地悪そうな笑みを浮かべて湊もすんなり離れる。
セックスフレンドなんて、うまい言葉だと思う。こんなのは所詮お互いの性欲処理でしかない。
だから恵茉は言い聞かせる。
自分もこの男もただ性欲を解消するための相手でしかないのだと。
湊の舌が恵茉の敏感な場所を舐めまわす。左右に大きく広げられた脚の間で、彼の頭が動くたびにやわらかな髪が太腿をくすぐった。露わになった小さな芽を舌で転がし、あふれた蜜を音をたてて吸い上げる。
「あっ……あんっ」
いやらしい自分の声が部屋に響いた。
自分の唾液を塗しているのか、あふれる蜜を吸っているのかわからない彼のささやかな動きに恵茉は翻弄されていた。
軽く何度も達しているせいで、体の奥が満たされなくて切ない。
指を入れて激しくかきまぜてほしい。中も外もぐしゃぐしゃにされたい。
恵茉はたまらなくなって、湊に弱音を吐く。
「やああっ、もう、入れて」
「なにを? 恵茉」
蜜に塗れた口元を乱暴に拭って、湊は恵茉を見下ろした。
目つきだけはギラギラしているのに、口調はやけに落ち着いている。自分だけが乱されて快楽に溺れている。
「恵茉、なにを入れてほしい?」
湊がなにを言わせたいのかはわかっていた。普段なら絶対口にしない言葉を、この男はあえて引き出そうとしてくる。
胸の先を指先でこすりながら、湊は楽しそうに口の端をあげた。こんな時、同期という関係性があるせいで気恥ずかしさが勝る。
「恵茉、言えよ」
「やっ、意地悪!」
「じゃあ、誰のが欲しい?」
誰の、なんて目の前の男のものに決まっている。恵茉は戸惑いつつ答えた。
「つ、つみくんっ」
「違うだろう?」
湊はじっと恵茉を見つめながら、欲していた場所に一気に数本指を突っ込んできた。
「ひゃっ、あんっ」
たまらず声をあげる。
彼の指が出し入れされ、ばらばらに動かされる。卑猥な蜜の音をわざとたてて、恵茉だけをまた高みにあげようとする。
快楽に歪む恵茉の顔をじっと見つめて、湊は耳元で囁いた。
「恵茉、下の名前を呼べ」
反射的に恵茉は首を横に振った。瞬間、戒めるように敏感な芽を弾かれた。切なさにつきあげられて恵茉は観念する。
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