恋火

流月るる

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第二十三話

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 女性に見送られて美綾たちは『青桜』を後にした。
 口紅はあの場ですぐにティッシュで拭った。貴影が選んでくれたサンプルの番号を一応は記録したけれど、美綾がそれを選ぶことはない。

 外に出ると街はすっかり夜の闇に覆われていた。元々最終打ち合わせが遅い時間帯だったので、『SSC』に戻ることなくこのまま二人とも帰ることにしていた。予定外にブースの見学もしたのですでに二十一時を過ぎている。

「九条送る。予定よりだいぶ遅くなるけど家の方は大丈夫か?」
「ええ。大丈夫、伝えているから」

 娘の帰りが遅いことは承知済みだし、母は出張中なのでどうせ誰もいない。
 よかった、と思った。家に帰ればきっと存分に泣ける。

 さっきから胸の奥が熱くて痛かった。油断すると泣きそうで、美綾は口元だけでも笑みの形を保つ。

 少し距離があるけれど、いっそタクシーでもつかまえて帰ろうかとも思う。けれど、結局美綾は駅までの道を貴影とともに歩いていた。

 仕事に集中している間に、いつのまにか梅雨は明けていた。今夜の空も晴れていて、満月に近い大きな月が浮かんでいる。隣にはいけなくて、美綾は月明かりに伸びた影を追うように、貴影の少し後ろをついて歩いた。

 こうして貴影と二人きりで夜道を歩くのもきっと今夜が最後だ。イベント本番を乗り切れば、彼との接点も減っていく。そのうち夏休みも終わって新学期が始まれば、また元の日常に戻る。

 貴影から離れて由功のそばに戻れば、きっとこの火は燃え盛ることはない。

(本当にそう? 元に戻ればこの火は消える? 今までだって消せなかったのに?)

 美綾は足を止めた。
 先に歩んでいく貴影の背中を見つめる。

 この夏、彼のそばにいて初めて気づいたことや知ったことがたくさんあった。

 大人の中では最初は少しだけ緊張したように肩を強張らせるのに、慣れると堂々と振舞うこと。
 『SSC』で司たちと話している時は、けっこう子どもっぽいところも見せること。
 仕事は詳細まできちんと詰めてひとつひとつを丁寧に進めていくこと。
 コーヒーはブラックで飲んで、けれど缶コーヒーはあまり好きではなさそうなこと。
 時々声がかすれて、ハスキーな感じになること。
 清涼感ある香りには、たまにフローラル系の甘い香りが混ざること。

 苦しくなった。
 胸の奥の火は酸素を使い果たす勢いで力を増していく。美綾は溜まってくるものを必死で口から吐き出した。息の仕方がわからなくなりそうで混乱する。
 いつかこの火は自分の身だけでなく、貴影も彼女も巻き込んで燃やし尽くしてしまうのではないか。

 戻れないかもしれない。
 なにもなかった頃にはもう戻れないのかもしれない。以前のような距離で彼らのそばにはいられないのかもしれない。

 だって由功も司も気づいている。貴影の彼女だって不安がっている。彼だってもしかしたら――

(このままそばにいたら……なにもかも壊しちゃうんじゃないの? だったらいっそ――)

「九条? どうした?」
「……なん、でもない」

 美綾がついてきていないことに気づいた貴影が振り返る。わざわざ戻ってこようとするから、美綾はそれを制して駆け寄った。

(だったら『SSC』を辞める――?)

 新たに生まれたその考えに美綾は自分で茫然とした。当然あった選択を今までは考えもしなかった。
 辞めれば彼との接点はなくなる。そばにいて期待することも苦しむこともない。
 離れてしまえば、さすがにこの火も消えるに違いない。

 まるで光明のように思えた時、少しだけ息苦しさがおさまった。


 ***


 駅構内独特の音色が耳に届いて、駅に着いたことに気づく。いつもなら『SSC』に戻るけれど、今夜はこのまま家に帰るので路線が違う。

「あ、じゃあ私こっちだから」
「送るって言っただろう?」
「でも……御嵩くんは」

 高校がどこかは知っていても当然家は知らない。

「そっちでも帰ることはできる。とにかく行こう」

 申し訳ない気持ちと、こういう優しさが嬉しさと苦しさをもたらすのにという気持ちとが入り混じる。貴影はさっさと階段を上っていくので、美綾は断ることもできずに後に続いた。

 この時間帯でもホームには人がそこそこいた。
 勤め帰りのサラリーマンに、テーマパークの袋を持った家族連れ。塾帰りと思われる制服姿の高校生の姿もある。ノースリーブの肩を出した露出の高い女の子の集団は、貴影を見るとなにやら囁いている。
 日常のなにげない景色。

 到着した電車から人が降りるのを待って電車に乗った。帰宅ラッシュの時間は過ぎているのに、人が多いのは夏休みであることも関係しているのだろう。

 貴影とは少しでも距離をおいて立ちたかったけれど、過不足なく埋まっている空間では自由に動くのは憚られた。結局扉のそばで貴影と向かい合う形で立つ。
 ゆっくりと電車が進みだす振動が足元から伝わってきた。冷房の効いた車内は、美綾の体の奥のこもっていた熱を冷ましていく。

 不意に既視感が訪れた。
 そして通り過ぎていく駅名を見て美綾は思い出した。
 あの日の夜と同じ路線――
 
 互いに着ている服は違う。車両の型も違う。あの頃より彼の背はぐんと伸びて、肩幅も広くなった。
 貴影の腕が美綾の体を庇うように伸ばされる。
 
 急激に鮮やかに記憶が蘇る。あふれてくる情景を、押し寄せてくる感情を止めることができない。

 会ったのは二回だけ。
 一度目は春期講習の帰り道。酔っ払いにからまれたのは里音のほうだった。彼が声をかけて助けてくれたけれど、すぐに電車を降りていったから、その横顔だけを覚えていた。
 
 二度目は翌日。美綾はたまたま一人で帰っていた。人が充満した車輌の中でサラリーマンのスーツの背中に押され気味になっていたら、庇うように伸ばされた腕があった。
 驚いて見上げれば前日と同じ男の子だった。それまで美綾にとって男の子は……すぐにからかってくる苦手な存在だった。
 だから生まれて初めて男の子に庇われて守られて、彼が男の子であること、自分が女の子であることを意識した瞬間でもあった。
 まだ目の前に彼の顎や襟元が見えていた。電車がカーブした時、少年の細腕では支えきれずに体が触れた。彼は声変わりの途中らしいかすれた声で『ごめん』と恥ずかしそうに呟いて、美綾は『大丈夫』と言えたかどうか。
 行き交う体温、そしてどちらのものかわからない、かすかに届く心臓の鼓動。
 ボタンにからまった髪。一生懸命はずそうとしてくれた覚束ない指先。ひきちぎったボタン。
 別れ際――彼が抱きとめてくれていた腕に力が入った気がした。
 そして目が合った瞬間、同じ気持ちを抱いたような気がしたのは錯覚だったのか。

 たった数駅だけの時間の些細な出来事。でも美綾はこの瞬間に恋に落ちた。
 彼にもう一度会いたくて、探しにいくほど。
 中学一年生の終わりに訪れた初めての恋。

 今、美綾の目の前にあるのは彼のネクタイの結び目で、見上げる角度は高くなって、顔立ちからは丸みが失われて顎のラインは鋭くなった。腕は力強くて、きっと彼は美綾に触れずに庇うことができる。
 美綾は胸元に落ちる自分の髪を見た。
 彼が綺麗だと言って守ってくれたから、手入れをして大切に伸ばしてきた髪。
 
 美綾は少年だった面影を追うように貴影を見上げた。じっとこちらを見つめていたらしい彼の目の中にも、幼かった少女の自分が映っている気がした。
 貴影の目が戸惑うように揺れる。その奥の秘められた熱が伝わってくる。
 これも自分の勘違いなら……本当にどうしようもない。
 
 燻っていた熱が全身に広がる。目の奥が真っ赤に染まっているようでひどく痛い。

 美綾の体から力が抜けると同時に電車のカーブがきつくなって、揺れた体を支えるように彼の手が触れた。あの夜と同じようにためらうことなく美綾を抱きとめる。

 違うのは掌の大きさと支える力強さ、頬に感じる胸の広さと覚えてしまった香り。
 そしてどうしようもなく、抑えきれないほどあふれてくる自分の気持ち。
 燃え盛る炎は美綾自身を焼き尽くすかのように全身を包み込む。そしてその炎は貴影をも巻き込むように思えた。
 慌てて視線を落とした。涙は粒となって勝手に落ちていく。彼にはもうすべてが伝わったと思った。

「覚えて、た?……」

 貴影はなにも言わなかった。否定も肯定もしなかった。それが答えだと思った。
 彼が覚えていたからといって、なにかが変わるわけじゃない。

 『SSC』のビルで顔を合わせた時『はじめまして』と言ったのはどちらが先だったのだろう。

 会った瞬間、美綾にはすぐにわかった。あの時の男の子だと思った。会えて嬉しかった。
 種火はずっと心の奥で眠っていたのだと思った。その瞬間のきらめきを覚えていたから。
 彼が覚えていなかったことは悲しかったけれど、たとえ覚えていなくても構わなかったのだ。

 彼の隣に大切にしている女の子の存在がなければ。
 
 あの瞬間の思い出を大事にしていたのは自分だけで、貴影はとっくに前を向いて歩いていた。彼にとっては取るに足らない出来事でしかなかった。

(しょせん、最初から勝手な思い込みだったのよ)

 電車の速度が変化して、次の停車駅のアナウンスが耳に届いた。美綾は乱暴に涙を拭うと体を支えてくれていた貴影の手をそっとはずす。
 どんなに堪えようとしても、こんな場所で泣くのは迷惑だとわかっていても、涙を止められそうになかった。
 だから涙を浮かべたまま美綾はもう最後のつもりで貴影を見つめた。どんな表情をしているか知りたかったのに、視界はぼやけてなにも見えない。

「ごめん、ここで降りる。ありがとう、御嵩くん」

 彼の手には幾度も助けられた。守るように庇うように支えてくれた。
 けれどその手が背中にまわって、抱きしめることはなかった。 

 縮まることのない――それが彼と自分との距離。

 扉が開くと、美綾は貴影から離れてすぐさま電車を降りた。彼の驚きと戸惑いに満ちた目が見えたのは涙の粒が飛び散った瞬間だった。 
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