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第十一話
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室内にはいつも以上に明るい声が響き渡る。
作業用のテーブルは端に寄せられ、大きなハンガーラックが場所を占めていた。ラックには色とりどりの浴衣が並び、窓際のカウンターテーブルには無数の帯が広げられている。設置された衝立の奥が簡易の更衣スペースになっていた。
今日はイベント当日に仕事をする女の子たちがお気に入りの浴衣を選んでいる。
そんな中を司は動き回り、一人一人に声をかけつつ賛辞も忘れない。
美綾は真夏とともに女の子たちの着付けを手伝いながら名前と顔とを確認する。他の子たちが、彼女たちの選んだ浴衣をセットにして名前がわかるように整理していた。
当日スタッフとして働く女の子たちは浴衣姿で対応する。『夏祭り』演出のための一環だ。その代わり男の子たちは黒子として徹するため、白シャツと黒いパンツというシンプルな格好になる。男の子たちの浴衣姿も見てみたかったなんて声もあがっていたけれど、当の彼らは着ずにすんで安心していたようだった。
各自の浴衣が決まった後、三階の会議室へ集まる。真夏が当日までのスケジュールを説明するのだ。
女の子たちがいなくなると部屋には残った浴衣や帯が散乱していた。部屋にいた女の子たちが片付けながら、うらやましそうにこの柄がかわいいとか、この帯とあわせたいね、などと言い合っていた。
「欲しいのがあれば言って。ただでは無理だけど格安で提供できるから」
司の言葉に眺めるだけだった女の子たちは、目を輝かせて真剣に浴衣を選びはじめる。
「いろんな柄があるのね」
「まあ、色柄だけはなんとかそろえたから。助かったよ、呉服屋の知り合いがいて」
浴衣は司が知り合いから格安で集めてきたものだ。バーゲンの既成品とはいえ生地はしっかりしている。なにより華やかでかわいらしい。イベント対応の女の子にはプレゼントする形になるため仕入れ値が安いのは助かる。
「九条には、これがいいかな」
肩にふわっと浴衣をのせられた。
黒地に紫陽花の花が大きく描かれている。後ろから抱きしめられるように前身ごろをあわせているせいで、司の手が胸元に近い。
「どう? 貴影」
「司、おまえ、むやみやたらに触るな」
「はいはい」
『千家くん、私たちにも選んでー』と声がかかり、司は美綾から離れて彼女たちのもとへと行った。美綾にしたのと同じように女の子の後ろから浴衣をかけている。
真夏が見ればまた言い合いになりそうな場面だ。この場にいなくて良かったかもしれない。
司のその距離感はどの女の子に対しても同じだ。誰にでも同じ。つまり誰も特別ではない。
だからあの夜以降も美綾は、彼を異性として意識せずに済んだ。
美綾は司にかけられた浴衣をそっと脱ごうとした。しかしその上から別の浴衣をかけられる。
臙脂に桔梗が描かれた柄は紫陽花のような華やかさはないが、落ち着いて大人っぽい。
「こっちのほうがいい」
貴影は独り言のように呟くとじっと美綾を見つめた。
まさか、彼が自分のために浴衣を選ぶとは思わずに貴影を見上げる。
「打ち合わせしようか?」
「え、ええ」
美綾は自分の鼓動が早まるのを感じていた。今もし鏡があれば、赤く染まった頬が映るだろう。
(本当にずるい)
こちらは心を凍らせようと必死なのに、水をたくさんかけて火を消そうともがいているのに。
小さな気まぐれで、彼は美綾の心を奪ってしまう。
燃え上がらせてしまう。
最初からそう。初めて出会った時から……何気ない行為で揺さぶってくるのだ。
美綾は二枚の浴衣を無造作に脱いだ。適当にハンガーにかける。
どうせ深い意味などない。だから美綾も意味がないのだと言い聞かせる。こんな些細な出来事を、大事な思い出に積み重ねたくなんかないから。
***
その日美綾はわずかに緊張した面持ちで、ホテルロビーに隣接するカフェのソファに座っていた。
『青桜』本社ビルすぐそばにある外資系ホテルのロビーは、平日にも関わらず夏休みのせいか、家族連れや外国人の旅行客がひっきりなしに通り過ぎている。子どものはしゃぐ声がほほ笑ましくて、美綾は少しだけ緊張を解いた。
豪奢なソファが並ぶシックな空間は、ロビーの喧騒さえ気にならないぐらい優雅な雰囲気に満ちている。
美綾は今回のプロジェクトの責任者である部長に呼び出されてこの場にいた。仕事なので本来なら制服を着るべきだったが、連絡を受けたのが突然だったことと緊急を要すると言われてそのまま来てしまった。
一応紺色のフレアスカートは膝丈だし、ミルクティー色のブラウスは五分袖でふんわりしているものの、全体的には落ち着いた格好だ。おかげでこういう場所でも浮かずに済んでいる。制服姿だと目立ってしまっただろうから、これはこれでよかったと思いたい。
こういう時、基本的にはいつも貴影が対応していた。『オレが表に立つから、九条には裏でサポートをメインにしてもらいたい』と表向きそう言われた時、彼だけに負担がかかるのではと心配した。結局、むしろこういうのは一人に固定したほうが齟齬や行き違いがなくて済むと言われて納得した。
電話がかかってきた時に貴影が別件で留守にしていたこと、『青桜』の部長である時任が美綾を直接指名したこともあって、迷いつつも美綾が来たのだ。
大きなガラス窓から見える雲はどんどん厚みを増している。雨が降りそうで降らない空。傘を持ってきて正解だったなとぼんやり思う。
「やあ、九条さん、突然呼び出してすまないね」
「いえ、構いません。こちらこそ私服で申し訳ありません」
時任が姿を現して、美綾は立ち上がって挨拶をした。
「いやいやこちらが急に呼び出したんだ。それに私服姿もいいよ」
突然だったのでなにかトラブルでもあったのかと不安だった。とにかく急いで来てほしいと時間と場所だけを指定されただけだったからだ。けれど時任の様子は穏やかで、にこにこ笑みまで浮かべている。悪い事態ではなさそうだけれど美綾は油断しないようにしようと気を張った。
時任が座るのを待って美綾も腰をおろす。すかさずカフェのスタッフが水のグラスを運んで、注文を聞きにきたけれど、時任は後でいいからと言って追い払った。
「あのご用件は?」
「ええと、少し待ってもらえるかな」
時任はそう言うと、そわそわと周囲を見回しはじめた。ぶつぶつと「あいつは一体なにをしているんだ!」と呟いているのが聞こえた。美綾は腑に落ちない気はしたものの待ってほしいと言われれば従うしかない。少しして彼がはっとしたように目を大きく開いた。そしてそのまま固まる。美綾もつい彼の視線の先を追った。
カフェの入り口から、モデルのようなスタイルの長身の男性がこちらに向かってまっすぐに歩いてきた。
二十代半ばから後半ぐらいだろうか。ここからも整った顔立ちであることがわかる。周囲の視線が自然に彼に向けられるものの本人は気にすることもなく堂々とした態度だ。
「どうして郡司くんがここに?」
「あいつを待っているなら無駄だ。あいつなら来ない」
「なんですって!?」
郡司と呼ばれた男性は、時任が年上であるにも関わらず不遜な物言いをしている。
「あいつには彼女連れで部長室を占拠させている。騒ぎになる前に戻ったほうがいいんじゃない?」
時任は呆気にとられた後、見るからに顔を青褪めさせたかと思えば、今度は怒りを露わにする。
「いいかげん慧たちのこと認めてやれば? オレが慧に代わりに断ってきてやるって言ったんだ。紹介予定の女子高生っておまえ?」
男の視線が今度は美綾に向けられた。上から下へと品定めしつつも、蔑んだものを隠さない。
何が起きているのか状況がつかめない。美綾にわかるのは目の前の男が、美綾の存在にひどく嫌悪と軽蔑を抱いているということだけだ。初対面の男性にここまで厳しい目を向けられたことはない。美綾は救いを求めるように時任を見た。
「九条さん、すまない……どうも邪魔されたみたいだ。申し訳ないけれど今日の呼び出しのことは忘れてほしい」
「あの! 仕事でなにかお話があったのでは?」
「いや、そっちは大丈夫。ここまで来てもらったのに本当にすまない。私は急いで戻らなければならなくなったから失礼させてもらうけどいいかな?」
「……はい。なにもなかったのであれば大丈夫です」
「本当にすまないね。今度お詫びをさせてくれ」
「いえ、お気になさらずに」
時任と美綾のやりとりを男は黙ったまま眺めていた。時任は男を気にしながらも、慌ててカフェを出ていく。
事情はよくわからない。この男性が誰かもわからない。でも仕事に関する問題はなかった。だから美綾はここを出て、時任の言う通り忘れて『SSC』に戻ればいい。美綾は動揺を抑えて今後の行動を決めた。
「では私も失礼します」そう告げて去ろうとした時、ソファに置いていた美綾の荷物と傘が取り上げられる。
「というわけでお嬢ちゃん。慧は来ないからオレが代わりに相手をしてやるよ」
男はそう言うと美綾の荷物を持ったまま、歩きはじめる。美綾は思わず大声をあげようとして押しとどめた。この男が現れた時から充分注目を浴びている。こんな場所でこれ以上騒ぎを大きくするわけにはいかない。美綾は荷物を取り返すべく男を追いかけた。
「返して! 荷物を返してください!」
男はなぜか出口には向かわずに地下への階段を降りて行った。人気がなくなったのを見計らって美綾は叫ぶ。階段はどうやら駐車場につながっていたようで、薄暗い空間に声が反響した。
美綾の叫びなど聞こえていないかのように、男は足早に歩くと一台の車に近づく。ドアを開けると美綾の荷物を後部座席に放り投げた。
完全に荷物を人質にとられた。
男はわざとらしい優雅な仕草で助手席のドアをあける。スポーツタイプの見るからに高級そうな車はこの男のものなのだろう。
彼は時任と顔見知りだった。さらに地位ある年上の男性に対してあの態度……そしてこの圧倒的な存在感。
「私の荷物を返してください」
「乗れよ。そうしたら返してやる」
嘘だ。車に乗ればきっとさらに逃げ場はなくなる。財布も携帯もないけれどホテルのロビーに戻って、スタッフでも警備員でも呼んだ方がいい。でも――――
「あなたは誰ですか?」
男はにこりと笑った。
「オレは青山郡司、おまえは『SSC』の子だろう? オレをこれ以上怒らせないほうがいい。仕事を中止にさせられたくないなら」
「そんな権限、あなたにあるわけが!」
「あるんだ、オレ、社長の息子だから」
美綾は言葉を失った。嘘かもしれない。でも嘘をつく必要がない。時任の態度からなんとなく立場のある人かもしれないと思っていた。
なにより『青桜』トップの名字は『青山』だ。
「乗れ」
そう命じられた時、美綾に成すすべはなかった。
作業用のテーブルは端に寄せられ、大きなハンガーラックが場所を占めていた。ラックには色とりどりの浴衣が並び、窓際のカウンターテーブルには無数の帯が広げられている。設置された衝立の奥が簡易の更衣スペースになっていた。
今日はイベント当日に仕事をする女の子たちがお気に入りの浴衣を選んでいる。
そんな中を司は動き回り、一人一人に声をかけつつ賛辞も忘れない。
美綾は真夏とともに女の子たちの着付けを手伝いながら名前と顔とを確認する。他の子たちが、彼女たちの選んだ浴衣をセットにして名前がわかるように整理していた。
当日スタッフとして働く女の子たちは浴衣姿で対応する。『夏祭り』演出のための一環だ。その代わり男の子たちは黒子として徹するため、白シャツと黒いパンツというシンプルな格好になる。男の子たちの浴衣姿も見てみたかったなんて声もあがっていたけれど、当の彼らは着ずにすんで安心していたようだった。
各自の浴衣が決まった後、三階の会議室へ集まる。真夏が当日までのスケジュールを説明するのだ。
女の子たちがいなくなると部屋には残った浴衣や帯が散乱していた。部屋にいた女の子たちが片付けながら、うらやましそうにこの柄がかわいいとか、この帯とあわせたいね、などと言い合っていた。
「欲しいのがあれば言って。ただでは無理だけど格安で提供できるから」
司の言葉に眺めるだけだった女の子たちは、目を輝かせて真剣に浴衣を選びはじめる。
「いろんな柄があるのね」
「まあ、色柄だけはなんとかそろえたから。助かったよ、呉服屋の知り合いがいて」
浴衣は司が知り合いから格安で集めてきたものだ。バーゲンの既成品とはいえ生地はしっかりしている。なにより華やかでかわいらしい。イベント対応の女の子にはプレゼントする形になるため仕入れ値が安いのは助かる。
「九条には、これがいいかな」
肩にふわっと浴衣をのせられた。
黒地に紫陽花の花が大きく描かれている。後ろから抱きしめられるように前身ごろをあわせているせいで、司の手が胸元に近い。
「どう? 貴影」
「司、おまえ、むやみやたらに触るな」
「はいはい」
『千家くん、私たちにも選んでー』と声がかかり、司は美綾から離れて彼女たちのもとへと行った。美綾にしたのと同じように女の子の後ろから浴衣をかけている。
真夏が見ればまた言い合いになりそうな場面だ。この場にいなくて良かったかもしれない。
司のその距離感はどの女の子に対しても同じだ。誰にでも同じ。つまり誰も特別ではない。
だからあの夜以降も美綾は、彼を異性として意識せずに済んだ。
美綾は司にかけられた浴衣をそっと脱ごうとした。しかしその上から別の浴衣をかけられる。
臙脂に桔梗が描かれた柄は紫陽花のような華やかさはないが、落ち着いて大人っぽい。
「こっちのほうがいい」
貴影は独り言のように呟くとじっと美綾を見つめた。
まさか、彼が自分のために浴衣を選ぶとは思わずに貴影を見上げる。
「打ち合わせしようか?」
「え、ええ」
美綾は自分の鼓動が早まるのを感じていた。今もし鏡があれば、赤く染まった頬が映るだろう。
(本当にずるい)
こちらは心を凍らせようと必死なのに、水をたくさんかけて火を消そうともがいているのに。
小さな気まぐれで、彼は美綾の心を奪ってしまう。
燃え上がらせてしまう。
最初からそう。初めて出会った時から……何気ない行為で揺さぶってくるのだ。
美綾は二枚の浴衣を無造作に脱いだ。適当にハンガーにかける。
どうせ深い意味などない。だから美綾も意味がないのだと言い聞かせる。こんな些細な出来事を、大事な思い出に積み重ねたくなんかないから。
***
その日美綾はわずかに緊張した面持ちで、ホテルロビーに隣接するカフェのソファに座っていた。
『青桜』本社ビルすぐそばにある外資系ホテルのロビーは、平日にも関わらず夏休みのせいか、家族連れや外国人の旅行客がひっきりなしに通り過ぎている。子どものはしゃぐ声がほほ笑ましくて、美綾は少しだけ緊張を解いた。
豪奢なソファが並ぶシックな空間は、ロビーの喧騒さえ気にならないぐらい優雅な雰囲気に満ちている。
美綾は今回のプロジェクトの責任者である部長に呼び出されてこの場にいた。仕事なので本来なら制服を着るべきだったが、連絡を受けたのが突然だったことと緊急を要すると言われてそのまま来てしまった。
一応紺色のフレアスカートは膝丈だし、ミルクティー色のブラウスは五分袖でふんわりしているものの、全体的には落ち着いた格好だ。おかげでこういう場所でも浮かずに済んでいる。制服姿だと目立ってしまっただろうから、これはこれでよかったと思いたい。
こういう時、基本的にはいつも貴影が対応していた。『オレが表に立つから、九条には裏でサポートをメインにしてもらいたい』と表向きそう言われた時、彼だけに負担がかかるのではと心配した。結局、むしろこういうのは一人に固定したほうが齟齬や行き違いがなくて済むと言われて納得した。
電話がかかってきた時に貴影が別件で留守にしていたこと、『青桜』の部長である時任が美綾を直接指名したこともあって、迷いつつも美綾が来たのだ。
大きなガラス窓から見える雲はどんどん厚みを増している。雨が降りそうで降らない空。傘を持ってきて正解だったなとぼんやり思う。
「やあ、九条さん、突然呼び出してすまないね」
「いえ、構いません。こちらこそ私服で申し訳ありません」
時任が姿を現して、美綾は立ち上がって挨拶をした。
「いやいやこちらが急に呼び出したんだ。それに私服姿もいいよ」
突然だったのでなにかトラブルでもあったのかと不安だった。とにかく急いで来てほしいと時間と場所だけを指定されただけだったからだ。けれど時任の様子は穏やかで、にこにこ笑みまで浮かべている。悪い事態ではなさそうだけれど美綾は油断しないようにしようと気を張った。
時任が座るのを待って美綾も腰をおろす。すかさずカフェのスタッフが水のグラスを運んで、注文を聞きにきたけれど、時任は後でいいからと言って追い払った。
「あのご用件は?」
「ええと、少し待ってもらえるかな」
時任はそう言うと、そわそわと周囲を見回しはじめた。ぶつぶつと「あいつは一体なにをしているんだ!」と呟いているのが聞こえた。美綾は腑に落ちない気はしたものの待ってほしいと言われれば従うしかない。少しして彼がはっとしたように目を大きく開いた。そしてそのまま固まる。美綾もつい彼の視線の先を追った。
カフェの入り口から、モデルのようなスタイルの長身の男性がこちらに向かってまっすぐに歩いてきた。
二十代半ばから後半ぐらいだろうか。ここからも整った顔立ちであることがわかる。周囲の視線が自然に彼に向けられるものの本人は気にすることもなく堂々とした態度だ。
「どうして郡司くんがここに?」
「あいつを待っているなら無駄だ。あいつなら来ない」
「なんですって!?」
郡司と呼ばれた男性は、時任が年上であるにも関わらず不遜な物言いをしている。
「あいつには彼女連れで部長室を占拠させている。騒ぎになる前に戻ったほうがいいんじゃない?」
時任は呆気にとられた後、見るからに顔を青褪めさせたかと思えば、今度は怒りを露わにする。
「いいかげん慧たちのこと認めてやれば? オレが慧に代わりに断ってきてやるって言ったんだ。紹介予定の女子高生っておまえ?」
男の視線が今度は美綾に向けられた。上から下へと品定めしつつも、蔑んだものを隠さない。
何が起きているのか状況がつかめない。美綾にわかるのは目の前の男が、美綾の存在にひどく嫌悪と軽蔑を抱いているということだけだ。初対面の男性にここまで厳しい目を向けられたことはない。美綾は救いを求めるように時任を見た。
「九条さん、すまない……どうも邪魔されたみたいだ。申し訳ないけれど今日の呼び出しのことは忘れてほしい」
「あの! 仕事でなにかお話があったのでは?」
「いや、そっちは大丈夫。ここまで来てもらったのに本当にすまない。私は急いで戻らなければならなくなったから失礼させてもらうけどいいかな?」
「……はい。なにもなかったのであれば大丈夫です」
「本当にすまないね。今度お詫びをさせてくれ」
「いえ、お気になさらずに」
時任と美綾のやりとりを男は黙ったまま眺めていた。時任は男を気にしながらも、慌ててカフェを出ていく。
事情はよくわからない。この男性が誰かもわからない。でも仕事に関する問題はなかった。だから美綾はここを出て、時任の言う通り忘れて『SSC』に戻ればいい。美綾は動揺を抑えて今後の行動を決めた。
「では私も失礼します」そう告げて去ろうとした時、ソファに置いていた美綾の荷物と傘が取り上げられる。
「というわけでお嬢ちゃん。慧は来ないからオレが代わりに相手をしてやるよ」
男はそう言うと美綾の荷物を持ったまま、歩きはじめる。美綾は思わず大声をあげようとして押しとどめた。この男が現れた時から充分注目を浴びている。こんな場所でこれ以上騒ぎを大きくするわけにはいかない。美綾は荷物を取り返すべく男を追いかけた。
「返して! 荷物を返してください!」
男はなぜか出口には向かわずに地下への階段を降りて行った。人気がなくなったのを見計らって美綾は叫ぶ。階段はどうやら駐車場につながっていたようで、薄暗い空間に声が反響した。
美綾の叫びなど聞こえていないかのように、男は足早に歩くと一台の車に近づく。ドアを開けると美綾の荷物を後部座席に放り投げた。
完全に荷物を人質にとられた。
男はわざとらしい優雅な仕草で助手席のドアをあける。スポーツタイプの見るからに高級そうな車はこの男のものなのだろう。
彼は時任と顔見知りだった。さらに地位ある年上の男性に対してあの態度……そしてこの圧倒的な存在感。
「私の荷物を返してください」
「乗れよ。そうしたら返してやる」
嘘だ。車に乗ればきっとさらに逃げ場はなくなる。財布も携帯もないけれどホテルのロビーに戻って、スタッフでも警備員でも呼んだ方がいい。でも――――
「あなたは誰ですか?」
男はにこりと笑った。
「オレは青山郡司、おまえは『SSC』の子だろう? オレをこれ以上怒らせないほうがいい。仕事を中止にさせられたくないなら」
「そんな権限、あなたにあるわけが!」
「あるんだ、オレ、社長の息子だから」
美綾は言葉を失った。嘘かもしれない。でも嘘をつく必要がない。時任の態度からなんとなく立場のある人かもしれないと思っていた。
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