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夏は星狩りの季節
蔵を慢にすれば、盗を晦う、大切な宝が見えていると手を伸ばしてしまうもの
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趙武は、ほんの数歩離れた場所で座っていた。常に所作美しい彼とは思えぬほど、幼いしぐさで、虚空に向けて笑顔を見せている。それもやはり幼い笑みであり、そして、無邪気でもあった。
「私、私はずっと恩返しをしたかった、そうです、ありがとうございます、思いとどまってくださり」
幸せそうに嬉しそうに何も無い空間へ、話しかけている。まるで誰かがいるように、乗り出して話している。
「程嬰がわざわざ黄泉に伺うことなど、必要ない。父祖への報告が私がします。程嬰はもう、何も心配なくゆっくりお過ごしください。長い間……本当に長い間、私を守ってくれたこと、育ててくれたこと、その無私のお心、慈しみ、感謝致します。あなただけです、あなただけなのです、私のことを見て下さっていたのは程嬰だけです」
いっそ戯曲のような光景に、士匄は思わず立ち尽くしぼんやりとした。気持ち悪い光景だ、とも思った。
趙武が、虚空へ手を伸ばす。幼児が親の愛を請うような笑みを浮かべたまま、その手を払われることはないと確信をもって手を伸ばしている。
「誰もおりません。だから、いいですか。いいんですね、二人だけの秘密です。じゃあ言います、呼びます、ちちうえ――」
趙武の言葉と同時に瘴気が意志をもったように凄まじい速さで舞い動いた。趙武が見上げている虚空に、人影ができあがる。指先から肉が盛られてゆき、影が実体と変わっていこうとしていた。壮年の男と思われる、どっしりとした影の足先に沓が現れ、厚みのある手の平も現れる。その手は、趙武を優しく撫でようと動いていた。
「く、そ、あのバカ!」
士匄は荀偃を抱えたまま数歩、駆け出した。走る、という速さなど出ようもない。しかし、それでもマシであろう。数歩、たった数歩である。あの、どう見てもヤバイあれを、なんとかせねばならぬ。なんと鈍くさい後輩だ、と歯ぎしりをする。あとは、反射であった。
手持ちのもの、つまり荀偃を趙武にぶつけ、二人ごと蹴り飛ばす。そのまま帯止めに付けていたもうひとつの魔除けを引きちぎり、投げつけようとした。
が。
影の手が、趙武の代わりに士匄を撫でた。その瞬間、ぞりっとした摺りおろされるような感覚と共に、怖気、嫌悪、忌まわしさが脳天から足先まで駆け巡った。腹の底が破けて奈落ができるような虚無、心がカラカラに渇き枯れる飢え、孤独感寂寥感いいようもしれぬ後悔の気持ち、喪失の想い。虚脱し倒れたい、という誘惑を死んでたまるかという気合いだけでなんとか撥ねのけ、士匄は手に持った魔除けを影に投げつけた。その反動で、地に体が勢いよく叩きつけられる。
ばらまかれた骨が、確かな犬の幻影を持って影に吼え追い立てる。影は霧散した。消えたわけではなく、散った、と額に脂汗をかきながら士匄は冷静に見た。この青年は浮かれるときはどうしようもないが、基本的には理の人間であった。激しく息を吐きながら、必至に起き上がる。脇の下まで汗がびっしょりとしていた。
「知らねば、ここまで怖じなかった、くそ」
小さく呟く。あの影がもたらしたものは、死にゆくもの全てに与えられる臨終の瞬間であった。どのような死であろうとも、これは平等であった。死した祖を遊び半分に呼び出していたころから、何重もの布越しで知っていた感覚である。他人事のような、知識程度にしかならぬそれを、あの影はダイレクトに士匄へもたらした。己が生きている、と確信し、ふ、と息を整えた後、ふっとばした荀偃と趙武を探した。
荀偃は気絶しているらしく、倒れ動かない。……己が助けたのだから死んでいるはずがないと言いきかせる。趙武は――。
「見ないで下さい、見ないで、見ないでえ」
趙武は、体を丸め、地に突っ伏して泣いていた。お、おえ、と嗚咽し、見ないで、見ないで、と震え泣いている。
「趙孟。お前が己ではじかぬから、わたしは寿命を食われた、あれに持っていかれたわ。わたしが明日死んでしまったら、お前のせいだ、末代まで祟るぞ」
どうなるかわからぬ、長居はできぬ。士匄は、必至に二人の元へ向かいながら吐き捨てた。
趙武がはじかれたように体を起こし、顔をゆがめた。彼にとって不幸なことに、ここまで歪め泣いていても、美しいかんばせであった。士匄は得な顔かと思っていたが、損なこともあるのだと、趙武を見ながら思った。身も世も無く泣き叫んでも、この男の血を吐くほどの悲しみに人は気づけまい。それほど、優美に憂いが美しく、観賞用すぎた。人は、美しいものに感じ入っても同調はできない。
「ぐすっ、すみません、も、もうしわけ、ございません、欲しいでしょうって言われて、言われ……頷きました。あの、程嬰っは! ……私の育ての親で、父の親友で、えっと。全部投げ打って、二十年も……家も捨て妻子なく、それで、私が成人したから、えっと、すごく、よろこんでくれ、て、て、うぇ、自害――」
混乱した趙武が、言わずでもよいことを垂れ流す。士匄はそんな話は聞きたくない。『これからはこのような失態が無いよう心がけます』のひとことだけで良い。趙武の繰り言より、荀偃である。ようやっとたどり着いた士匄は、荀偃の体を撫で、生きていることを確認すると、安堵のため息をついた。耳にはまだ、趙武の言葉が響く。後輩は、どうして良いか、もうわからなくなっているらしい。
「程嬰、死んじゃった、どうして……、私、恩返ししたかったのに、父上に黄泉で報告とか、いらないでしょう、死んじゃってる人に報告っておかしくないですか!?、私は、私はなんだったんですか! これからなんじゃないんですか!」
嘆きと怒りと悔いで怒鳴り出す趙武は、心底うっとうしい。士匄はそう、うんざりしながらも、先達として口を開いた。
「しかし、理はあろう。程氏という名の有力貴族はわたしは聞かぬ。であれば、お前、趙氏の傘下とかそのあたりの縁ではないか? そのような格の低いものが、卿を担う趙氏の長を越えて上に置いておけぬ。しかし、お前は下にもおけぬ。その男の自死は正しい、礼あり、そして理がある。お前を己の人生潰して育てたのだ、義あり、友情篤く仁深い。良き男に育てられたと胸でもはっておけ。お前の本当の望みは忘れてやる」
士匄は、今度は丁寧に荀偃を抱きかかえると、未だ座り込む趙武を軽く蹴った。趙武がうなだれ、
「趙氏なんて滅んでしまえばよかったんです」
と、小さく呟いた。が、息を一回吐き出すと、しゃきっとした動きで立ち上がり、申し訳ございませんでした、と所作美しく立礼した。その目元は泣き腫れていたが、かわいそうなほど麗しい顔であった。士匄は鼻をならし、
「先ほどのものは消えておらぬ。散っただけだ。同じような目にあってはかなわぬ、場を変える。中行伯の邸――に強襲するは無謀だな。宮中の巫覡を患わすには状況がやっかいと見た。わたしの邸に行く」
「……あなたは未だ嗣子です。家のこと全て掌握されておられないでしょう。大丈夫ですか?」
士氏の家宰以下、家老たちに拒否をされないか、と趙武が暗に問うた。
「荀氏と士氏はじいさんのころからの仲だ。文句を言わせるか。士氏のものが荀氏の嗣子を見殺しにした、とされれば、じいさんが全力で祟ってくるであろうよ」
士匄は何かを睨み付けるような目つきで言い放つ。今、不祥の気配は低い。それ以前に、今まで荀偃は何の霊障も示さなかった。石を抜き取ったとたんに、凄まじい瘴気が充満したのである。荀偃の言葉が本当であれば、石が守護となり荀偃の不祥を封じていることになる。
「どういうことだ、ったく」
ち、と唾を吐き捨てたあと、士匄は歩き出した。趙武がわきから荀偃の体を支え、共に歩く。
「……范叔。忘れないでください。私は愚かにも、氏族でもない男を父と呼びたがりました、真に望みました。不孝であり恥ずべき行い、想いです。そういった人間であると、あなたは知っておいて下さい。私の戒めとなります」
趙武のしずしずとした言葉は自己憐憫も媚びもなく、真摯な内省があった。士匄は、そうか、とだけ答えたあと、
「中行伯のお体は弱っている。支えるなら、きちんとしろ」
と言った。
「私、私はずっと恩返しをしたかった、そうです、ありがとうございます、思いとどまってくださり」
幸せそうに嬉しそうに何も無い空間へ、話しかけている。まるで誰かがいるように、乗り出して話している。
「程嬰がわざわざ黄泉に伺うことなど、必要ない。父祖への報告が私がします。程嬰はもう、何も心配なくゆっくりお過ごしください。長い間……本当に長い間、私を守ってくれたこと、育ててくれたこと、その無私のお心、慈しみ、感謝致します。あなただけです、あなただけなのです、私のことを見て下さっていたのは程嬰だけです」
いっそ戯曲のような光景に、士匄は思わず立ち尽くしぼんやりとした。気持ち悪い光景だ、とも思った。
趙武が、虚空へ手を伸ばす。幼児が親の愛を請うような笑みを浮かべたまま、その手を払われることはないと確信をもって手を伸ばしている。
「誰もおりません。だから、いいですか。いいんですね、二人だけの秘密です。じゃあ言います、呼びます、ちちうえ――」
趙武の言葉と同時に瘴気が意志をもったように凄まじい速さで舞い動いた。趙武が見上げている虚空に、人影ができあがる。指先から肉が盛られてゆき、影が実体と変わっていこうとしていた。壮年の男と思われる、どっしりとした影の足先に沓が現れ、厚みのある手の平も現れる。その手は、趙武を優しく撫でようと動いていた。
「く、そ、あのバカ!」
士匄は荀偃を抱えたまま数歩、駆け出した。走る、という速さなど出ようもない。しかし、それでもマシであろう。数歩、たった数歩である。あの、どう見てもヤバイあれを、なんとかせねばならぬ。なんと鈍くさい後輩だ、と歯ぎしりをする。あとは、反射であった。
手持ちのもの、つまり荀偃を趙武にぶつけ、二人ごと蹴り飛ばす。そのまま帯止めに付けていたもうひとつの魔除けを引きちぎり、投げつけようとした。
が。
影の手が、趙武の代わりに士匄を撫でた。その瞬間、ぞりっとした摺りおろされるような感覚と共に、怖気、嫌悪、忌まわしさが脳天から足先まで駆け巡った。腹の底が破けて奈落ができるような虚無、心がカラカラに渇き枯れる飢え、孤独感寂寥感いいようもしれぬ後悔の気持ち、喪失の想い。虚脱し倒れたい、という誘惑を死んでたまるかという気合いだけでなんとか撥ねのけ、士匄は手に持った魔除けを影に投げつけた。その反動で、地に体が勢いよく叩きつけられる。
ばらまかれた骨が、確かな犬の幻影を持って影に吼え追い立てる。影は霧散した。消えたわけではなく、散った、と額に脂汗をかきながら士匄は冷静に見た。この青年は浮かれるときはどうしようもないが、基本的には理の人間であった。激しく息を吐きながら、必至に起き上がる。脇の下まで汗がびっしょりとしていた。
「知らねば、ここまで怖じなかった、くそ」
小さく呟く。あの影がもたらしたものは、死にゆくもの全てに与えられる臨終の瞬間であった。どのような死であろうとも、これは平等であった。死した祖を遊び半分に呼び出していたころから、何重もの布越しで知っていた感覚である。他人事のような、知識程度にしかならぬそれを、あの影はダイレクトに士匄へもたらした。己が生きている、と確信し、ふ、と息を整えた後、ふっとばした荀偃と趙武を探した。
荀偃は気絶しているらしく、倒れ動かない。……己が助けたのだから死んでいるはずがないと言いきかせる。趙武は――。
「見ないで下さい、見ないで、見ないでえ」
趙武は、体を丸め、地に突っ伏して泣いていた。お、おえ、と嗚咽し、見ないで、見ないで、と震え泣いている。
「趙孟。お前が己ではじかぬから、わたしは寿命を食われた、あれに持っていかれたわ。わたしが明日死んでしまったら、お前のせいだ、末代まで祟るぞ」
どうなるかわからぬ、長居はできぬ。士匄は、必至に二人の元へ向かいながら吐き捨てた。
趙武がはじかれたように体を起こし、顔をゆがめた。彼にとって不幸なことに、ここまで歪め泣いていても、美しいかんばせであった。士匄は得な顔かと思っていたが、損なこともあるのだと、趙武を見ながら思った。身も世も無く泣き叫んでも、この男の血を吐くほどの悲しみに人は気づけまい。それほど、優美に憂いが美しく、観賞用すぎた。人は、美しいものに感じ入っても同調はできない。
「ぐすっ、すみません、も、もうしわけ、ございません、欲しいでしょうって言われて、言われ……頷きました。あの、程嬰っは! ……私の育ての親で、父の親友で、えっと。全部投げ打って、二十年も……家も捨て妻子なく、それで、私が成人したから、えっと、すごく、よろこんでくれ、て、て、うぇ、自害――」
混乱した趙武が、言わずでもよいことを垂れ流す。士匄はそんな話は聞きたくない。『これからはこのような失態が無いよう心がけます』のひとことだけで良い。趙武の繰り言より、荀偃である。ようやっとたどり着いた士匄は、荀偃の体を撫で、生きていることを確認すると、安堵のため息をついた。耳にはまだ、趙武の言葉が響く。後輩は、どうして良いか、もうわからなくなっているらしい。
「程嬰、死んじゃった、どうして……、私、恩返ししたかったのに、父上に黄泉で報告とか、いらないでしょう、死んじゃってる人に報告っておかしくないですか!?、私は、私はなんだったんですか! これからなんじゃないんですか!」
嘆きと怒りと悔いで怒鳴り出す趙武は、心底うっとうしい。士匄はそう、うんざりしながらも、先達として口を開いた。
「しかし、理はあろう。程氏という名の有力貴族はわたしは聞かぬ。であれば、お前、趙氏の傘下とかそのあたりの縁ではないか? そのような格の低いものが、卿を担う趙氏の長を越えて上に置いておけぬ。しかし、お前は下にもおけぬ。その男の自死は正しい、礼あり、そして理がある。お前を己の人生潰して育てたのだ、義あり、友情篤く仁深い。良き男に育てられたと胸でもはっておけ。お前の本当の望みは忘れてやる」
士匄は、今度は丁寧に荀偃を抱きかかえると、未だ座り込む趙武を軽く蹴った。趙武がうなだれ、
「趙氏なんて滅んでしまえばよかったんです」
と、小さく呟いた。が、息を一回吐き出すと、しゃきっとした動きで立ち上がり、申し訳ございませんでした、と所作美しく立礼した。その目元は泣き腫れていたが、かわいそうなほど麗しい顔であった。士匄は鼻をならし、
「先ほどのものは消えておらぬ。散っただけだ。同じような目にあってはかなわぬ、場を変える。中行伯の邸――に強襲するは無謀だな。宮中の巫覡を患わすには状況がやっかいと見た。わたしの邸に行く」
「……あなたは未だ嗣子です。家のこと全て掌握されておられないでしょう。大丈夫ですか?」
士氏の家宰以下、家老たちに拒否をされないか、と趙武が暗に問うた。
「荀氏と士氏はじいさんのころからの仲だ。文句を言わせるか。士氏のものが荀氏の嗣子を見殺しにした、とされれば、じいさんが全力で祟ってくるであろうよ」
士匄は何かを睨み付けるような目つきで言い放つ。今、不祥の気配は低い。それ以前に、今まで荀偃は何の霊障も示さなかった。石を抜き取ったとたんに、凄まじい瘴気が充満したのである。荀偃の言葉が本当であれば、石が守護となり荀偃の不祥を封じていることになる。
「どういうことだ、ったく」
ち、と唾を吐き捨てたあと、士匄は歩き出した。趙武がわきから荀偃の体を支え、共に歩く。
「……范叔。忘れないでください。私は愚かにも、氏族でもない男を父と呼びたがりました、真に望みました。不孝であり恥ずべき行い、想いです。そういった人間であると、あなたは知っておいて下さい。私の戒めとなります」
趙武のしずしずとした言葉は自己憐憫も媚びもなく、真摯な内省があった。士匄は、そうか、とだけ答えたあと、
「中行伯のお体は弱っている。支えるなら、きちんとしろ」
と言った。
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