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閑話
方の外に遊ぶ者なり。途中休憩。たまには世俗をわすれてぼんやりと。下
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気でも狂ったのか、と趙武も邑宰も士匄を見た。が、士匄の目は理性の光がしっかりとある。嫌悪感に彩られた顔をしているが、狂人じみた様子は無い。
「だまって頷けとわたしは言ったはずだ。そして、保障はする、と。井戸はあらたに我が手勢で作ろう。耕地が戻るまでは、我が邑から財、穀で飢えぬよう、税が滞ることなきよう、補填するとも言った。すでに不祥に冒されたものは諦めろ、隔離して軽作業でもさせておくんだな。生かしておくのが邪魔であれば贄にでもしろ」
最後の一言は現代から見れば極めて非人道であるが、当時の貴族的価値観からすれば、常識の範囲内である。それはともかく士匄の顔は舌打ちでもせんばかりのであった。これは趙武への苛立ちではなく不祥への嫌悪らしい。趙武はよほど、何を見ているのか、と問いただしたかったが、今は言えぬと言い切られたのである。追求はやめた。
「……わかりました。士氏は法制のお家柄、そしてあなたは血と玉を以て地の神に誓った。そのお覚悟を信じましょう。邑宰。差配をお願いします。民は不安がるでしょうが、生活は保障すると仰ってかまいません」
邑宰は、それはできかねる、と抗弁したが、趙武は主としての絶対権で押し通し、
「……古くは、田畑を焼いて作物を実らせたと言います。耕地は無くなるわけではございません。火を放って下さい」
と命じた。士匄がそれに頷きながら
「井戸は我が手勢で新たに作ると言った。今からすぐに呼び寄せる」
と言って、傍らに控えていた手勢に命じ、走らせた。そこまでされれば、邑宰も命令に服すしかない。彼は邑を背負う長であり、心情は民に寄っていたが、主には逆らえなかった。
こうして、ひとつの井戸が完全に潰され、民が茫然とする中、耕地は丁寧に焼き尽くされた。終われば、戦の後のようだ、と趙武は思った。彼は戦争など出たことがないため、想像である。士匄がふかく息を吐いた。まるでようやく息がつけた、という様子であった。彼を擁護するなら、まさに、そのとおりでもあった。
「わが手勢が来るまで、邑宰どのは不安だろう。それまでここで待つ。邸に案内しろ」
今度こそは、馬車に乗り込みながら、士匄は言った。趙武が呆れた顔をし、邑宰がひきつったが、理屈は正しい。恐怖に怯える邑宰が先導し、士匄と趙武の乗る馬車は邑の中心地へと向かった。
「……結局、何を見ていたのです? ここにはあなたと私だけです」
「お前……それが聞きたくて、わたしの馬車に乗り込んだのか」
今度は士匄が呆れる番であった。趙武が、好奇心ではなく義務です、と返す。己の領地に火を放ち、井戸を潰したのである。当然であった。士匄は苦い顔をした。思い出しただけで、吐き気をもよおしそうである。が、趙武の言うことは全く正しい。理に適っている。知らねばならぬのが道理である。
「言うが、叫ぶな、吐くな、そして何故教えたなど八つ当たりするなよ」
今回の士匄はやたら前置きが多い。
「そうやって先に了承を得ようとするのは、少々卑しくありませんか」
とうとう、趙武は言ってしまった。先達の言葉に頷け、であれば趙武は道理として受け入れる。それは責任を先達が負うという宣言でもある。が、士匄の言いぐさは、趙武に責をなすりつけるようなものであった。
士匄は手の甲で己の口を一瞬だけふせぐと、確かに卑しいな、と呟く。
「わたしとしたことが、保身に走った。しかし、一応お前を慮ったのも事実だ。言い方が悪かったが、許せ」
本人としては謝っているつもりらしい。趙武がそれで? と目で促し、士匄は頷いた。
「不祥に取り憑かれた民は口やら腹やらから、蟲が見えた」
「蟲?」
「砂虫や蚯蚓のような、手足なき長くにょろっとした蟲だ。あと、その幼虫らしき蟲だな」
言っているうちに気持ち悪くなってきたのか、士匄が苦々しい顔をした。趙武もあまり気持ちの良い不祥ではないな、と少し眉をしかめたが、しかしそこまで嫌悪があるかといえば、そうでもない。趙武は見た目は繊細であるが中身はけっこうタフである。士匄の言葉は続く。
「まあ、民に関しては良い。耕地と井戸だ。特に井戸が酷かった……」
そこまで言うと、士匄は一旦息をついた。そして、意を決したように、口を開いた。
「蟲と貝の交尾がびっしりと、だな。大量の砂虫と巻き貝が絡み合って、不祥をまき散らしながら、交尾していた。お前、見えなくて幸せだったな、いや本っ当に幸せだ、不祥どころではない、気持ち悪い、この世の地獄だった、あんなところで働き、過ごし、そして水を使い飲む。考えただけで吐き気がくるわ、いや気が狂う」
士匄の吐きそうな顔を見ながら、趙武も嘔吐感を覚えていた。想像を絶する気持ち悪さである。生理的嫌悪で鳥肌が立つ。そして、そんなものを見ながら耐え、誓いまでした士匄を讃えたくなった。趙武はさすがに、士匄の妄想とは思わなかった。山神と共に対峙したのである、本当であると信じた。
「井戸と共に蟲も貝も埋められ、地には出てこなかった。火を放っている間、蟲と貝は消えていったようだ。次に湧いたら知らんが、とりあえずは大丈夫だろう。井戸は卜占、巫覡総動員で場所を選べ。わたしはそこまで面倒見ぬ、良き井戸を作る手勢だけは貸す」
ため息をつきながら言う士匄に、趙武はありがとうございます、と心から感謝の意を表し、拝礼した。馬車が邑の中央、邑宰の邸についたとき、趙武はうやうやしく士匄を先導し、後輩、格下、そして恩人に対する趙氏の長として完璧に接待した。士匄は当然、という傲岸な態度で終始受け入れていた。
さて。士匄の見たものと同じかどうか、わからぬが、ひとつの豆知識を記しておく。
定住民族特有の風土病に住血吸虫症がある。寄生虫による疾病で、人体への侵入後、血管内に寄生し、最終的に肝臓付近に生息することが多い。慢性疾患であるが、消化器官、肝臓の疾病を併発させ、放置すれば衰弱死する。ほとんどの寄生虫感染は宿主がおり、そこから人間などに感染していく。この寄生虫の宿主は淡水性小型巻き貝である。この風土病は紀元前二世紀の漢王朝時代にはすでに確認されている。趙武が悩んだ邑の不祥とこの疾病が関係あるかはともかく、まあ、一つのオチとして筆者は付け加えた。
「だまって頷けとわたしは言ったはずだ。そして、保障はする、と。井戸はあらたに我が手勢で作ろう。耕地が戻るまでは、我が邑から財、穀で飢えぬよう、税が滞ることなきよう、補填するとも言った。すでに不祥に冒されたものは諦めろ、隔離して軽作業でもさせておくんだな。生かしておくのが邪魔であれば贄にでもしろ」
最後の一言は現代から見れば極めて非人道であるが、当時の貴族的価値観からすれば、常識の範囲内である。それはともかく士匄の顔は舌打ちでもせんばかりのであった。これは趙武への苛立ちではなく不祥への嫌悪らしい。趙武はよほど、何を見ているのか、と問いただしたかったが、今は言えぬと言い切られたのである。追求はやめた。
「……わかりました。士氏は法制のお家柄、そしてあなたは血と玉を以て地の神に誓った。そのお覚悟を信じましょう。邑宰。差配をお願いします。民は不安がるでしょうが、生活は保障すると仰ってかまいません」
邑宰は、それはできかねる、と抗弁したが、趙武は主としての絶対権で押し通し、
「……古くは、田畑を焼いて作物を実らせたと言います。耕地は無くなるわけではございません。火を放って下さい」
と命じた。士匄がそれに頷きながら
「井戸は我が手勢で新たに作ると言った。今からすぐに呼び寄せる」
と言って、傍らに控えていた手勢に命じ、走らせた。そこまでされれば、邑宰も命令に服すしかない。彼は邑を背負う長であり、心情は民に寄っていたが、主には逆らえなかった。
こうして、ひとつの井戸が完全に潰され、民が茫然とする中、耕地は丁寧に焼き尽くされた。終われば、戦の後のようだ、と趙武は思った。彼は戦争など出たことがないため、想像である。士匄がふかく息を吐いた。まるでようやく息がつけた、という様子であった。彼を擁護するなら、まさに、そのとおりでもあった。
「わが手勢が来るまで、邑宰どのは不安だろう。それまでここで待つ。邸に案内しろ」
今度こそは、馬車に乗り込みながら、士匄は言った。趙武が呆れた顔をし、邑宰がひきつったが、理屈は正しい。恐怖に怯える邑宰が先導し、士匄と趙武の乗る馬車は邑の中心地へと向かった。
「……結局、何を見ていたのです? ここにはあなたと私だけです」
「お前……それが聞きたくて、わたしの馬車に乗り込んだのか」
今度は士匄が呆れる番であった。趙武が、好奇心ではなく義務です、と返す。己の領地に火を放ち、井戸を潰したのである。当然であった。士匄は苦い顔をした。思い出しただけで、吐き気をもよおしそうである。が、趙武の言うことは全く正しい。理に適っている。知らねばならぬのが道理である。
「言うが、叫ぶな、吐くな、そして何故教えたなど八つ当たりするなよ」
今回の士匄はやたら前置きが多い。
「そうやって先に了承を得ようとするのは、少々卑しくありませんか」
とうとう、趙武は言ってしまった。先達の言葉に頷け、であれば趙武は道理として受け入れる。それは責任を先達が負うという宣言でもある。が、士匄の言いぐさは、趙武に責をなすりつけるようなものであった。
士匄は手の甲で己の口を一瞬だけふせぐと、確かに卑しいな、と呟く。
「わたしとしたことが、保身に走った。しかし、一応お前を慮ったのも事実だ。言い方が悪かったが、許せ」
本人としては謝っているつもりらしい。趙武がそれで? と目で促し、士匄は頷いた。
「不祥に取り憑かれた民は口やら腹やらから、蟲が見えた」
「蟲?」
「砂虫や蚯蚓のような、手足なき長くにょろっとした蟲だ。あと、その幼虫らしき蟲だな」
言っているうちに気持ち悪くなってきたのか、士匄が苦々しい顔をした。趙武もあまり気持ちの良い不祥ではないな、と少し眉をしかめたが、しかしそこまで嫌悪があるかといえば、そうでもない。趙武は見た目は繊細であるが中身はけっこうタフである。士匄の言葉は続く。
「まあ、民に関しては良い。耕地と井戸だ。特に井戸が酷かった……」
そこまで言うと、士匄は一旦息をついた。そして、意を決したように、口を開いた。
「蟲と貝の交尾がびっしりと、だな。大量の砂虫と巻き貝が絡み合って、不祥をまき散らしながら、交尾していた。お前、見えなくて幸せだったな、いや本っ当に幸せだ、不祥どころではない、気持ち悪い、この世の地獄だった、あんなところで働き、過ごし、そして水を使い飲む。考えただけで吐き気がくるわ、いや気が狂う」
士匄の吐きそうな顔を見ながら、趙武も嘔吐感を覚えていた。想像を絶する気持ち悪さである。生理的嫌悪で鳥肌が立つ。そして、そんなものを見ながら耐え、誓いまでした士匄を讃えたくなった。趙武はさすがに、士匄の妄想とは思わなかった。山神と共に対峙したのである、本当であると信じた。
「井戸と共に蟲も貝も埋められ、地には出てこなかった。火を放っている間、蟲と貝は消えていったようだ。次に湧いたら知らんが、とりあえずは大丈夫だろう。井戸は卜占、巫覡総動員で場所を選べ。わたしはそこまで面倒見ぬ、良き井戸を作る手勢だけは貸す」
ため息をつきながら言う士匄に、趙武はありがとうございます、と心から感謝の意を表し、拝礼した。馬車が邑の中央、邑宰の邸についたとき、趙武はうやうやしく士匄を先導し、後輩、格下、そして恩人に対する趙氏の長として完璧に接待した。士匄は当然、という傲岸な態度で終始受け入れていた。
さて。士匄の見たものと同じかどうか、わからぬが、ひとつの豆知識を記しておく。
定住民族特有の風土病に住血吸虫症がある。寄生虫による疾病で、人体への侵入後、血管内に寄生し、最終的に肝臓付近に生息することが多い。慢性疾患であるが、消化器官、肝臓の疾病を併発させ、放置すれば衰弱死する。ほとんどの寄生虫感染は宿主がおり、そこから人間などに感染していく。この寄生虫の宿主は淡水性小型巻き貝である。この風土病は紀元前二世紀の漢王朝時代にはすでに確認されている。趙武が悩んだ邑の不祥とこの疾病が関係あるかはともかく、まあ、一つのオチとして筆者は付け加えた。
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