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第三章 追放令嬢リュドミラ
第四十七話 船上の夜明け
しおりを挟む――このお方はお前の婚約者だ。きちんと挨拶しろ。
深い闇の中、おぼろげな光景が流れる。明るい場所なのに明るく感じない。そして目の前にいる男の子の顔も、暗いとしか言いようがない。
――余計なことを考える必要はない。お前はお前のすべきことをしろ!
忌々しそうに吐き捨てられる言葉もまた、いつものこと。だからそれが心に突き刺さるのも今更だった。
期待するほうが間違っている。
物心つく前からレールは敷かれていた。自分はそれに乗って、ただ周囲の思うがまま走り続けるだけ。それ以外に道の選択肢はない。
それでも、やはり願わずにはいられなかった。
狭い暗闇から、どこまでも広い光の下に連れ出してくれることを。
たとえ期待しても意味がないことが分かっていたとしても、やはりどうしても心の片隅で残り続けてしまう。
そのわずかな儚い想いを胸に――ずっとずっと頑張ってきた。
決して楽しさを感じることのない苦しい道のり。その中を突き進み、やがてそれは実を結ぶ。
周りからも一目置かれるようになり、敷かれたレールを走り続けるにふさわしい存在になれたと、そう思っていた。
その矢先に彼から言われた。
『リュドミラ・アレクサンドロフ! キサマとの婚約を破棄させてもらう!!』
そこで目が覚めた。
一体何がどうなったのか――夢を見ていたのだということを理解するのに、彼女は数秒を要した。
リュドミラはゆっくりと起き上がる。周囲を見渡すと、確かに昨夜から寝泊まりしている小さな客室だった。
酷く汗をかいており、喉がカラカラに乾いていることにようやく気づく。
ベッドから出てコップ一杯の水を一気にあおり、カーテンを開ける。眩しい太陽とともに、夜明けの海が光っていた。
フレッド王都を目指す定期船は、何事もなく快調に進んでいるようであった。
「なんて夢見ちゃうかなぁ、あたし……」
大海原を眺めながら、リュドミラは思わず苦笑する。
(もう忘れたと思ってたけど、そうじゃなかったのかねぇ? 参ったもんだ)
そう思いながら部屋に備え付けられているシャワー室で軽く汗を流し、洗濯したばかりの服に着替える。貴重品を身に付け、更に愛用している短剣を腰に携え、外のデッキに出た。
改めて眩しい太陽の光を浴びる。普通なら清々しい朝だと思えるのだが――
「あー、なんか疲れた」
リュドミラの気分は沈んでいた。どうしてこのタイミングで、あんな夢を見てしまったのかと、夢の神様に問い詰めたくなるほどに。
(あれからもう数ヶ月か……勢いで飛び出した放浪の旅も、なんだかんだで問題なく続けられてるし)
これからは自分の好きに生きて良いんだ――リュドミラはその言葉を、しっかりと自分の中に刻み込む。
普通ならもうこんなことを考えることすらない。しかしあの夢のせいで、もしかしたらという不安が過ぎってしまう。
だから今更ながらの呪文めいた言葉を、リュドミラは心の中で呟くのだった。
(大丈夫……あたしはもう、自由に生きる女なんだよ)
――ボオオオォォーーッ!
その瞬間、船の汽笛が鳴った。
船の進行方向を見てみると、港のある陸地に近づいていた。どうやら中継地点の一つである町に到着するようであった。
朝一番の中継地点では、大量の物資を運び入れる関係上、数時間ほど港で待機することが決まっている。乗客もその時間を利用して一時的に船を降り、港で買い出しをしたり食事をしたりする者も多いのだった。
リュドミラもその一人であった。港で売りに出されている屋台のサンドイッチとコーヒーを、朝食として買おうと思っていた。
港に船が近づくと、やはり大量の物資とともに待っている業者や商人がいた。早朝だというのに人は多い。どこの港でも一緒なのだと、リュドミラは思う。
「乗客の皆さまは、汽笛が鳴りましたらすぐにお戻りください!」
そんな係員の言葉を聞きながら、リュドミラは船を降りる。
町の規模は小さいが、連絡船が通る数少ない港町ということもあって、冒険者の姿も多い。数時間という猶予があるとはいえ、うかうかしていたらお目当ての品を買いそびれてしまいそうだ。
最悪、船に置いていかれる可能性もある――そう考えたリュドミラは、さっさと朝食を買って戻ろうと急ぎ足になった。
その時――
「どうかお願いします! 是非とも我が魔法学院に来ていただけませんか!?」
近くで高らかに叫ぶ男の声が聞こえてきた。リュドミラが振り向くと、自分と同じ年ぐらいの女性が、とある男性に声をかけられていた。
「アヤメさん! フレッド王都で早々に名を広めたあなたこそ、我が魔法学院の特別留学生の座に相応しい! 是非ともその才能を、我が学院を経て、この世界の果てまで轟かせようではありませんか!!」
「え、いや、その……」
アヤメと呼ばれた女性が、凄まじい熱意に押されっぱなしの様子であった。声をかけている男性の姿に、リュドミラは気づく。
(あの人……魔法学院のスカウトマンじゃない!)
メドヴィー王都国立魔法学院。
世界でも有数と言われている魔法学院であり、そこを卒業した者は、魔法関連の将来を約束されていると言われている。
世界中から将来性の高い魔法の使い手をスカウトしており、世界中から留学してくる生徒も後を絶たない。
こうして実際にスカウトしている現場を目撃するのは、初めてではあったが。
「いえ、魔法で地位を得ることに興味ありませんし、この話は遠慮します」
「遠慮することなんてありません!」
やんわりと断るアヤメの言葉を、スカウトマンは一刀両断するかのように、真顔で強く言った。
「私の目に狂いはない! 魔法学院に来れば、あなたは水を得た魚となれる!」
「ですから私はお断りを……」
「まぁまぁ、そう話を急がずに。そもそも我が魔法学院は――」
アヤメはあからさまにドン引き状態だ。しかしスカウトマンはそんなことお構いなしに、魔法学院の素晴らしさをマシンガントークで語り尽くしている。完全に自分の世界に浸っているようだ。
(スカウトって、あんな感じなんだ……ちょっと強引過ぎる気もするけど)
なんとしてでも掴み取りたい。その熱意は確かに分かるが、相手の気持ちを完全に無視しているのは、流石に見過ごせない。
現にアヤメは完全に困り果てている表情をしている。いくら声をかけても、スカウトマンはイエス以外の言葉を聞くつもりはないように思えた。
「そりゃあ確かに冒険者として食べて行けるように強くはなりたいけど、世界から注目されるほど有名になりたいワケでもないですし」
「強くなりたいのなら尚更です! 魔法学院こそが、あなたの強くて輝かしい将来を作り上げます! もはや迷うことなんてありませんよ!」
あまりにもしつこい姿に、リュドミラは苛立ちを覚えた。現時点では他人事に過ぎないことだが、それでも見過ごせない理由が彼女の中にはあった。
(いくらなんでもやり過ぎだよ。流石に見てられない!)
そう思いながらリュドミラが動き出そうとした、その時――
「はい、そこまで」
アヤメの隣に立っていた黒髪の男性が、彼女を庇うようにスッと前に出た。
「嫌がってるのに無理強いするのも、どうかと思いますよ?」
「ミナヅキ!」
アヤメがミナヅキと呼ぶ青年に、嬉しそうな笑顔で抱きつく。ずっと彼女の隣にいたから関係者なのだろうとは思っていたが、その二人の様子からして、それ相応の関係なのだろうとリュドミラは考える。
一方スカウトマンはミナヅキに向けて、心底邪魔だと言わんばかりの睨みを利かせていた。
「いきなりなんだね? 今は彼女と大事な話をしているんだ。部外者がズカズカと割り込まないでくれたまえ!」
それに対しミナヅキは、これまたやんわりと笑顔で言った。
「ソイツはすみませんね。ウチの妻が困っている姿を、夫として黙って見ていたくはなかったもんで」
「……へ? お、夫?」
スカウトマンは目が点になる。リュドミラも軽く目を見開いていた。そしてそんな二人に共通する疑問は、すぐさまアヤメが答える形で解消される。
「そうですっ! 私はこの人の妻ですから!」
アヤメは手袋を外し、左手薬指にはめている指輪をかざす。二人が立派な夫婦関係にある証拠に、スカウトマンは改めて驚いてしまう。
それはリュドミラも同じであった。
自分と同じくらいの年代でも夫婦となる者は珍しくないが、こうも目の前に堂々と現れたのは初めてだったからだ。
するとスカウトマンは、さっきまでの熱意がウソのように消え去り、感情を失った表情に切り替わる。
「あー、確かにそうですね。えぇ、分かりました。この件はなかったことに」
言うだけ言って、さっさと立ち去った。本当にさっきまでのしつこさはどこへ行ったんだと聞きたくなるほどに。
そんな彼を、リュドミラは冷めた目つきで見送る。
(わっかりやすい反応ね。あれじゃあの子をスカウトした理由も見え見えだよ)
恐らくアヤメに声をかけた目的は、彼女の美貌とスタイルだろう。
他国からスカウトしてきた特別留学生――目を引き付けやすい外見は、学院としても良い宣伝材料となる。
しかしそれも、あくまで結婚していなければの話だ。
結婚している女性でも魔法学院に入ること自体はできるが、実際に入学している者はいない。ましてや将来に期待する特別留学生という意味では、流石にイメージとしてはイマイチなのだろう。
(それはそれとして、あのミナヅキって人も、なかなかやるみたいだね)
最初にミナヅキを見た時は、冴えない男というイメージが正直なところだった。しかし彼は、自分の妻である女性を守ろうと動いた。その姿を見て、リュドミラは素直に感心したのだった。
人は決して見た目だけではない――リュドミラは改めてそう学んだ気がした。
「作りたてのサンドイッチはいかがー? 旅の朝食におススメだよーっ!」
若い男の叫ぶ声が聞こえる。同時にリュドミラの腹からも、小さくも情けない音が鳴り響いた。
(そうだ、あたし朝ごはん買おうとしてたんだっけ。急がなきゃ)
ようやく当初の目的を思い出したリュドミラは、駆け足で屋台に向かう。そして無事にサンドイッチと温かいブラックコーヒーを購入し、食べるのを楽しみにしながら船に戻ろうとする。
その途中で――
「号外、号外! メドヴィー王国の王子様が婚約されたという最新記事だよ!」
今度は新聞売りの少年の叫ぶ声が聞こえてきた。その声は、周囲にいた冒険者たちを次々と立ち止まらせる。
「メドヴィー王国の王子? もしかしてロディオン様のことか?」
「えぇっ、ウソでしょ?」
「超イケメンで超強くて超優しい王子様だったわよね?」
「でも本当なのか?」
驚きはしているものの、まだ疑惑の域を出ていないようだ。そこに――
「あんちゃん、一部くれっ!」
「毎度っ!」
一人の中年冒険者の男が金を払い、少年から新聞を購入する。それをバッと勢いよく開いて記事を確認する。
そして――
「うぉっ、マジで婚約してるじゃねぇか!」
男はそう叫ぶと、周囲の冒険者たちの目の色が変わった。
「おい、俺にも一部くれ!」
「私も!」
「僕にも売って!」
冒険者たちは次々と少年から新聞を購入する。そして本当だと叫ぶ声が続出するのだった。
「私にも一部ちょうだい」
「はいよっ!」
リュドミラも少年から新聞を一部購入し、急いで船に乗り込む。自分の割り当てられた客室に戻り、サンドイッチとコーヒーをそっちのけで新聞を開いた。
「……ふーん、なるほどねぇ」
記事の内容を呼んでいくうちに、リュドミラの表情は冷たいそれとなる。
「やっぱりこうなったか。予想はしてたけどね」
そして購入したばかりの新聞をグシャッと握り潰し、備え付けのゴミ箱に勢いよく放り込んだ。
温かかったコーヒーは、もうすっかりと冷めてしまっていた。
◇ ◇ ◇
「メドヴィー王国ロディオン王子、婚約発表――ねぇ」
客室のベッドにドサッと座りながら、ミナヅキが新聞を広げる。港で新聞売りの少年から購入した物であった。
「最近何かと話題になってんなぁとは思ってたが、まさかこうも大々的に取り上げてくるとはな」
「港にいた人たちも、すっごい驚いてたもんね」
アヤメは荷物を置きながら、ふと浮かんだ疑問をミナヅキに尋ねる。
「その国って確か、フレッド王都から結構離れてる島国よね?」
「あぁ、普通の定期船なら、いくつか乗り継ぎして何日かはかかる感じだな。フレッド王都からは、超ぶっ飛ばし型の直行便があるけど」
「どれくらいで着くの?」
「確か朝一に出発して、翌朝には到着するんだったかな」
「……どんだけぶっ飛ばすのよ、それ?」
やや呆れた反応を示しつつ、アヤメもミナヅキの隣に座った。
「あーそれにしても、なんか疲れたわ」
そして脱力しながら、思いっきりミナヅキにもたれかかる。
「素材集めの旅行も区切りをつけて、あとは帰るだけだと思ってたのに……あんなところで妙な声をかけられるとは思わなかったわよ」
「あぁ、さっきのアレか」
ため息をつくアヤメに、ミナヅキは苦笑する。
「メドヴィー王国の魔法学院って言えば、この世界でも有数のエリート学校だ。入学するだけでも相当大変らしいぜ?」
「ふーん。まぁ、どのみち私には興味のカケラもないんだけどね」
「……多分お前ぐらいだろうさ。スカウトを蹴ったのはな」
あの周囲に、魔法学院へ入りたいと願う者がいなくて良かった――ミナヅキは今になってそう思っていた。
下手をすれば絡まれて面倒な因縁をつけられ、船に乗れなかった可能性も十分にあり得る。それどころかスカウトマンが変に調子づかせる結果となり、フレッド王都から遠ざかる結果となっても、何ら不思議ではなかっただろう。
「まぁでも、アヤメが結婚してると分かった瞬間、あっさり引き下がってくれたのはなによりだったよな」
「ホントよね。大方、イメージの問題なんでしょうけれど」
「……そーゆーもんなのか?」
「よくある話よ。エリート学校なら尚更ね」
ミナヅキがきょとんとした表情で問いかけると、アヤメは投げやりに答える。
「全く冗談じゃないわよ。ミナヅキと離れ離れになるなんて考えたくもないのに」
アヤメはプリプリと怒りながら、ミナヅキの腕にギュッと抱き着く。その瞬間、ミナヅキの新聞を読む手がピタッと止まった。
「まさかとは思うが、それが一番の理由だったりするのか?」
「むしろそれ以外に何があるって言うのよ」
アヤメはしれっと言ってのける。当たり前のことじゃないかという気持ちを、全力で表現しているようにミナヅキは見えた。
「ハハッ、そりゃ光栄だな」
若干の照れくささはあったが、アヤメらしいという感想のほうが勝り、思わず笑ってしまう。アヤメもその笑い声につられ――
「フフッ、でしょ?」
イタズラっぽい笑みを浮かべて抱き着いた腕を離し、今度はミナヅキの体に思いっきり抱きつくのだった。
「まぁ、アレよ。たとえアンタが誰かに連れ去られたとしても、必ず奥さんである私が見つけ出してやるんだからね?」
抱き着きながら見上げてくるアヤメの頭を撫でつつ、ミナヅキは若干目を逸らして小さなため息をつく。
「それは嬉しい限りだが、流石にそうそう攫われる機会が来るとも思えんがな」
「分かってるわよ。言ってみただけだから」
「へいへい」
二人のやり取りはどこか軽く、決して本気で怒るとは思っていない例え話であることを示していた。
数日後――このやり取りが現実と化すことを、全く知る由もなく。
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