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第8章

55 襲撃者たち ② ⚠

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 私は隣との空間を隔てるカーテンを睨みながら半身を起こし、そっとポケットに手を入れる。
 ところが、手に触れるはずの感触がない。慌てて布団の中を探ったり、床を確認したりしたが、目当ての催涙スプレーはどこにもなかった。

 まさかさっき倒れた時に落としたのか。一気に血の気が引くのがわかった。

 しばらく固まっていたが、看護師が座るデスクチェアのキャスター音でハッと我に返り、急いで時計を確認する。凌遅が到着すると言っていた時刻までまだ15分ほどあると気づき、自分の置かれている状況がいかに絶望的か思い知らされた。

 手の平は汗でじっとりと湿っている。しかし軽く握り、開いてみると、先ほどより動かしやすくなっていた。足の指にも力が入る。動きそうだ。

 よし。私は意を決してベッドから降り、足音を忍ばせて看護師の元へ進む。

「あの、もう良くなったので失礼します」

 小声でそう伝えると、彼女は不思議そうな表情を浮かべ、

「え? 今、横になったばかりなのに、無理しないで休んでいいんですよ?」と労わってくれた。

 休みたいのは山々なのだが引き留められては元も子もないので、精一杯の笑顔を作ってお礼を述べ、何事もなかったかのように出口へ向かう。

 ツェペシュが追ってくる気配はない。やはり意識が回復していないか、眠っているのかも知れない。
 これは好機だ。他の処刑人がいつ現れるかわからないので、とっととメインストリートに戻ろう。そして駐車場まで突っ走る。それしかない。

 決意も新たにドアを開けた途端、誰かとぶつかりかけた。心臓が止まりそうになるもどうにか平静を装い、道を譲ろうとしたところ、

「あ! もう大丈夫なんですか?」と聞き覚えのある声がかかった。

 見れば、相手は先ほど親切にしてくれた若い女性だった。
 何故ここにいるのか疑問だったが、ひとまず「おかげさまで」と返すと女性は破顔し、

「良かったです。あの、これ……」と何かを差し出して来た。

 彼女の美しいネイルに彩られた指が握っていたのは、凌遅の催涙スプレーだった。

 驚く私に、彼女は「さっき落としたの見たから。余計なお世話かなって思ったんですけど、やっぱないと不安だろうなって思って」と説明した。
 親切な女性は私のためにそれを拾い、わざわざ届けに来てくれたのだ。

「あら、よかったわねぇ」

 パソコン作業をしながら様子を窺っていたらしい看護師が笑顔を向ける。

「はい、ありがとうございます……!」

 胸の奥から込み上げる安堵と感謝で、私は女性に深々と頭を下げた。

 彼女は「いえいえ~」と微笑み、こう続けた。

「あんまりあっさり死んじゃったら、せっかく出張った甲斐ないですもん」

「え……」

 一瞬、何を言われたのかわからず、思考が停止する。

 理解が追い付かない私を余所に、女性はこちらの肩を突き飛ばして室内に押し戻すと、奥まで響く大声で叫んだ。

「ほらぁ、おじい! いつまで寝てんのぉ!」

「……っ!?」

 するとそれに呼応するかのように、もう一つのベッドを覆い隠していたカーテンがゆっくりと開き、あの老人が姿を現した。
 彼は最初に見た時と同じ“人の良さそうな笑み”を湛え、「ヤレヤレ、寝過ごしちまったァ」と頭を掻きながらこちらへ出てくる。手には例の杖が握られており、身体の動きに鈍さは感じられない。

「えっ、あなた、身内の方? それにお客様も、もう大丈夫なんですか?」

 看護師は状況が掴めず、椅子に座ったまま女性と老人を交互に見遣る。と、

「うっさいなー、ちょっと黙ってて?」

 女性はそう吐き捨てるなり、携えていたトートバッグから蛍光灯に似た棒状の物体を取り出し、看護師の首に押し当てた。直後、看護師はのけ反るようにして床に崩れ落ち、動かなくなった。

「……!」

 心臓が激しく鼓動する。私が食らったのもこれに違いない。

「ふふ、初めまして、バーデン・バーデンの処女さん。ピカナっていいます。私、今日の狩り、すごく楽しみにして来たんですよ~」

 ピカナと名乗った女性が、両眼をキラキラと輝かせながら物騒なことを言う。

「上からはさっさと仕留めろって言われてるんです。だけど、こんな機会滅多にないし、ちょっとくらい遊んでもいいかなって。ね? おじい」

 彼女の目線の先で、ツェペシュも笑顔でうなずいている。

「私達、別にあなたに怨みとかないんですよ~。でも、処刑具も殺しの経験もナシの素人に“処刑人”って名乗って欲しくないかなーとは思ってて」

 ピカナは床に倒れている看護師の首と頭に二度三度と得物を押し当てつつ、自分達の目的を語る。

「だってウチは、殺しを面白くしてなんぼじゃないですか~。なのにあなた、何にもしないんだもん。そのくせ、HNもらってるし、ちょっと感じ悪くないですか~……?」

 言いながら、彼女は圧をかけてくる。その時、再び凌遅の台詞が脳裏を過ぎった。

“現在、100名あまり存在する処刑人の中で、「Ba」の音を冠する者は君だけだ、バーデン・バーデンの処女”

 またか。いい加減にしてくれ。これは勝手に押し付けられたもので、こちらから望んだりしていない。可能ならすぐにでも放棄してしまいたい。
 だが、いくら言っても彼らには通じないのだろう。

 このHNハンドルネームと“立ち位置”はそれほど特別なものなのか。
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