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見合い
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昼下がりのラウンジは、日曜日とあって子ども連れが目立つ。どんな用事があってこの高級ホテルに訪れているのか知らないが、どの子どもも皆それなりの恰好をしている。走り回る子どもを注意する親の声も、街中で聞くそれとは違って抑えられている気がする。
披露宴会場としても有名なホテルだ。無駄に大きなガラス窓の向こうでは、和装した男性カップルが写真撮影をしていた。
母は男性カップルを見て、「あら、和装もいいわねえ」と頬を緩ませつつ、紅茶の入ったカップを受け皿で支えながら飲んだ。
「なかなか素敵なお嬢さんだったでしょう?」
母の言葉に、奏はあいまいな返事をする。
見合い話を受けることにしたのは、先々週の金曜日の一件があったからだ。セミナー会場でヒートになった奏はアルファの男に襲われそうになったところを、高辻に助けてもらった。
だが、いつもより症状の重たかったヒートに、奏はなすすべもなかった。例のごとく高辻に「抱いてくれ」と頼んだあと、高辻にディルドを渡されたのだ。
思い返すだけで胸が痛む。結局、高辻から渡されたそれで後ろを慰めたことが、奏の心により深い影を落とした。やるせなくて虚しくて……そのままホテルに一人で泊まり、自慰に耽った。
やっとヒートが落ち着いたのは、それから二日後のこと。自分の汗や体液でシーツがぐちゃぐちゃになったベッドの上、奏は泣きながらもういい、と思った。こんな思いをするくらいなら、高辻のことなんて忘れてしまいたかった。いや……必ず忘れてやる。
奏はそう自分に言い聞かせ、翌日いい人がいたら紹介してもらえるよう、母に電話で頼んだのだ。
悪いことをしているとは思わなかった。誰かを忘れるために、誰かを好きになる努力をする。それの何が悪い? と開き直ることで、自分を保てるような気がした。
連絡すると、母は電話の向こうで大いに喜んだ。今まで出会いに消極的だった息子の変化が、心底嬉しかったようだ。その一週間後には相手のスケジュールを押さえ、その翌日にはホテルのレストランを予約した。その行動力に、奏も脱帽したものである。
母の紹介で出会った相手は、アルファの女性だった。奏の会社が父の代だった時、世話になった玉井製薬会社の娘で、名を美弥子といった。
切れ長の一重と和服の似合いそうなすらりと長い首が印象的な女性で、話題も知的だった。目につくような悪いところはない。同い年で上品で、いい人……だったと思う。
美弥子の父である玉井栄二郎は、会えば常に笑っている狐のような目をしている男だが、たまに業界交流の場で会うと、ギョッとするほど冷たい目を奏に向けてくる。
おそらくオメガであるにもかかわらず、若くして社長となった奏を、本心では見下しているのだろう。父が社長だった時は付き合いが多かったが、父が亡くなり取締役が奏になったあとは、契約を解除されたという過去もある。
一人娘を自分と見合いさせたのは意外だったが、それとこれとは別の話として考えているのかもしれない。
「で、どう? もう一度会ってみてから決めてもいいんじゃない?」
カップから口を離した母が、控えめに提案してくる。急かすことによって、奏の気が変わるのを心配しているのかもしれない。いつもより声の調子が柔らかい。
目の前のローテーブルには、コーヒーカップが置かれてある。従業員に注文を聞かれた際、奏が頼んだものだ。だけどどうしてか、飲む気になれない。自分で選んだはずなのに。
奏は手をつけていないカップから、目線を上げる。目を細めて笑顔を作り、「そうだね」と返した。
それから母の紹介で知り合った美弥子と、奏は何度か食事をした。
アルファ女性に対し、どこかプライドを感じさせる気性の人が多いイメージを奏は抱いていた。だが、美弥子に対しては、そういったとっつきにくさを感じることはかった。お嬢様ではあったが、日常に組み込まれた品が、彼女の魅力の一つであることは間違いなかった。
だがデートを終えたあと、奏は一人になる帰りの道で、どうしようもなく虚しくなった。何度も高辻に電話をかけようと、スマホの画面に男の名前を表示させた。コール中のスマホを耳に押し当てたのも一度や二度じゃない。
けれど奏はいつも、高辻が出る前に発信コールを自分から切った。高辻が出ても冷ややかな声が聞こえてくるだけだろうし、出なくても待っているのは繰り返されるコール音と沈黙だけだと、知っていたからだ。
何よりも、自分は高辻を忘れると決めたのだ。虚しさに負けて高辻に手を伸ばそうとするなんて、我ながら矛盾していると思った。
女々しい自分が嫌だった。情けなかった。それでも、好きでいることをやめられない。嫌いになれない。
そんな想いを抱えながら奏が苦しんでいることは、高辻にはどうでもいいことなのだろう。ヒート中の奏をホテルに置き去りにしたあとも、高辻はいたって冷静に日々の業務をこなしている。
奏の母のお気に入りでもある高辻は、きっと見合いの件を耳にしているはずだった。奏に情があれば、その話を聞いた高辻の顔に少しくらい動揺の色が見えただろうか。
社長室のブラインドの隙間から社員たちと話している高辻を見かけるたび、奏はそうだったらどれだけいいだろう、と悲しくなる。
だが、高辻は奏の女々しい視線に気づくと、すがすがしいほど視線を逸らすのだ。
一度だけ、奏から「見合いをした」と高辻に伝えた。社外での打ち合わせを終え、取引先の社長と日本橋で会食を済ませたあとの、高辻が運転する車の中だった。
「父の代で世話になった会社の社長の娘だ。アルファだったよ」
高辻は「そうですか」と淡々とした口調で答えた。
「いい人だった。おまえとは違って、僕の話をちゃんと聞いてくれる」
運転席でハンドルを握る高辻の背中に、嫌味を含ませて言う。
高辻はハンドルを握る手を丁寧に回し、交差点を右折した。車が侵入したのは、オフィスビルを背にした並木道。緑の葉が夜空に揺れ、もうすぐ夏なのだと教えてくれる。
試すようなことを言って、自分は一体何がしたいのか。高辻から嫉妬の言葉でも聞き出したかったのだろうか。好意のある態度も言葉も、ひとつとしてもらえていないのに? 奏は自分の行動に鼻白む。
少し間を置いてから、高辻は言った。
「喜ばしいことです」
後部座席から見えるフロントミラーには、正面を見据える高辻の、感情の読めない目が映っていた。
披露宴会場としても有名なホテルだ。無駄に大きなガラス窓の向こうでは、和装した男性カップルが写真撮影をしていた。
母は男性カップルを見て、「あら、和装もいいわねえ」と頬を緩ませつつ、紅茶の入ったカップを受け皿で支えながら飲んだ。
「なかなか素敵なお嬢さんだったでしょう?」
母の言葉に、奏はあいまいな返事をする。
見合い話を受けることにしたのは、先々週の金曜日の一件があったからだ。セミナー会場でヒートになった奏はアルファの男に襲われそうになったところを、高辻に助けてもらった。
だが、いつもより症状の重たかったヒートに、奏はなすすべもなかった。例のごとく高辻に「抱いてくれ」と頼んだあと、高辻にディルドを渡されたのだ。
思い返すだけで胸が痛む。結局、高辻から渡されたそれで後ろを慰めたことが、奏の心により深い影を落とした。やるせなくて虚しくて……そのままホテルに一人で泊まり、自慰に耽った。
やっとヒートが落ち着いたのは、それから二日後のこと。自分の汗や体液でシーツがぐちゃぐちゃになったベッドの上、奏は泣きながらもういい、と思った。こんな思いをするくらいなら、高辻のことなんて忘れてしまいたかった。いや……必ず忘れてやる。
奏はそう自分に言い聞かせ、翌日いい人がいたら紹介してもらえるよう、母に電話で頼んだのだ。
悪いことをしているとは思わなかった。誰かを忘れるために、誰かを好きになる努力をする。それの何が悪い? と開き直ることで、自分を保てるような気がした。
連絡すると、母は電話の向こうで大いに喜んだ。今まで出会いに消極的だった息子の変化が、心底嬉しかったようだ。その一週間後には相手のスケジュールを押さえ、その翌日にはホテルのレストランを予約した。その行動力に、奏も脱帽したものである。
母の紹介で出会った相手は、アルファの女性だった。奏の会社が父の代だった時、世話になった玉井製薬会社の娘で、名を美弥子といった。
切れ長の一重と和服の似合いそうなすらりと長い首が印象的な女性で、話題も知的だった。目につくような悪いところはない。同い年で上品で、いい人……だったと思う。
美弥子の父である玉井栄二郎は、会えば常に笑っている狐のような目をしている男だが、たまに業界交流の場で会うと、ギョッとするほど冷たい目を奏に向けてくる。
おそらくオメガであるにもかかわらず、若くして社長となった奏を、本心では見下しているのだろう。父が社長だった時は付き合いが多かったが、父が亡くなり取締役が奏になったあとは、契約を解除されたという過去もある。
一人娘を自分と見合いさせたのは意外だったが、それとこれとは別の話として考えているのかもしれない。
「で、どう? もう一度会ってみてから決めてもいいんじゃない?」
カップから口を離した母が、控えめに提案してくる。急かすことによって、奏の気が変わるのを心配しているのかもしれない。いつもより声の調子が柔らかい。
目の前のローテーブルには、コーヒーカップが置かれてある。従業員に注文を聞かれた際、奏が頼んだものだ。だけどどうしてか、飲む気になれない。自分で選んだはずなのに。
奏は手をつけていないカップから、目線を上げる。目を細めて笑顔を作り、「そうだね」と返した。
それから母の紹介で知り合った美弥子と、奏は何度か食事をした。
アルファ女性に対し、どこかプライドを感じさせる気性の人が多いイメージを奏は抱いていた。だが、美弥子に対しては、そういったとっつきにくさを感じることはかった。お嬢様ではあったが、日常に組み込まれた品が、彼女の魅力の一つであることは間違いなかった。
だがデートを終えたあと、奏は一人になる帰りの道で、どうしようもなく虚しくなった。何度も高辻に電話をかけようと、スマホの画面に男の名前を表示させた。コール中のスマホを耳に押し当てたのも一度や二度じゃない。
けれど奏はいつも、高辻が出る前に発信コールを自分から切った。高辻が出ても冷ややかな声が聞こえてくるだけだろうし、出なくても待っているのは繰り返されるコール音と沈黙だけだと、知っていたからだ。
何よりも、自分は高辻を忘れると決めたのだ。虚しさに負けて高辻に手を伸ばそうとするなんて、我ながら矛盾していると思った。
女々しい自分が嫌だった。情けなかった。それでも、好きでいることをやめられない。嫌いになれない。
そんな想いを抱えながら奏が苦しんでいることは、高辻にはどうでもいいことなのだろう。ヒート中の奏をホテルに置き去りにしたあとも、高辻はいたって冷静に日々の業務をこなしている。
奏の母のお気に入りでもある高辻は、きっと見合いの件を耳にしているはずだった。奏に情があれば、その話を聞いた高辻の顔に少しくらい動揺の色が見えただろうか。
社長室のブラインドの隙間から社員たちと話している高辻を見かけるたび、奏はそうだったらどれだけいいだろう、と悲しくなる。
だが、高辻は奏の女々しい視線に気づくと、すがすがしいほど視線を逸らすのだ。
一度だけ、奏から「見合いをした」と高辻に伝えた。社外での打ち合わせを終え、取引先の社長と日本橋で会食を済ませたあとの、高辻が運転する車の中だった。
「父の代で世話になった会社の社長の娘だ。アルファだったよ」
高辻は「そうですか」と淡々とした口調で答えた。
「いい人だった。おまえとは違って、僕の話をちゃんと聞いてくれる」
運転席でハンドルを握る高辻の背中に、嫌味を含ませて言う。
高辻はハンドルを握る手を丁寧に回し、交差点を右折した。車が侵入したのは、オフィスビルを背にした並木道。緑の葉が夜空に揺れ、もうすぐ夏なのだと教えてくれる。
試すようなことを言って、自分は一体何がしたいのか。高辻から嫉妬の言葉でも聞き出したかったのだろうか。好意のある態度も言葉も、ひとつとしてもらえていないのに? 奏は自分の行動に鼻白む。
少し間を置いてから、高辻は言った。
「喜ばしいことです」
後部座席から見えるフロントミラーには、正面を見据える高辻の、感情の読めない目が映っていた。
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