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第十話

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 キッチンから食欲を刺激する匂いが漂ってきた。しかし、それも最初だけ。しばらくすると焦げ付いた匂いが混じり始めた。その匂いの変化を感じ取った優は読んでいた台本を机の上に置き、立ち上がった。

 火加減を見ているはずの叶はぼんやりと立っていて目の前の惨事に気づいていない。どうやら意識がどこかへと飛んでしまっているようだ。叶らしくもない。疲れているのだろうか、と心配して声をかけてみたが返事はない。

「叶、叶!」

 叶は肩を揺すられ、ようやく我に返った。いつの間にか、優がいる。優はすごく心配そうな顔をして叶のことを見ていた。そんな優を見て、叶も我に返る。


 この日、珍しく優の仕事は丸一日休みだった。長期の仕事続きで叶の手料理に飢えていた優のリクエストにより、叶は煮込みハンバーグを作っていた……はずなのだが。叶はフライパンの中を見つめる。どうみても、美味しそうには見えない焦げた塊があった。溜息を零す。――――これは自分で食べるしかないか。優には別のモノを作ろう。
 そう決めた叶は優の表情を見て、固まった。思わずギクリと身体を強張らせてしまう。叶が取り繕う暇を与えずに優が疑問を口にした。

「何を考えている?」
「別に……たいしたことじゃないよ」
「俺が、叶の様子がおかしいことに気づかないとでも?」
「そんなことは」
「ないとは言わせないよ。……まさか、俺を捨てようなんてこと考えてないよね?」
「捨てるなんて、そんなこと考えているわけないでしょ!」

 まっすぐな瞳で、語気を荒げる叶を見て、優は表情を緩めた。……だが、それならば何がそんなに気になるのだろうかと首を捻る。心当たりが浮かばない。あるとすれば……

「もしかして……またアイツか?」
「アイツ? ……ああ。連絡すらきていないけど」
「なら……何があったの?」

 ずいっと距離を縮め、シンクと己の身体との間に叶を閉じ込める。判断が遅れた叶が慌てて押し返そうとしても、もう遅い。抵抗できないよう、股の間に右足を捩じ込んだ。次いで、左手で腰を引き寄せる。

「また、ここでお仕置されたい?」

 優が耳元で囁けば、叶の身体がびくりと震える。これだけのことでも快楽に慣れた身体は反応してしまう。叶は羞恥心を覚え、己の唇を噛んだ。そんな叶の様子を優が見逃すわけがない。優の唇がゆっくりと近づき、叶の耳に触れ、はむ。

「んっ。やめっ」
「なら、話してよ」
「っ」

 頑なに話そうとはしない叶に、優の瞳がぐっと細まる。叶の顎に指を添え、上を向かせると、有無を言わさず唇を奪った。

「んっんんん」

 後頭部を押さえ、食らいつくすような勢いで口づけをする。叶の抵抗はすぐに弱々しいものになった。――――落ちた。優がそう思った瞬間、胸元を強い衝撃が襲った。
 優は咳き込み、動揺する。突然の痛みに……ではなく、今までにない程はっきりと拒否行動を起こした叶にだ。
 もしや、叶に嫌われてしまったのだろうかと、恐る恐る顔を上げる。優の予想とは反して、叶は優以上に動揺していた。泳ぎ続ける視線。しばらくの沈黙の後、叶は意を決した表情で優に向き直った。優の身体に緊張が走る。

「優」
「ま、待って! 少し待って」
「……」
「ふーっ……ど、どうぞ」

 正直、嫌な予感しかしない。その先を聞きたくない。が、叶の様子を見る限り、おそらくここで聞かなくともいづれは聞かないといけない話なのだろう。何を言われても大丈夫なように気を張った――――つもりだった。叶の言葉は優の予測の範疇を遥に超えていて、理解が追い付かない。

「え?」
「だから、その。……生理が遅れてるの。だから、はっきりわかるまでは、のを控えたい」
「……そっか。なるほど。それは、うん。わかった」
「……うん」

 叶の瞳が言っていた。————それだけなの? と。優はその事に気づいたが何を言えばいいのかわからず咄嗟に目をそらしてしまった。瞬時に今の態度は不味かったと弁明をしようとしたタイミングでスマホが鳴り出す。

「出ていいよ」
「あ……うん」

 何事もなかったかのように冷蔵庫を漁り始めた叶を数秒見つめる。視線が合わない。優は後ろ髪を引かれながらも、叶に背中を向け、キッチンを出るとスマホの応答ボタンを押した。


 急に入った仕事により、丸一日あったはずの休みは半休へと変わってしまった。
 家を出る際、優は一度足を止めた。けれど、今の気持ちをどう口にすればいいのかわからない。結局、いつも通り送り出してくれた叶に甘え、そのまま家を出た。
 それが間違いだと気付いたのは、数日後。泊まり込みのロケから帰ってきて……家のどこにも叶がいないとわかった時だ。

「叶?」

 家の中を隈なく調べた。大きな荷物はあった。ただ、数日分の着替えが消えていた。
 実家に帰ったのかもしれない。でも、連絡も無しで? いや、まず連絡はここ最近まともに取れていなかった。嫌な予感がする。
 ズボンの後ろのポケットを探る。取り出したスマホが手から滑り落ちた。拾い上げる手が震えていた。到底ファンの子達には見せられないような顔で叶に電話をかける。願うような気持ちだった。


 ――――――――


「電話。充電切ったままでいいんですか」
「うん。まだ……いい」
「……そんな顔するくらいならさっさとしてきたらどうですか? 

 ソレと叶が手にしている検査薬を指さした。途端に叶の瞳が動揺で揺れる。

「う、わ、わかってるわよ。でも、ちょっと待って!」
「待って、と言われてもう二日はたってますけど。本当、勘弁してくださいよ。このことが万が一にでも、優さんにバレたら、僕終わりなんですから。サクッとして、早く帰ってください」
「……ここに無理やり連れてきたのあんたのくせに」
「そ、それは、あんたがあんな時間に、あんな場所でずぶ濡れで徘徊していたからでしょうが!」
「うっ」


 優を見送った日の事が叶の脳裏に浮かぶ。あの日、叶は茫然自失になっていた。
 無意識に子供ができたかもしれないと言っても優なら喜ぶと思っていた。けれど、実際の反応は淡泊で、どう見ても喜んでいるようには見えなかった。色んな感情が混ざり合って、気づけば叶は外に飛び出していた。
 日が完全に沈んでも、雨が降り出しても、ずぶ濡れになっても、気にならなかった。むしろ、まるでドラマのワンシーンのようだと笑えてきた。そんな時、声をかけられた。相手は全く知らない人だった。酒の匂いを漂わせた男性は叶に何かを言っていたが、雨音と呂律が回っていないせいで聞き取りづらい。相手が顔を近づけてきてようやく単語が聞き取れた。酒の匂いに眉根を寄せつつ、聞き取れた単語を整理して解読しようとしたところで身体を後ろに引かれた。

「まさっ、……海斗、くん?」
「……行きますよ」

 大きめの黒マスクのせいで一瞬わからなかったが、彼が海斗だということは印象的な目と声で気づいた。叶はぼんやりと海斗を見上げる。
 動こうとしない叶に海斗は舌打ちをすると、叶の腰を抱いて歩き始めた。背後で喚いている男性へ、優直伝の刺すような視線を投げるのも忘れない。
 しばらく歩いて、もう大丈夫だろうと叶から離れた。びしょ濡れの叶を見て、思案する。数秒悩んだ後、海斗は叶を連れて自宅へと帰ったのだった。まさか、そのまま数日間居座ることになるとは思わずに。
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