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九夜 死霊の迷霧(めいむ)

九夜 死霊の迷霧 3

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 そも、ここの住人、一体、何者なのか――。
 見た目は、幸せそのものの、ごく一般的な家庭である。可愛い息子もあり、夫婦ゲンカも特にない――いや、夫たる青年の性格及び、妻の性格からして、ケンカになることなど、あり得ない。
 気になることは、そんな幸せそうな家族が、何故、こんな人里離れた辺境で暮らしているのか、ということであるが……。
 三歳になった舜は、もうすっかり生意気にもなり、父親が『街』という場所から持ち帰って来る本や、その他色々な物に興味を持ちながら、そんな自分の家庭のことを考えるようになっていた。――いや、正確には、他の家庭のことを知らないので、自分の家庭が変だ、と思っていた訳ではないのだが、見たことのないものが一杯ありそうな街のことには、興味を持つようになっていたのだ。
 何故、自分たちは、その『街』で暮らしていないのか、と。
 舜は、見たこともない建物や、色々な人間の写真の載った週刊誌を手に、ここへ行ってみたい、と言おうと決め、母親の方へと視線を向けた。――が、その母親は、銀髪の美しい青年と、キスの途中であった。
 さっきまで舜と一緒に、週刊誌を見てくれていた、というのにだ。
 舜は何故か、胸に“ぐつぐつ”と煮えたぎるものを感じて、その父親と母親の間に、割り込んだ。
「まあま、舜。どうしたのですか?」
 と、さっきと同じように、母親が、自分の方を向いてくれる。
 舜はとっても、満足である。
 だが、その満足に水を差そうとする敵も、この家にはいるのだ。
「舜くん、もう夜が明けますから、子供は寝る時間ですよ」
 と、さっそく敵が、邪魔に入った。
 この敵、一応、舜の父親らしいのだが、舜にとっては、母親を奪おうとする悪い奴でしかあり得ない。
 加えて、今まで何度もイジメられて、泣かされて来たために、口も利いてやりたくない。
「かーさまと、寝るもんっ」
 いや、子供というのは、口を利かない、と決めていても、利いてしまうものなのである。
 舜は、『街』のことなど、すっかり忘れて、碧雲に、ぴとっと張り付いた。
 その柔らかい胸の感触が大好きなのである、舜は。
 良い匂いがして、暖かくて。
 肌の下を通る血の匂いも、耳に届く血の流れも――。
 刹那、舜の双眸が、カッと赤光を放って、閃いた。射干玉の如き黒瞳が、血のような赤眼に変わったのだ。
 くわっ、と開いた唇からは、鋭い乱杭歯が突き出している。
 その乱杭歯を剥き出しに、舜は、碧雲の胸に、咬みついた。――いや、咬みつこうとした時、ガバっと口の中に、何か得体の知れないものが、詰め込まれた。
 骨の形をした、犬用のガムである。
「うーっ!」
 舜は、すっかりそれに食い込んでしまった歯を抜くことも出来ずに、唸ったが、
「その咬みグセは早く直した方がいいですよ、舜くん。犬ならとっくに、保健所行きです」
 ガムを詰め込んだ当人たる黄帝が、のんびりと言った。
 この父親、本当に犬用のガムを買って来て、息子に与えてしまうのだから、世の常識を逸している。
「うーっ!」
 舜は、その黄帝の非道さに、抗議した。
 しかし、動じないのである、この青年。
「君が牙を引っ込めれば、ガムは自然に抜けますよ。――さあ、子供はもう寝る時間です。これからは、私と碧雲の邪魔をしないでくださいね」
 と、舜の首根っこをつかみ、一つの部屋へと放り込む。
 どっちが邪魔物なんだ、と舜は言いたかったが、口が開かないので、抵抗も空しく、部屋の中へと閉じ込められてしまった。
 この住居に、何室――いや、何百室の部屋があるのかは解らないが、運が良ければ、迷うことなく、今日の夜の内には抜け出せるだろう。


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