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七夜 空桑(くうそう)の実

七夜 空桑の実 19

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「どうしてそんなものを……?」
 デューイは訊いた。
 そんなものなど、わざわざ舜を問い詰めて訊き出さなくても、桑畑に行けば、いくらでも実っていそうなものだ。それとも、異常気象で、実が実らなくなってしまったのだろうか。――いや、そんなことがあるはずも、ない。
 黒帝が欲しがる――取り戻しに来るくらいなのだから、ただの桑の実ではあり得ないのだ。
「あの《空桑の実》はですねぇ、所謂、始祖感精しそかんせいを成す実で――。ほら、私たちの一族の体質が安定していないことは、前にも話したでしょう?」
「え、あ、はい」
 血族結婚や、他種族との混血を繰り返しているが所以の、不安定さである。
「そのお陰で、自分と同じ力を持つ子供が欲しい、と思っても、中々、期待通りの子は、生まれて来ないのですよ」
「はい。舜のように、黄帝様に近い体質を持つ者は、その誕生自体が奇跡のようなものだと……」
「そうなのです」
 相変わらず、この青年の話し方は、まどろっこしい。
「それで、手っ取り早く、自分に近い子供――自分の分身のような子供を作ることが出来るのが、その《空桑の実》という訳なのです」
 おや、今日は結論まで、すんなりと言ったではないか。
 舜がいないせいだろうか。
 始祖感精――。
 古代中国の歴代帝王の出生には、その神秘的な伝説が、多い。
 殷王朝の始祖、せつは、燕の落とした卵を呑んだ娘が懐妊し、生まれて来た神の子だ、とされているし、周王朝の始祖、后稷こうしょく――名をと呼ばれる者も、巨人の足跡を踏んで懐妊した娘が産み落とした子だ、とされている。
 他にも、秦王朝の始祖の出生、漢王朝の高祖の出生、孔丘こうきゅうの出生……さまざまな伝説が、残されている。
「――中でも、孔丘の出生については、黒帝と交わった娘が産み落とした子だ、という伝説があるのですよ」
「孔丘が黒帝の……」
 孔丘、といえば、春秋時代(前五五一年~前四七九年)の儒家の始祖である。一般には、孔丘という本名よりも、孔子こうしの名で知られているだろうか。
「ええ。或いは、尼邱山じきゆうざんに詣り、黒龍の精を感じた娘が、孔丘を懐妊した、と――。黒帝と交わった、という伝説の方では、『必ず空桑の中で出産するように』と、黒帝が娘に言い残した、とも言われていますが」
「空桑の中……」
「まあ、ただの伝説ですが」
 そう言いながらも、黄帝の面は、わずかに違うものに、変わっていいた。もちろん、デューイなどには、判らない変化であったが。
 そして、それは、ほんの一瞬のことであった。
「――それで、その《空桑の実》は、今、何処にあるのですか?」
 デューイは訊いた。
「うーん……。何処にあるのでしょうねぇ……。何分、昔のことですから、私ももう、覚えてはいないのですよ」
 それだけが、黄帝の言葉であった……。


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