甘雨ふりをり

麻田

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第26話

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 あの日から、佳純はより僕のそばにいてくれるようになった。登下校を隣に並んで過ごし、昼休みと放課後には、渡り廊下の直前で彼は待っていてくれるし、見送ってくれた。人通りが多いところまで付き添ってくれるのだ。それが妙に気恥ずかしくて、それでいて、僕の独占欲を満たした。
 優秀な彼を、たった一人で独占する恵まれすぎていた僕は、その姿を見ている人物に気づかなかった。



 九月も下旬になり、二人で並んで歩く帰り道は、すっかり秋風が草花を揺らすようになった。相変わらず夕暮れの、藍色と橙の混ざりあう頃合いで、なんだかその風景も僕たち二人のための演出なのかも、なんて考えてしまうほど、僕の脳みそは佳純に甘やかされて溶けていたのかもしれない。
 毎日の帰り道で、僕は悩むことがある。それは、すぐそばにある、あのひんやりとする手のひらに手を添わせてもいいのだろうかということだ。
 僕たちの関係に名前をつけるのであれば、友達、なのだろう。本当にそうなのか、と聞かれると答えに詰まってしまう。僕は、心の中で、友達、では物足りない気がしていた。
 夕暮れの残り火を背中に受ける佳純をこっそりと見やると、まっすぐ前を向く瞳に高い鼻、まぶしくちらりとシルバーのピアスが光り、目をすがめる。そして、薄い唇。見た目はこんなに薄いのに、キスをすると柔らかく、とろけるように熱いのだ。腹の奥がにじむ気がして、急いで目線を戻した。佳純のそばにいると、どうしても僕のオメガが騒ぎ立って恥ずかしくなる。頬を染め、一人で百面相をする僕を、実は佳純は横目で楽しんでいたことは知らなかった。

「おい」

 急に後ろから腕をつかまれ、低い声で呼び止められた。何もすることができず、身体はその力に逆らうことなく、後ろに傾く。すぐに逞しい腕が僕の背中に周り、そのまま力強く抱きしめられた。久しぶりに彼の胸元に顔を近づけて匂いを浴びると、心臓がさらに跳ね動く。しかし、腕をつかむ手は離れず、より力が込められた。

「てめぇ、その手を離せよ…」

 ぎり、と腕を握りしめられ、眉をひそめる。佳純はより瞳をすがめ、鋭い眼光で無言で相手を睨みつけていた。声の主に目をやると、僕は瞠目するしかなかった。なんで、今更…。ぶる、と背中が震えた。いつも、太陽のように明るく、僕にじゃれついてきていた柔らかい微笑みはなく、目の前の佳純を睨みつけ威嚇する冷たい顔つきに驚く。

「よう、すけ…」

 本当に、陽介なのかと疑いたくなるほど、彼の顔はやつれ、目つきは恐ろしい。

「俺は、ななに話があんだよ…離せよ」
「…行こう」

 佳純は僕に囁き、肩を抱き、無理やり足を進めようとした。しかし、それは骨まで響くほど強く握られた腕のせいで叶わない。佳純の怒りが、ぐと雰囲気で伝わり、僕は焦っていた。

「か、佳純、大丈夫だからっ」

 僕の声に佳純が目を見開き、見つめてきた。僕は、なんとか口角をあげて続けた。

「大丈夫、彼は僕の…友達だから…」

 陽介との関係性もなんて名前を呼べばいいのか、ためらった。しかし、後ろからの怒りの圧も感じていたため、そう言葉を振り絞る。

「大丈夫、ありがとう…」

 肩に回されていた手を握り、降ろそうとすると簡単にするり、とその手のひらは落ちていった。茫然とする佳純に微笑むと腕を引っ張られてしまい、また明日ね、と手を振った。佳純はただ、僕を見つめていた。



 陽介が足を止めたのは、ベータ寮の裏にある、小さな庭園だった。特別見どころのないそこは、滅多に人はいない。熱い手のひらが僕の腕に痕が残るほど力が込められていて、痛みに顔をしかめたがそれよりも頭の中は疑問でいっぱいだった。

「陽介…」

 立ち止まり、僕に背を向けたまま何も言わない彼の背中は記憶よりも一回り小さくなった気がしたし、心なしか髪の毛にも艶がない。
 何を考えているかわからない友人に対して、残った勇気をすべて振り絞って、笑顔をつくり声を明るくした。

「こ、こんなところ見られたら、誤解されちゃうぞ~っ?」

 えへへ、と笑うが、何もリアクションはなく、僕の作った声は敢え無く夕暮れの空気に溶けていってしまった。すると、彼が小さく何かをつぶやいた。

「え?なに、ようすっ」

 聞きとれずに声をかけると、陽介は勢いよく振り返り僕の後頭部を鷲掴みにすると、唇を押し当ててきた。がち、と歯が当たり、痛みに呻くと舌が口内に侵入してきた。

「んっ、んぅっ、んんっ」

 背中をどんどん叩いて彼を引き離そうとすると、後頭部の手に力が入り、髪の毛がぐ、と引っ張られる。痛みに涙がにじむが、彼は関係なしに口内を蹂躙する。
 なんで、こんなことするの?
 陽介は、転校生と、恋人同士なんじゃないの?
 僕のことは、もう……

「ふざけんなよ…」

 解放された口元で精いっぱい呼吸を整えていると彼は奥歯で言葉を噛み潰し、呻くようにつぶやく。

「どう、したの、陽介…」

 目の前で、なぜか怒りで満ち、それをぶつけるような口づけをしてきた陽介を見つめる。ようやく目があったと思うと、彼の瞳はぎらぎらとどす黒く淀み異様な光を放っていた。恐怖に息を飲み込むが、なんとか落ち着かせようと、優しく背中を撫でようとしたとき、ばつっと音がした。そして、芝の上に転がるように倒れこみ、覆いかぶさられる。

「なな…なな…、ななぁ…」

 熱い手のひらが、肋骨や胸周りを撫でる感触に、ワイシャツのボタンが弾け飛ばされたことに気づいた。獣のような荒い呼吸をする陽介が僕の首筋を舐め、吸い付き、噛みついた。それに肩をすくめて、小さく声が漏れると、それに気をよくしたのか、彼は大きく深呼吸するように匂いを嗅ぐ。そして、強く噛みつかれた。

「いっ!」

 痛みに身体は硬直し、涙があふれた。何が起きているのかわからない。自分の状態もよくわからない。何よりも目の前の、彼が、何を怒っているのかがわからず、怖くてたまらない。

「ふざけんなよ…ふざけんなよ…ふざけんなよ…っ」

 怒りで身体を大きく震わせる陽介が叫ぶように言い放つ。

「なんだよこのアルファのにおい?!あいつか?あいつにセックスしてもらったのか!?」

 目を見開き血走る眼差しで僕を射止めながら、唾を飛ばし怒鳴る。肩を強くつかまれ、ゆさぶられ視界が大きくぶれる。

「こんなにべっとりつけて、ずいぶんたっぷり中出しされたんだなぁ?」

 乱暴な言葉と直接的な表現にさらに身体を硬直させる。

「まるでななは俺のもんだって言ってるみたいだ…ふざけんなよ、ななは俺のだろ?!なあ!」

 僕はただ身体を固まらせて、目の前の彼の言葉や態度を受け取るしかできなかった。何が起きていて、彼が何を考えているのかが、まったくわからなかった。
 あの優しかった陽介は、人が変わったように目の前で狂っていた。僕が、僕がいけないのだろうか。

「ご、ごめんね…」

 小さく震える唇でそうつぶやく。ぴたりと彼が動きをとめる。

「ごめんね…僕が、いけなかったの…?」

 見開いた目からは絶えず涙が流れる。瞳が合うと、陽介もだんだんと激高していた顔色が収まっていく。そして、うなだれるように頭を落として、僕の上から退いた。
 しばらく動けず、胸の前で手をあわせ握りしめ、震えながら、彼に謝った。
 先日の組み敷かれていたオメガを思い出した。お前が悪い、オメガが悪いと罵られながらレイプされ、風紀委員に助けられてからは、ごめんなさいとずっと謝っていたことが脳裏をかすめた。
 力ない僕らは、守られる立場でしかないのだ。力あるアルファのいうことを聞いて、彼らのためだけに生きるしかないのだ。
 目の前の彼から発せられた匂いや圧で、身体に刻み込まれた根底の本能がそう言っているような気がして、思わずその言葉しかでなかったのだ。

「もう、いい…」

 陽介が、うなだれ頭を抱えながら、そうつぶやいた。
 僕の大好きだった友人をこんな風にしてしまったのは、僕なのだろうか。

「ごめんね…ごめんね、陽介…」

 深い闇色をした、底のない空を見つめ涙を流しながら、僕は震える身体を抱きしめてそうつぶやくしかなかった。秋風に乗って、陽介から発せられるあのオメガのにおいが鼻についた。



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