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第25話
しおりを挟むようやく来た新学期に、珍しく早起きをしてしまう。夏休み明けに、こんなに学校を楽しみしているのは初めてだ。髪型を何度も確認して、最後にリップクリームを塗る。唇を合わせてクリームを塗りこんだあとに、期待に胸が膨れすぎている自分が恥ずかしくなって、制服の袖で口元を拭った。顔を一度両手ではたき、カバンを握る。どのタイミングで佳純のところに行こうかな、と考えながら寮を出ると、目を疑う。
「か、すみ…?」
オメガの寮の前に、背の高い美丈夫がいた。
僕を見つけると、くわ、と大きく欠伸をして、近づいてきた。半分も開いていない瞼だが、僕を見つめて淡く微笑むと、頭に手をあてがった。そして、するりと頬を撫でると、僕は肩を揺らしてしまう。
会いたかった…
つい、瞳がゆらぎ、言葉が漏れ出でてしまいそうになるのを、唇を噛んで堪える。見上げると佳純は寝ぼけ眼で柔らかい笑みを浮かべていた。出会った頃には見られなかった、彼のとろけるような微笑みに胸が詰まり、身体の奥からじんわりと熱が生まれてくるのを感じる。彼が朝を苦手としていることは夏休みの間によくわかったことだった。その彼が、朝早起きをしてまで、わざわざここに立っていてくれたことを思うと、こみ上げる気持ちがある。それを何度も呼吸と共に、心の中に押しやる。並んで歩く登校の景色は非常にゆっくりして見えた。それは、僕らの速度が遅いからなのかもしれない。
久しぶりに登校した学園は、少し様子が違っていた。クラスメイトたちも再会を喜んでいるか、いまいち覇気がないというか、笑顔が少ないというか…そういう違和感が確実にあった。
それをまざまざと体感するのは、登校から数週間ほど経った頃だった。
その日も日課となっている、人の少ない文化部の棟の近くを通り過ぎ、彼の待つ僕らの教室に向かう途中だった。今月に入ってから、いつも人がいなく、しんと静まり返り、不気味な雰囲気を出していた文化部の棟から、人の声が聞こえることがあったのだ。おばけかと思い、耳を澄ますと、どうやらそれは喘ぎ声のようなもので恥ずかしくなって走って逃げたのを覚えている。今日もそれがあり、「またか」と気にも留めないほど日常化していることに僕は気づかなかった。少し歩を進めると、外の倉庫から大きな音が聞こえた。何か重いものが倒れるような、金属の何かを叩くような音が響き、肩をすくめる。
「やめ、やだっ、やあっ!」
すぐさま、高い声が耳に着いた。叫ぶようなその声に僕は、背筋に汗を垂らしながら、渡り廊下から外履きエリアにそのまま息を殺してそろそろと近づいていった。どうやら音の出ている場所は、文化部の棟の近くにある行事などの大きなものを仕舞うための滅多に使われない倉庫からだった。いつもは扉の取っ手に鎖が厳重に巻かれ、大きな南京錠がつけられていた。それは、無残にも壊され、近くに転がっていた。
「やだっ、やめ、てっ、やらああっ」
また叫び声が聞こえて、僕は、は、と顔を上げる。そして、少しだけ開いている扉の中を、顔をこっそり伸ばして覗き見た。僕は息をのみ、すぐに首をひっこめた。心臓がばくばくと暴れて痛い。全身の体温がざっと引き、手が震える。僕が恐怖に呼吸を乱している間も、高い声が聞こえる。においが漂ってきて、急いで手で鼻元を覆う。これは、オメガの発情期のにおいだ。
「あぁ…たまんねえなこの匂い…」
「こんな匂いばらまいてるお前が悪いんだぞ?」
「そうだ、俺たちアルファ様がお前らカワイソーなオメガを慰めてやってんだよ」
感謝しろよお?と下品な笑い声がいくつも聞こえた。そして、パンッと肌と肌がぶつかる音がして、より一層組み敷かれていたオメガの男子生徒が嬌声をあげる。
「早くどけ、次は、俺だ…」
「やらあ…やめて…やらよぉ…」
「せっかく俺が抱いてやんだから、しっかり楽しませろ、よっ!」
オメガの彼の思いは無視され、喘ぎ声が始まってしまう。
膝ががくがくと震えてしまう。これは、明らかに、不本意な性交渉だ…所謂、レイプだ…
性を搾取される側の僕たちオメガは、常にこの被害におびえて過ごすのが常だ。僕がそれに怯えずに過ごせていたのは、たまたま恵まれており、近くに優秀なアルファがいてくれたおかげだ。ぼろぼろと涙があふれてきてしまう。膝が今にも砕け落ちそうで、逃げ出したいのに動けない。
助けて、助けて…!彼らの恐怖の情事の音が耳を貫き、目を固くつむる。立っていられなくなり、かくんと力が抜けた。その瞬間、大きな熱に包まれ、安心する甘い匂いが僕の内側をじわじわと埋めていく。力強く抱きとめられ、その腕で校舎内まで連れていかれる。
ぶるぶると大きく震える僕の身体を抱きしめながら、佳純は誰かに電話をしていた。
「か、すみ…?」
僕が顔をあげて、彼の顔を確認すると、その視線と声に気づき佳純は柔らかく微笑み、携帯をしまった。
「さっき、あ…あの…ぼ、ぼく…あ、…」
組み敷かれていたオメガを伝えようと口を開けるが、うまく言葉にできない。はくはく、と声が出ず口だけ動かす僕を見て、佳純は優しく頬を撫でて涙をすくった。ぎゅ、と抱きしめられ、彼の熱い胸元に顔をうずめる。
「大丈夫だ、七海は俺が守るから」
「あ…かす、み…」
つむじに口づけをし、熱い吐息をつきながら彼はゆっくりと囁いた。その一言に、僕の緊張しきった身体は弛緩し、声をあげて泣いた。
程なくして、後ろの倉庫の方からは揉める声が聞こえて、びくりと肩をすくめたが、会話の内容から風紀委員が取り締まりにきてくれたことがわかった。僕の震えが弱まったことを見て、佳純は肩を抱いて歩きだし、僕らの教室に入る。佳純は僕を労わるように、ずっとそばにいて、背中や頭をさすってくれていた。その大きな手のひらに癒され、泣き疲れたのか子供のように僕は眠りについてしまった。
遠くで声がする。聞いたことない、男の人の声だ。
「連絡、助かったよ」
「…風紀もご苦労なことだな…」
柔らかいその人の声と、佳純のバリトンが聞こえる。あの佳純の言葉数が多いことから、二人の仲の良さを感じる。目を開けて、どんな人と佳純が会話をしているのか確認したかったが、身体は動かない。
「いやあ、転校生様のおかげで腰を下ろす暇もございません」
溜め息をつきながら、その人は冗談っぽく言う。転校生…。その人物を思い出し、瞼がぴくぴくと細かく震える。
「なあ、早く、佳純が…」
「その話は何度も断ってる」
すがるように声をかけられるが佳純はその人が言い切る前に会話をシャットダウンさせてしまう。冷たくぴしゃりと言い切る佳純の言葉の温度が久しぶりだと思う。
「でも、このままじゃこの学園は終わりだ…それじゃ、お前のお姫様も困るだろ?」
その言葉を受けて、沈黙が流れた。佳純は今、どんな顔をして、その瞳で何を語っているのだろう。
「…だからこそだ。今は、七海のそばにいたい…」
最近、聞きなれた甘い佳純の声がして、僕はかすかに身体を震わせた。
会話の流れからして、お前のお姫様、とは、どうやら僕のことを指しているらしい…。その事実が、先ほどの凄惨な出来事を忘れさせるほどの多幸感を僕に与えた。
「ったく、なんだその緩みきった顔は…」
佳純の話し相手の人は、溜め息まじりに呆れたように愚痴た。
「どうであれ、この学園には、佳純しか残されていない」
そう真剣な声色で伝えると、携帯の着信がなり、数言話すと電話を切る。じゃ、ちゃんと腹くくる準備をしておけ、と言い残して、その人は去っていった。
佳純は、小さく溜め息をついた。そ、と僕の頬を撫でてくる心地よさに睫毛を震わせ、ゆっくりと瞼を持ちあげる。思い悩むように眉根を寄せた彼と目が合うと、頬を緩め僕の名前を囁いてくれる。
「佳純…」
どうやら、彼は何かを任されるような、頼られるような立場であるらしいことを今日初めて知った。それでも、僕を優先し、僕を守ると言ってくれた。この幸福を独占してしまっていいのだろうか。ためらいながら、彼の指を握ると、逆に手を掬われ、指先に唇を押し当てられた。慈しむその動作に、熱い溜め息と共に佳純の名前をもう一度つぶやいた。心地よい心音と匂いのする体躯が僕を抱きしめる。今だけは、独占させてください、と心の中で唱えて、うっとりとその身体を抱きしめた。
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