甘雨ふりをり

麻田

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第19話

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 それからの毎日は、とても穏やかだった。
 朝起きれば、柔らかい日差しが僕を照らす。窓を開ければ、爽やかな風が緑の匂いを運ぶ。小鳥は愛らしくさえずり、僕は自然と頬がゆるむ。朝起きて、リビングに降りれば、その人はいたり、いなかったりした。いないときは、大体寝ている。キッチンには、ここ数日で一気に食料が増えた。時にはどこからか彼がデリを頼むこともあったが、僕は、彼と一緒にここに立ち、お互い不得意な料理を一生懸命取り組む時間が好きだった。不器用で野菜を不揃いにしか切ることができない彼が愛おしいと思ったし、味見をさせると目をきらきらと輝かせる彼が愛らしかった。二人でゆっくりと時間をつくっていくことの幸せを体感した。昼間は、近くの川で釣りをすることもあったし、コテージ内にある大量の書物を並んで読むこともあった。
 今日の朝は、パンを焼き、ベーコンを炒めてサラダをつくろう。フルーツも盛り合わせれば十分だ。パンくずを拾い、手のひらに乗せて、サンデッキに出る。ここ数日ですっかりなついてくれた名の知らない小鳥たちは、僕のもとへきて、手のひらのパンくずをつまんでくれるようになった。こんな経験、佳純が連れてきてくれなければ、できなかっただろう。心の奥で、じわとまた温かい何かがにじむのがわかった。ぎ、と階段を踏む音が聞こえ、振り返ると、寝ぐせをつけ、寝ぼけ眼の彼がのそのそを歩いていた。くす、と笑い、残ったパンくずをまいて、室内に戻る。

「おはよう」

 そう声をかけると、彼ももごもごと返してくる。はっきりとは聞こえないが、僕の挨拶に応えてくれているらしい。朝起きて、おはようという相手がいること。その相手が、ましてや自分にとってかけがえのない存在になりえていることが嬉しいと、じわじわと指先に熱が宿る。冷蔵庫から水を取り出しまだ半分も開いていない目で飲む佳純の前にいき、髪の毛を撫でつける。ぎゅ、と押さえつけても、手を離せば、小さくぴょんと飛び跳ねてくる。彼はそんなことはお構いなしに、焼けたパンを乗せて、トレーを二つ運んでくれる。ダイニングの背の高い椅子に座り、並んで食べる。よく焼けた食パンをサクサク言いながら食べる彼を見やると、潤んだ唇にパンくずがついている。それに目がいってしまうと、心臓が大きく跳ねて、ドキドキと鳴りやまなくなってしまう。触れたい、と愚直にも、思ってしまうのだ。また、あの唇で、甘やかしてほしい、と思ってしまうのだ。は、と息を吐くと熱をはらんでいて、急いで飲み物で流し込んだ。発情期でもないのに、こんなにいやらしいことばかり考えている自分が、恥ずかしくてたまらなかった。



 午後は、佳純に提案されて、この前も釣りをした川に行こうと決めた。簡易に舗装された道を、佳純の隣に並び歩く。セミが勢いよく、あちらこちらで鳴いて求愛をしている。こんな風に、自分も素直に彼を求められたら幸せなのだろうか、と少し考えてしまい、頭を振る。砂利を脇に固めただけの足元の悪い階段のような傾斜を彼は先に降り、僕に手を差し伸べる。

「あり、がと…」

 その、ひんやりする手のひらに、おずおずと手を重ねると、お互いの体温が触れ合い溶け合う感覚がした。彼の立つ地面に着地をしてしまうと、あっさりと手は離れていく。握り返して、離れさせたくないと思うが、川のせせらぎようにその邪な気持ちは見ないふりをして流し、砂利道の上を少し走る。透き通った水が流れる穏やかな川にあい、足を少し入れると、真夏の水温とは思えない冷え切った水に肩がすくむ。

「ひぇえ、つめたいっ!早く佳純も!」

 振り返ると、佳純は少し呆れたように笑い、あとを追って入ってきた。

「夏にぴったりだね」
「そうだな」

 水面に太陽が降り注ぎ、その反射光が佳純のピアスを照らした。きらきらと光る彼をみていると、幻想的で、いつか消えてなくなってしまうのではないかと勝手に悲観的な考えになってしまいそうだ。そんな思いを隠すように、ばしゃりと佳純に水をかけた。前髪をしとどに濡らしてしまった佳純は、眉間に皺を寄せてこちらをにらんでいた。

「きもちいね~!」
「…」

 腹を抱えて大笑いする。彼が、シャツの裾をしぼり、ぼたぼたと雫を落としたと思ったら、大きく手を広げて、川の水を塊にしてかけてきた。

「うわっ!」

 頭からズボンまで、びっしょりと濡れてしまい、驚いて彼を見ると、彼も予想以上に水がかかってしまったと驚いた顔つきをしていた。なんで、かけた本人が驚いているんだと笑い、また彼に水をかける。その応酬を繰り返していると、初めて見るかもしれないと思うほど、彼は白くきれいな歯列の歯を見せて笑っていた。笑うと年相応に幼く見える彼にどきりとするのを誤魔化すように、何度も水をかけた。すると、足首にぬるり、と何かが撫でてきたのに驚き、体勢をくずす。大きな岩が近くにあり、このままではぶつかる、と目をきつく閉じた。
 ぴちょ、と冷たい雫がうなじに垂れるのを感じて、恐る恐る瞼をあげると僕は石にぶつかってはいなかった。振り返ると、すぐそこに佳純の顔があり、たっぷりの水を僕にかけていたその長い腕が、しっかりと抱きとめてくれていた。夏風がざあ、と吹き、僕らの包み込んだ。濡れた睫毛の奥の、深く美しい色の瞳を見つけると、身体の奥でじりじりと火花が弾ける音がする。手のひらは氷のように冷たいのに、彼の身体は炎のように熱い。その対比が、僕に劣情を芽生えさせる。

「気をつけろ」
「う、うん…」

 彼は僕がしっかりと立ったことを確認すると離れていった。うつむいて、小さく、ごめんと誤った。佳純はざぶざぶと川の中を歩き、岸に上がる。
 あと一瞬、彼が言葉を発するのが遅かったら、僕は何かを、彼に伝えていた気がする。その何かをはっきりと言葉にするには、まだ勇気がなかった。でも、久しぶりの彼の身体に強く抱き留められ、口走りそうになった。川の中で川魚のうろこが光とぶつかり、まばゆくきらめいていた。



 そのあと、木陰で少し涼み、川や夏の森の音を楽しんで、二人並んで帰ってきた。夏の暑さで衣類はすっかり乾いていたが、佳純に半ば強制的に風呂に入れられた。僕が風呂を出ると次は佳純が風呂に入る。彼を待っている間にソファに座ると、あっという間に横になってしまい、眠気に身を任せてしまった。風呂の中でも、一人でソファに座っていても、考えることは佳純の熱さばかりだった。
 まどろみの意識の中で、ふんわりとタオルケットをかけられたのがわかった。そして、指先でするすると顔を撫でられる。額から顎にかけてゆっくりと撫でられて、瞼や耳を柔く触れ、最後、唇に湿った熱いものが触れた。その瞬間、は、と目を覚ますが、そこには何もなかった。ただ、いつものように彼が隣でソファに座り、英字の雑誌を読んでいた。

「佳純…」

 確かめるように、名前を呼ぶと、佳純は僕を見て、口元をゆるめた。

「よだれ、ついてんぞ」

 と、指をさされ、急いでシャツの裾で拭う。彼は、笑い僕の髪の毛を混ぜるように撫でてから立ち上がった。冷蔵庫を開き、今日の晩御飯の話をしだした。生返事をしながら、僕はそっと自分の唇に触れた。



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