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純潔
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しおりを挟むとうとうメリッサとカイルを必死に守っていた近衛兵達は皆いなくなってしまった。
カイルは城でも特別な場所にある地下室へ潜った。
地下には成人した王家の者と神官だけが知る神殿があった。
メリッサとカイルが契りを結ぶ神殿である。
二人のみで、誰にも見つからないようにこっそり神殿に潜らなければならない。
王家の者ではないが、国王はカイルにもその場所を教えていた。
内側から鍵をかければ外からは絶対に開けられないというそこに隠れることにした。
城を脱出することは難しく危険である。
神殿には神官達が二人の契りのために寝台や着替え、飲み水や食べ物、メリッサの好むお菓子や果実も用意されていると教えられた。
せめてメリッサだけでも、カイルは助けたかった。
最期の王家の姫君であるメリッサは捕まっても生かされるかもしれない。
それでも首謀者であるディエゴがそのままメリッサを見逃すはずがないと思った。
死よりも辛い地獄がメリッサに待っているかもしれないのだ。
一瞬、それならばメリッサとともに心中した方が幸せではないかと思い浮かんだが、その度に命がけで守ってくれた友人達の死に顔が目に浮かんでは消える。
義父に渡された剣を握りしめ、カイルは暗い地下の通路をメリッサの手を引いて歩く。
王家の契りのための道であり、今は灯りがなかった。
本来ならば夕暮れの時刻にカイルはメリッサを抱きしめてこの通路を共に歩むはずだった。
ぎゅっと握りしめるメリッサの小さな手。
カイルの手を握り返すメリッサが愛しくて堪らない。
神殿の扉は開いていた。
都には戦神を祀る大神殿があったが、あまり馴染みのない女神の神殿に入るのはメリッサもカイルも初めてである。
神殿の中には無数の明かりが灯され、どこからか涼し気な水の流れる音がした。
特別な香が焚かれ、カイルはそれが媚薬が含まれたものであることに気づき、こんな時に今更ながら寄り添うメリッサに興奮してしまう自分を恥じた。
ある意味では命の危機に瀕したカイルが子孫を残すために欲情するのは一つの本能であるが、やはり今はその時ではない。
暗闇に慣れてしまった目を擦りながら、メリッサはヴェールが外れ、どこかに落としてしまったことに気づいた。
お転婆なメリッサがヴェールを外してしまわないように侍女や女官達が工夫をしてつけてくれたことを思い出す。
複雑に編みこまれた髪もそうだ。
あれだけカイルに抱えられて移動したというのに、少し後ろ髪や前髪が解れただけでまだ綺麗に纏まっている。
化粧は汗で少し落ちてしまい、純白の衣装には返り血が目立っていた。
せっかく、朝早くから侍女や女官達が張り切ってメリッサを綺麗にしたのに。
メリッサの花嫁姿を見て、号泣する彼女達はメリッサ以上に喜び、祝福してくれた。
本来ならば、今頃彼女達からの祝福の花びらを浴びているはずだ。
まさか、こんな風にして神殿に来ることになるなどと、一体誰が想像できただろうか。
初めて見る女神像の前で、メリッサの頬に今まで耐えてきた涙がとうとう流れた。
「メリッサ……」
カイルは、そっとメリッサを抱きよせた。
上目遣いで深い悲しみに耐えるように唇を食いしばるメリッサ。
壁も床も全てが朱色の神殿の中で真っ白な衣装を着るメリッサは酷く眩しい。
所々薄汚れてしまったのに、メリッサの清楚で儚げな美貌を損なうことはなかった。
静かに涙を流すメリッサが哀れで愛しい。
カイルはそっと、その頬に流れる涙を指ですくい、そして慰めるようにその目元に口づけようとした。
その瞬間、カイルは強烈な殺気を感じて反射的に持っていた剣を構えた。
メリッサを抱きよせ、突きつけた剣の先にいる男を射殺すように睨みつける。
「待っていたぞ、メリッサ」
腕の中のメリッサが強張るのが分かる。
神殿の明かりに照らされ、不気味なほどの笑みを浮かべる片目の男。
酷く楽しそうにディエゴはメリッサを見ていた。
*
「ディエゴ……!」
憎くて仕方がない目の前の卑劣な男に、カイルは襲い掛からないように耐える。
そんなカイルに一瞥さえ与えず、ディエゴはただメリッサだけを見つめていた。
「メリッサ、俺に美しい花嫁姿を見せるよう言っただろう? 広間から逃げ出すとは、やはりお前は昔と変わらずお転婆だ」
笑いかけるディエゴの姿は昔と同じだ。
メリッサがどうしようもない悪戯に失敗したかのように笑う。
昔と変わらない笑みだ。
なのに、その左目には深い憎悪が燃え、メリッサの全てを燃やし尽くすかのように見つめて来る。
怖ろしいと思ったがそれでもメリッサはディエゴに対する怒りと憎悪の方が強かった。
また、反逆者の前で怯えることを誇り高い王女であるメリッサは良しとしなかった。
「随分と用意周到な襲撃ね。一体お兄様はいつから卑劣な売国奴になったのかしら」
わざわざメリッサの結婚式を狙って来たディエゴの陰湿さと執念が汚らわしい。
一体どれだけの者がディエゴの反逆で殺されただろうか。
安らかな死を与えられることもなく、皆が苦しみ悶えながら死んだと思うだけで、メリッサは今すぐにでもディエゴの顔に唾を吐きたい気分だ。
メリッサの憎悪と怒り、そして哀しみで爛々と輝く瞳をディエゴは天にも昇るような心地で受け止める。
今、メリッサはディエゴだけを見ている。
「いつから? そんなのずっと前からだ」
メリッサがディエゴを憎み、裏切られたことに怒り、哀しんでいるのだと思うと鳥肌が立つほどの興奮を覚えるのだ。
「ずっと、今まで俺が信じて守って来たもの全てに裏切られたあの日から…… 俺は今日この日のためだけに生きてきた」
ディエゴは自身がもうずっと前から歪み狂ってしまったことを自覚している。
信じて愛して来たもの全てに裏切られたあの時から、ディエゴは今日この日のためにだけに生きてきた。
何度も死という安息に逃げたくなるのを耐えて、ディエゴはこの国を、そしてメリッサに復讐するためだけに生きてきたのだ。
「メリッサ…… お前が俺を拒絶し、嫌悪し、ボロ雑巾のように捨てたあのときから、俺はずっとお前のことだけを考え、生きてきた…… 今日、この日のために!」
ディエゴの叫びが神殿に木霊する。
怖ろしいぐらいのどろどろとした恨みや悪意全てを煮詰めたディエゴの心の叫びだ。
メリッサの盾になりながら、カイルはその叫びが悲痛な泣き声のように聞こえた。
あの誇り高い勇名な王太子の姿とは程遠い、ひたすら異常なまでの熱量でメリッサを睨みつけて恨み言を言うディエゴの姿は哀れでもあり、怖ろしい。
ディエゴが危険な男だと分かっていたが、メリッサへの異常な執着を見てカイルは今ここで刺し違えてもディエゴを止めなければならないと思った。
正直カイルはディエゴが裏切る前までは、メリッサの夫となることがディエゴに申し訳ないとも思っていた。
幼い頃は純粋に同い年でありながら数々の戦場で勝利し、国に繁栄を齎したディエゴに憧れていたのだ。
そのディエゴを捨てた王女を自分が娶る。
今日、国王の下でメリッサと永遠の誓いを交わすのは本来ならばディエゴなのだ。
後ろめたい思いと罪悪感に悩まされながら、それでもカイルは国の英雄であるディエゴよりも我儘で甘えたがりなメリッサとの幸せを選んだ。
それは今も後悔していない。
カイルが唯一後悔しているのは、あのときメリッサと面会したディエゴの不穏な空気をもっと深く考え、国王に注進すべきだったという後悔だ。
ディエゴの異常なまでのメリッサへの執着、そして復讐のために国ごと裏切るその行動。
すぐ側に忍んでいた狂人に気づかず、そしてむざむざ目の前で国王を殺されてしまったのだ。
死を持ってしても償えないだろう。
カイルは当に覚悟を決めていた。
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