君と地獄におちたい《番外編》

埴輪

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慰問

当家の若夫婦

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 ロゼとエアハルトが結婚してからそれなりの日数が経った。
 その間に若い新婚夫婦の関係を掻き乱すような嵐もあったが、二人の関係は非常に良好であり、特に夫のエアハルトは妻のロゼを大層可愛がり、人目も憚らず溺愛していた。
 今までの箍が外れてしまったかのようにエアハルトはロゼを離そうとしない。
 談笑する際もロゼを膝に乗せ、食事中も屋敷にいる間はという条件付きでマナーや席順を無視して膝がくっつくほどロゼの近くに椅子を寄せる。
 夜、寝るときに一緒になるのは当たり前だが、エアハルトは例の嵐の夜以降、ロゼが閨前に身を清めるときも、事後で身を清めるときも、ロゼの側を離れようとしない。
 むしろ喜々としてロゼの若い肢体を洗ってやったりすることに愉悦と至福を感じているらしく、夫にそんな真似はさせられないとやんわり拒否するロゼを押し切って無理やり浴室に入ってくるのだ。
 広い屋敷には鍛錬後の夫専用の簡単なシャワーが浴びれる浴室もあるのだが、専らエアハルトは大浴場にロゼを連れ込んで共に汗を流して身体を温めることを好んだ。
 付いて来ようとする侍女達を制し、彼女達がハラハラと扉の向こうで見守っていることを無視して、エアハルトは丹念にロゼの身体を癒してやった。
 エアハルトからすれば日中は仕事でロゼと触れ合うことができないのだから、これぐらい大目に見てほしいし、くっついていないとどうにかなってしまうかもしれないという安全策だと言う。

 そんな感じのことを堂々と言われた執事長は何をほざいているのだと疲れた顔で溜息をつくしかない。
 せめてもの救いがエアハルトのその見るも無残なでれでれとした姿が屋敷内限定ということだ。
 ただ単に独占力の強いエアハルトがロゼを屋敷から連れ出そうとせず、無言でロゼ自身の外出も拒んでいるからだが。
 このままではいけないと分かりながらも、この状態の未来のミュラー家侯爵夫妻の姿を迂闊に外の者に見せるのもどうなのかと、執事長の悩みは尽きない。
 だが、以前ロゼから相談されたようにそろそろ実家や付き合いの深い貴族達、仕える王家に挨拶をしなければならない時期が来た。
 新婚夫婦ということで、ある程度の新婚期間は二人のみで生活して親交を深めるというのが貴族の結婚の習わしといえども、そろそろ両実家がやきもきし始めている。
 執事長のもとにも現ミュラー侯爵からの催促の手紙が来ている。
 エアハルトにはもっと大量の手紙が来ているはずだが、彼は特に気にせず放置していた。
 軍部で嫌でも上官であるミュラー侯爵と顔を合わせるというのに、なんとも豪胆なお人だと執事長は呆れるしかない。
 何よりも奥方の実家である公爵家が本気で焦れて何かして来るのではないかと執事長などは夜も満足に眠れないほど心配していた。
 なんとか、例のルナの件を公爵家に伝えないよう、ロゼが実家から連れて来た公爵家所縁の侍女達を説得したものの、いつ、誰かしらの口から告げ口されるかも分からない。
 されたとしてもあまり強く責めることもできない。
 男であり、長年軍人として、また貴族の屋敷で采配を振るっていた執事長からすればルナのような小娘の存在など大したことはなく、エアハルトに不実はないと思っている。
 この感覚の違いを迂闊に話してしまえば、今は言うことを聞く侍女達から忽ち敵意を向けられることになるだろうと理解している執事長は優秀といえた。
 その点、肝心の奥方であるロゼはなんと立派だろうと執事長は思う。
 あの年頃の、苦労も悪意も知らないだろう甘やかされた令嬢がルナのような存在を突然知れば泣いて実家に帰ってしまっても可笑しくないだろう。
 余所の女が夫の子を妊娠したという、ショッキングな狂言に一度気絶するほど憔悴していたが、その後の落ち着いた良妻っぷりは感嘆に値する。
 エアハルトの、あの貴族の娘達が怯える強面でがっちり身体を拘束される毎日に息が詰まっているのではないかという執事長や他の使用人達の心配を余所に、ロゼは嫌な顔一つ見せず、むしろ頬を染めて恥じらないながらも嬉しそうにしている。
 この幸せそうなエアハルトの姿を亡くなったミュラー夫人にも見せてやりたいと穏やかな表情で侍女長が呟くのを聞いたが、あの人一倍常識人でミュラー侯爵に幼少から振り回されていたミュラー夫人が息子のこのありえないでれでれ顔を見て果たして喜ぶのだろうかと疑問に思った。
 正式な夫婦だとしても、傍から見れば大柄な屈強な軍人がまだ幼い美少女を無理やり抱きかかえてその可憐な唇を人目も憚らずにむしゃぶりついている光景はなかなか厳しいものがある。
 執事長があと20ぐらい若ければ、問答無用でエアハルトを引き離して憲兵に突きつけるか、或いは軍人裁判にかけていただろう。
 エアハルトが幼い頃、その若き頃の侯爵によく似た面立ちや体格、そしてそれ以上の光り輝く才能を目の前にして己の全精力をかけて侯爵とともに虐待紛いの鍛錬を施し、立派な軍人に育てたという自負はある。
 だが、もしかしたら侯爵も自分も、エアハルトに最も大切な何かを教え忘れたのではないかという後悔が最近の執事長の悩みだった。

 とにかく、だ。
 どうにか、エアハルトのこの目に毒なロゼへの溺愛、いや、甘えた態度を矯正しなければならないだろう。
 それがきっと世間一般の認識だ。
 しかし、もう既に屋敷の者達はだいぶエアハルトの異常なロゼへの執着を目の当たりにして、徐々に毒されて来ている。
 別に外でなければいいのではないかという考えが広がっていた。
 むしろ、仲睦まじいのは良いことで、これならばロゼが子作りを許可されたその年に確実に子ができるのではないかと既に祝福モードのおめでたい頭の者もいる。
 何を隠そう侍女長だ。
 彼女の言い分からすれば、ロゼならばきっちりエアハルトの手綱を握ってくれる。
 何も心配はいらないのだから、いずれ生まれる二人の子を楽しみにしていようということらしい。
 呑気なものだと執事長はいつの間にロゼに対して絶対的な信頼を寄せている侍女長を羨ましがった。
 侍女というのは奥方につくことが多く、確かに奥方にはなんの心配もないだろう。
 ならば屋敷の主の秘書的な役割を持つ執事長はどうだ。
 代わってほしいとプライドもなく、執事長は珍しく弱音を吐いた。

 執事長の悩みの種でもあり、恐れ多くも自慢の息子のように思っている主のエアハルトはそんな執事長の悩みなど知らず、むしろ知ってもどうでもよいらしく、珍しく彼を呼び出した。
 仕事から帰れば、さっさとコートを脱いで軍服のままロゼに抱き着いてしばらく離れないエアハルトは珍しくロゼとの時間を後回しにして執事長を執務室に呼んだ。

 奥方に聞かせられない内容なのだと察し、執事長は真剣な表情で控えている。

「爺。ロゼを軍に連れて行く」

 何を言っているのですかと一瞬返したくなったのを執事長は耐えた。
 そしてすぐに元軍人でもある執事長は軍隊の春の式典を思い出した。

「春の慰問ですか」
「そうだ。俺の妻としてロゼを連れて行く」

 元は戦争の戦死者や戦役で負傷した怪我人達への見舞いや自分達の家の忠誠を国に示すための儀礼的な慰問行事であり、今でもその表向きの目的は変わっていない。
 だが、いつしかそれは貴族の者達が権威を見せつけるため、または軍部との懇意をアピールするものに代わり、慰問というよりもちょっとした祭典に近いものとなった。
 また、軍人達の妻子を公式に招いて親睦を深める意味合いもあり、それほど悪い催しではない。
 ミュラー将軍という、軍の頂点にほぼほぼ位置するミュラー侯爵は毎年この式典でスピーチをし、その後は部下達の妻子や親族達に挨拶され、普段は関わりのない貴族達からも媚を含んだ贈り物などを渡される。
 後妻を娶らず、跡取りは殺しても死にそうにないエアハルトだけという、ある意味では異色な貴族として普段は近づく口実が見当たらない侯爵にここぞとばかりに親交を深めようと毎年何人もの貴族達が果敢に挑戦し、敗れて行った。
 いずれ自分もああなるのかと、エアハルトは誰も寄せ付けない冷たい威圧感を放ちながら人々に囲まれる父親の姿を遠くから見ていた。
 軍人達から圧倒的な支持を集めているミュラー親子のその孤高ともいえる姿勢は一層天晴ともいえる。
 何よりも付き合いが大事な貴族社会で、そのスタンスを貫きながら今だ没落どころか資産も権威も有り余っているのが凄い。
 ミュラー家は色々と特殊すぎると貴族社会では認識されている。
 そんな特殊な家に嫁いだロゼは元々の人気ぶりもあり、結婚後どうなったのかと知りたがる者は非常に多い。
 あの可憐なロゼに恐ろしい伝説しかないエアハルトの妻が務まるのか。
 むしろエアハルトにロゼのような心優しい令嬢はもったいないのではないかという嫉妬が含まれた噂も立っている。
 外界からの噂など伝わらない屋敷でのんびりと夫の帰りを待っているロゼはもちろん知らない。
 そもそもエアハルトがロゼを屋敷から出したがらないのだ。
 ロゼが頼めば渋々ながら外出の許可は出すだろうが、エアハルトの機微に聡いロゼは少しでもエアハルトが寂しそうに、あるいは我慢しようとするのを見ると途端に甘やかしたくなり、つい望みのままに屋敷で大人しくしてしまう。
 最近では体力作りのために侍女達から色々な鍛錬方法や体操など教わって、前よりも健康的になったと微笑むロゼだが、年頃の娘にはやはり屋敷に籠りっぱなしの生活は辛いはずだ。
 そういう観点から見れば、エアハルトがまた何故急に気を変えたか分からないが、ロゼを積極的に外に連れ出そうとするのならばむしろ良いことだ。
 ロゼはまだ結婚したばかりであり、公爵家にいた頃から外に連れ出される機会はあまりなく、社交界ならばともかく軍部に行ったことは一度もない。
 婚約者として軍の様々な行事に本来ならばロゼもエアハルトに付き添うことが出来たのだが、公爵家が許すはずもなかった。
 慰問は、春夏秋冬と、その年で何もなければ年に四回行われる。
 慰問とつくだけで、軍隊の鍛錬や迫力のある模擬戦などを見学したり、大砲や大量の銃、花火を使ったパレードや時折バザーなども催すため、ほとんど軍隊でのお祭り騒ぎに等しい。
 それでも春の慰問だけは王侯貴族も訪れ、親睦や改めて軍部の力を誇示するための意味合いが強く格式や礼儀作法が細かかったりする。
 ロゼは幼いことと、まだ新婚ということで今年は慰問は免除されている。
 もちろん、望んで参加するならば大歓迎であろうが。

「それは、良いことだと思います」
「ああ。ロゼは俺の妻であり、ミュラー家の一員だ。軍とミュラー家は切っても切れない深い繋がりがある。部下共にも、自分達の上官の妻の姿をしっかり認識させなければならない」

 妙に嬉しそうに妻と連呼するエアハルトに執事長は無言である。
 この位のエアハルトの無表情のにやけた姿も慣れ過ぎて感覚が麻痺してしまった。

 無言でその姿を見ていた執事長は悟った。

「要するに、奥様を自慢したい、と?」

 思わず本音が直球で出てしまった。
 駄目だ、疲れていると執事長は思った。

「………」

 あからさますぎる執事長の言葉に、エアハルトは怒ることなく、無言だ。
 もともと無口だが、今のエアハルトが図星を当てられて珍しくも少し気まずいと思っているだけだと付き合いの長い執事長には分かった。
 軍に行く前に先に公爵家に挨拶に行った方がいいのではないかとか、そもそもロゼに事前の許可は得ているのかとか、色々言いたいことはあった。
 ただ、この短期間でエアハルトのロゼへの入れ込み様は病的であり、そのエネルギーをロゼ一人に向けるよりは自慢でも惚気でもなんでも外にいる周りの者達に発散した方が健康的だと思えた。
 少なくとも、執事長達の目の前で隙あらばロゼに不埒なことをして、適当な部屋に連れ込んでしばらく誰も寄せ付けないようにするエアハルトの心臓に悪い行いよりはずっといい。

 色々頭で考えたものの、執事長は疲れたように了承するほかない。
 元々、断ることもできないが。
 自慢したいのならすればいいという投げやりな思いと、我がミュラー家の未来を背負う美しい二人の新婚夫婦を大勢に見せつけれる機会に執事長は少しだけ浮かれていた。

 屋敷の者達はもう皆、毒されているのだ。

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