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第八章

愚策

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 信じた神にすら見捨てられた、哀れなオクタヴィア。
 彼女を救うために、ルキウスは神になるしかなかった。

 けれどローマでは、実在する皇帝を正式に神と認める事はない。
 ローマの新しき神と呼ばれるルキウスではあるが、実際には神として崇められているわけではなかった。それに等しい力を持った英雄との表現がより正しいだろうか。

 まず手を付けたのは、亡くなったアウグスタの神格化だった。死後に神とされるのは、珍しいことではない。
 小さな死者を神に祀り上げるのは、多少胸が痛むもオクタヴィアのためだ。きっとアウグスタも、理解してくれる。

 次は、ルキウス自身だった。
 そこで、悩む。無理に神格化を推し進めては、民や元老院からの反発があるだろう。ルキウスの脳裏に、一世紀前の英雄、ユリウス・カエサルの姿が浮かんだ。

 彼は実質的に皇帝と同じ権力を持ちながら、「王」の名に憧れ、強引に進めたがために暗殺された。
 「神」と「王」の差はあるが、望みはほぼ同じ。その末路を自分と重ね合わせることは、あまりにも容易だった。

 暗殺などされては、意味がない。何とかして方法を考えなければならなかった。

 思いついたのは、エジプトだった。
 かの地は、古くから王を神として崇めている。
 現に、アレクサンドリアの港には、皇帝ネロの神像が立てられていると聞く。
 エジプトだけではない。ギリシアでも、かつての英雄マルクス・アントニウスが酒神ディオニソスと同視されていた。それにあやかることは可能ではないか。

 ギリシアへ行き、そこからエジプトへと渡る。
 二大植民地で神の呼び名を確実にした上で、ローマに凱旋する――悪くない、はずだ。

「恐れながら皇帝、その計画には賛同いたしかねます」

 ローマを離れるにあたって、代理人を立てなければならない。最も適任と思われた現代の英雄、ガイウスは、計画を聞くなりそう言った。

「ギリシアやエジプトへ行くとなれば、長旅になります。私的な旅行で一国の皇帝が長く国を開けるのは、決して得策ではありません。せめて、ギリシアかエジプト、どちらかになさるべきです」

 逐一、もっともな言い分だった。
 そう、理性ではわかっている。けれど功を焦るルキウスには、受け入れがたいものだった。

「なぁ、ガイウス」

 当然の苦言に、眉を顰めて溜め息を吐く。

「オクタヴィアだけでなくアウグスタまで失い、私は今悲しみの底にいる。この傷心を、癒やすことすら許されないのだろうか?」

 芝居がかった調子を、見抜けぬガイウスではない。
 けれど同時に、オクタヴィアの名を出せば強く出ることもできない男だった。
 それは、と一言苦しそうに呟いた後、彼は黙り込む。

「少しだけでいい。休息が欲しい。――いけない、だろうか?」

 アウグスタの部屋に入り浸っていた時と、同じ手段でガイウスを黙らせる。
 なんとも便利で、卑怯なことか。

 同時に、ほんの少しちくりと胸が痛む。
 この方法が通じるのは、ガイウスがルキウスのためを思っているからではない。オクタヴィアに向けられた感情によるものだからだ。

 ――嫉妬など、醜い。
 この醜悪な感情が、オクタヴィアを死に追いやった一因だというのに。

「――なるべく早くのお帰りを、お待ちしております」

 心痛が、より真実味を与えたのだろうか。
 深々と頭を下げるガイウスに、苦く笑うことしかできなかった。
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