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第八章

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「何か、お尋ねになりたいことはありますか?」

 誰も声を上げない中、ルキウスは挙手する。
 パウロがこちらを見たことを確認し、軽く一礼した。

「神の教えによれば、女の姿をする男も、男の姿に身を窶す女も罪人だと言います」

 凛と張った声が、静まり返った空間に響く。演説と歌で鍛えたルキウスの声は、老人であるパウロとは比べ物にならなかった。
 周囲も、またパウロ自身も、驚きの目を向けてくる。ルキウスは気にせず、言葉を続けた。

「神像を崇める者も、皇帝を新しき神と呼ぶ者も、呼ばれる者も」
「その通りです」
「またその父や母を殺害する者も、自らを死に至らしめる者も」

 パウロが頷くのを確認した上で、少しだけ笑って見せる。

「ならばこのローマは、罪人の巣窟ですね」

 一旦区切り、フードの奥からでもきっと伝わる、鋭い瞳をパウロへと向けた。

「その中でも、より罪深き者達の物語を聞いて頂けますか」

 丁寧に、けれど否定することを許さぬ口調で問う。
 遠目にでもわかった。パウロが頷いたのは寛容からではなく、おそらくは底知れぬ恐怖からであることは。
 ルキウスは集まった民衆に語りかけるように、まるで演説のように話を始めた。

「ある所に、主を信じ、その教えを忠実に守る清らかな乙女がありました。彼女を娶ったのはしかし、男の姿をした女。それを知りつつ彼女は、夫たる女を告発しませんでした。人類愛の名の元に、です」

 静かに語る口調は、それでも次第に熱を帯びていく。

「けれど、夫たる女は罪を犯しました。ローマ古来の神々を崇め、実の母を殺害し、友人を裏切りました。その上自分をかばってくれた妻を、醜い嫉妬から陥れてしまったのです」

 演説でも定評のあるルキウスの声は、暗い室内に響き渡る。

「だが妻たる女は、少しも夫を憎まなかった。神の教えによる絶対の愛を信じ、それを全うしようとの信念からでした」

 瞼の裏に、オクタヴィアの顔が浮かび上がる。
 思い出すのはあの、優しい微笑み。儚げな美しさが浮かぶ、慈愛に満ちたあの笑顔だった。

「そして彼女は自ら命を絶ちました。夫たる女が重ね続けた罪を、その一身に引き受けて――神に、彼女の罪を許して欲しいと祈りながら、夫の代わりに死んだのです」

 涙が溢れそうだった。
 これは自分のことではない。オクタヴィアのことでもない。聞き知った他人の話だと、思い込もうとした。

「そこで、あなたにお伺いしたいのです」

 感情が、錯綜する。
 オクタヴィアを失った悲しみ、自らへの怒り――そして、祈りと、期待。

「二人はそれぞれ、罪を犯しました。妻たる女と、夫たる女。どちらがより、罪深いかを」

 夫たる女だと答えてほしかった。
 否、ローマの法では罪人はルキウス一人で、オクタヴィアに罪はない。夫たる女だと答えられるはずだ。
 そして最終的に、妻は無罪と言わせるつもりだった。
 そうすれば、オクタヴィアが自ら犯したと思っている罪はなくなるのだ。彼女が信じる神の代行者が、許しを与えさえすれば。
 地獄などではなく、天国へと行ける。君は清らかな天使に戻ったのだと、彼女の墓前に報告する事ができる。

 パウロは、迷うことなく断言した。

「許されざる罪を犯したのは、妻の方である」

 愕然とした。
 耳を疑わずにはいられなかった。

「――何故だ……!?」

 問いかけは、掠れた叫びになる。意識して話していた敬語も、忘れていた。
 悲痛な色合いに気付きもしないのか、パウロは平然とした調子を崩さない。

「自殺は、最も忌むべき行為です」
「それは――しかし、それは夫を思いやるがため。彼女にそれ以外の罪はなく、信心深く、清らかな女性だった。あれ程までに忠実なる神のしもべは、他にはいないだろう。何より、隣人のために死ねるのは究極の愛であると、神の子イエスは説いているはずだ」

 焦燥感に駆られて並べ立てる言葉に、パウロは首を左右する。

「それでも、自ら命を絶つのはいけない。妻たる女性が、あなたの言うように清らかであればある程」
「――どういう意味だ」
「清らかな者の命は、罪深き者のそれよりも価値がある」

 ルキウスの口調がぞんざいなことにも気付かないのか、パウロははっきりと言い切った。神の元に民は皆平等だと、宣言したばかりのその口で。

「ならば、夫たる女の罪はどうなる」
「彼女も罪深き罪人であることに変わりはない。けれど、今からでも悔い改めることができる。――現に、この私も」

 そこで言葉を区切り、パウロは自分の胸に手を当てた。

「私も昔は、イエスとその信者を迫害していた。けれど真理を悟り、主に懺悔して許されたのだ」

 おぉ、という感嘆の声が、民衆の間で湧き起こる。
 ルキウスは、吐き気すら感じていた。
 どのような罪を犯しても、懺悔さえすれば許されるという途方もない甘え。
 その上、他者を犠牲にしても自らを救おうとする、下衆な偽善者ども――。

 ここにいる者達は、本当にオクタヴィアと同じ神を信じているのだろうか。
 彼女の清らかさと比べて、なんという腹黒さなのだろう。

「生きていれば、主に懺悔することができる。だが、死の瞬間に罪を犯した者は、それを拭う術を持っていないのだ」

 パウロの言葉はルキウスに対してではなく、聴衆への警告に変わっていた。
 彼の主張が、ルキウスの理性を薄れさせていく。宗教的にも、また、法律的にも反逆者であるパウロ。
 自分が助かりたいばかりに、天国へ行きたいがためだけに、罪なきオクタヴィアを辱めた。――地獄へと、叩き落とした。

「ならばあなたの行く先は天国か。そして、悔い改めた夫たる女も」

 問いかけを、感動からくるものと受け取ったのか。
 どのような罪人も考えを改め、主に仕えさえすれば幸せになれると、安堵したとでも思ったのか。
 パウロは妙に優しい笑顔で頷いた。

 もう、我慢できなかった。
 フードをとり、マントを投げ捨てる。

「私は悔い改めたりしない」

 凛と響き渡る声は、民衆を驚かせるには充分だったらしい。皆が一斉に、ルキウスを注目する。

 オクタヴィアが信じた神は、彼女を見捨てた。
 あれ程までに信じ、教えを忠実に守り続けた彼女の、ただ一度の過ちすら許さなかった。

 どうしようもないやるせなさと、強い怒りに我を忘れていた。
 顔を表せば、正体に気付く者が出てくるだろう。聞かせた「例え話」が、事実であると――皇帝ネロがその夫たる女だと悟る者もいるかもしれない。
 それさえ、気にならなかった。

「今のあなたの判断は、神の意思と受け取った。――相違ないな?」

 パウロの表情は、如実に恐怖を物語っていた。けれど信者達の手前、逃げることはできない。
 そうとわかっていて、ルキウスは追いつめる。

「そのせいで、あなたは苦しむことになる。あなただけではない。ここにいる全ての民――いや、世界中に散らばるクリストゥス信仰者、全員が、あなたの不用意な一言のせいで」

 オクタヴィアの苦痛を、返してやる。負わずにすんだはずの彼女の罪を、お前達が背負えばいい。

 自分自身への不甲斐なさ、怒り、憎しみさえもパウロ達クリストゥス者に――その神ヤハウェに、押し付けたかったのかもしれない。
 オクタヴィアを見捨てた、神に。

 否、もう神などと呼ぶことはできない。信者を見捨てる神の存在など、許せるはずもなかった。

「私はこれより神になる」

 即位当初から新しき神と呼ばれ、その都度否定をし続けてきた。自分は神などではない、愚かな一人の人間にすぎない、と。
 その思いは今でも変わらない。

 ――けれど。
 オクタヴィアの信じた神が彼女を救ってくれないのならば、私が救う。
 私が神となって、彼女に許しを与えよう。
 そして、天国への扉を開いて、導こう。
 彼女の罪は、もともと私のものだった。私は己の犯した罪を抱いて、地獄へと落ちよう。その罰を甘んじて受けることこそが、私の使命なのだから。

 この場で、自ら神を名乗るのは、ヤハウェに対する冒涜に他ならない。だからこその、宣言だった。

 だがそれは、皇帝と打ち明けたに等しかった。
 パウロは目を見開き、同時に、瞳に宿していた怯えの色を納得へと変える。
 底知れぬものへの恐怖が、理解できるものへと変更したせいだろうか。戦慄から憤然へと表情を変えて、ルキウスを睨みつけていた。

 辺りが騒然とし始める。
 喧騒など、気にならなかった。ルキウスはパウロに背を向けると、出口へと向かって歩き始める。
 民衆は驚きつつ、ルキウスの通る道を作るように左右へと別れた。暴言を吐いた者の前に立ちはだかろうとする者は、誰一人としていない。

 ――まるでモーゼの十戒だな。

 先程パウロの説教に出てきた話を思い出し、皮肉な笑みが口元に滲む。

「――皇帝カエサルネロよ」

 ルキウスの手が扉にかかった時、パウロが呼びかけてくる。
 振り返りはしない。ただ、手と足を止めるだけだ。

「私からも、警告が一つだけあります。あなたの、神に対する冒涜は、必ずあなたご自身に跳ね返るでしょう。くれぐれも火にはお気を付けください。炎が、あなたを滅ぼさんと攻めてくるでしょう」

 炎。
 その単語が思い出させたのは、地獄の業火だった。

 ふと、息を吐き出す。笑声とも溜め息とも、自分でも判別できなかった。
 顔だけで、わずかに振り返る。

「ユダヤ人お得意の大予言か?」

 肩越しの声に、嘲笑を含ませる。

「警告、感謝する」

 当たるとも思えないがな。
 皮肉を残し、ルキウスはこの場を後にした。
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