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四粒目 結縁花 ~『恋は思案の外』の巻~

その十 種核は、その思いとともに天界へ帰る!

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「わかっていますよ。今夜、月季庭園に行って、必ず種核を天に返します!」

 あの白い薔薇は、天空花園から落ちた種から育ったものに違いない。
 今回は、まだ、さほど悪さを働いてはいない。むしろ、幸せを運んできてくれたかも……。
 それでも、天へ返さなければ! 誰かが欲に囚われて花の使い方を間違える前に、人間界から消してやるのが、わたしの務めなのだから――。

 この宿に泊まったのもそのためだ。
 ここからなら、時間をかけずに月季庭園まで歩いて行くことができる。

「まだまだ、時間がありますからね。今のうちに一寝入りして、霊力を蓄えることにしましょう!」
「また、寝るのか? まあ良いが、うっかり寝過ごすでないぞ、深緑シェンリュ!」
「はいはい」

 ――とは言ったものの、やっぱり寝過ごした……。
 シャ先生に起こされて、眠い目をこすりながら、わたしは宿の部屋を出た。
 夜の帳が下り、昼間の喧騒が嘘のように静まりかえった繁華街を抜け、月明かりを頼りに急ぎ足で月季庭園へ向かう。
 
 庭園の中は、無人だった。
 月明かりの下の薔薇というのも一見の価値があると思うが、今夜はありがたいことに、そんな風流な御仁ごじんは、お見えになっていないようだ。
 これなら、誰にも邪魔されずに、思う存分務めを果たすことができる。

 庭園の小道を駆け抜け木戸の前へ来ると、わたしはひょいと足をかけ、それを一瞬で飛び越えた。うん! 今夜も霊力は万全よ!
 懐から柄杓を取り出し、作業小屋の横の白い薔薇の前に立つ。
 今日咲いた花は散ったようだが、新しい蕾が白味を帯びてしっかり膨らんでいる。

 軽く振り上げれば、柄杓はいつものように大きくなり、振り下ろすと同時に、溢れた金色の天水が薔薇に降りかかった。
 萌葱色の炎が静かに、薔薇の木を包む。

 いつものような悲痛な叫びは、聞こえてこない。
 薔薇の木は、いかにも満足した様子で、炎の揺らめきに身を任せているように見える。
 なぜ、怖がらないの? もしかして、あなたは天へ戻されることを待っていたの?
 不思議な気持ちで薔薇の木に目をやりながら、わたしは、柄杓を頭上に掲げ、種核を天へ返すために祈りの言葉を唱えた。

「かい・ちょう・かん・ぎょう・ひつ・ほ・ひょう! なれ、天の庭のものならば、天の庭へ!」

 株元が眩しい光に包まれ、小さな種核が、天からの迎えを待つように明るく輝いた。
 夜空に鮮やかに浮かび上がったのは、七つの星。
 その四番目の星、天権が優しく輝き、薔薇の種核と天権は光の糸で結ばれた。
 光の糸に導かれ,種核は天権に向かってなめらかに上昇を始めた。

 いつもとは違う寂しさを感じながら、種核の上昇を見つめていると、いつの間にか、雅文ヤーウェンがわたしの隣に立っていた。
 種核が天権に迎え入れられ、七つ星が消え去ると、雅文はしみじみと話し出した。

雪莉シュエリー様の母上は、実は、紫微城で天帝様にお仕えする天女だったのですよ。雪莉様が幼い頃に、船遊びに出かけた寿春湖で行方知れずになり、湖に落ちて亡くなったとされているようですが、実は天界へ戻っていたのです」
「し、紫微城の天女が、げ、下天して、子を産んでいたの?!」
「ええ。紫微城には、天帝様お気に入りの小さな薔薇園がありまして、彼女は、そこの庭番をしている天女だそうです。人間界にも美しい薔薇園があることを知って、月季庭園へ下りてきたようです。
お若い頃の県令様とそこで出会って、まあ、互いに恋情を感じて、お邸で暮らすことになりました。身分も出自もはっきりしませんから、正式な奥様ではなかったのかもしれません。
ほどなく雪莉様がお生まれになって、幸せに暮らしていたようです。しかし、代わりを務める天女がいなくて、薔薇園が荒れ始めたので、天帝様がお怒りになって、彼女を天界へ呼び戻されたのです」
「雪莉様もその天女さんもお可哀想に――。天帝様のご命令は、絶対だものね……」

 天帝様の怒りの矛先が、雪莉様に向けられることを恐れたのに違いない。
 大人しくご命令に従い、幼い雪莉様を人間界に残して、天女は泣く泣く天界へ戻ったのだろう。
 きっと、天界で暮らすようになってからも、雪莉様のことを案じていたはずよね――。

「たった今、深緑が天へ返した種核ですが、つい最近、紫微城の薔薇園から天空花園へ貸し出された、鉢植えの薔薇の木から落ちた種なのです。薔薇園を世話する天女が、特に手をかけて育てていた花だそうですよ」
「えっ? つまり、雪莉様の母親である天女が大切に育てた薔薇が、わたしのしくじりで種を人間界に落としたけれど、そこから育った花のおかげで、雪莉様が幸福を掴んだってこと? 偶然にしては、なんだかできすぎた話だわね?」

 雅文は、口をすぼめて目を見開き、ちょっと意外そうな顔でわたしを見た。

「おや、お子ちゃま深緑にしては、珍しく察しがいいですね! わたしが考えるにはですね、おそらく天女の思いを汲んだ薔薇が、あなたのしくじりを利用して雪莉様を助けようと、自らすすんで種を落としたのではないかと――。偶然なんかじゃなくてね」

 わたしは、種核が消えた空を見上げた。今は、月が涼しげに輝くばかりだ。
 そうか……、だから、あんなに素直に天界へ戻っていったのね。目的を果たして、もう一度、天女に会える場所へ帰ろうとしていたんだ……。
 庭番の天女なのに、わたしったら、うまいこと花に利用されちゃったのね……。
 フウッと大きな溜息をついたら、虫籠から夏先生が顔を出した。
 
「なんじゃ、落ち込んでいるのか、深緑? フォッ、フォッ、フォッ! 利用されたなどと思う必要はないぞ! おぬしは、あの白い薔薇の計画に力を貸し、雪莉どのを幸せにする手伝いをしたのさ。あの薔薇は、おぬしに感謝こそすれ、馬鹿にしたりはしておらんよ」
「老夏……」

 優しい言葉をかけてくれた夏先生に、感謝の気持ちを込めて抱きつきたかったけれど、ギュッと握っただけで潰してしまいそうだったので我慢した。
 こんなときは、夏先生が蛙でなければ良かったのに――と思う。

「さて、わたしは、仕事もすんだので、これで天界へ戻ります。惚れ薬の件では、ちょっとやり過ぎて迷惑をかけましたが、まあ、いろいろと上手くいったようですから、それで許してください」
「ちょっと待って、仕事って――、雅文はわたしと話をしに来ただけじゃないの?」
「ちょっと気にくわない方がおりましたので、お灸を据えに来たのです。女人に触れると一日中しゃっくりが止まらなくなるという、特別なお薬を飲ませておきました。あの丸薬は、十年ぐらいはお腹にとどまり、よく効くと思います。都へお戻りになる途中で、早速苦労されることでしょう。では、深緑、また会いましょう!」
「えっ? 気にくわないお方っていうのは――」

 あーあ、また、逃げるように消えてしまった。ふわっと、薔薇の茂みに飛び込んだと思ったら、もう雅文はいなかった。
 惚れ薬とか、しゃっくりが止まらなくなる薬とか、ちゃんと紅姫ホンチェン様の許しを得て持ち出しているのかしら?
 人の心配より、自分の心配をしなさいよ、雅文!
 大事な朋友を失うなんて、絶対に嫌ですからね!

 わたしは、一刻も早く宿屋へ戻ろうと、夜道を急いだ。
 夜明けまではまだ間がある。わたしの帰りを待っている宿屋の寝台に、早く飛び込まなくちゃね! 今夜は、最高に素敵な夢が見られそうな気がするわ!

 ◇ ◇ ◇

 船は、ゆっくりと鐘陽チョンヤンの船着き場を離れた。
 寿春湖を渡り、次の町を目指して、わたしたちは旅に出た。
 思阿さんとわたしは並んで、船縁から朝日に煌めく寿春湖の湖面を見つめていた。

「思阿さん、わたし、雪莉様が、なんと言って永庭ヨンティンさんに白い薔薇の枝を渡したか、わかったかもしれません……」
「えっ? 本当ですか?」
「ええ。たぶん、雪莉様は――、

『手入れをした花が美しく咲くのを見て、幸せそうな顔をするあなたを見ることが、わたしの幸せだったの。どんなに素晴らしい花園も、あなたの笑顔がなければ、わたしには意味がない。
あなたがいる所が、わたしの居場所なの。あなたの笑顔が、わたしを笑顔にするの。だから、どうかいつまでも、わたしをあなたのそばにいさせて――』

って、言ったのではないかしら? どうですか、思阿さん?」

 思阿さんが、驚いた顔でわたしを見ていた。わたしの想像、当たっちゃったかしら――。
 そして、コホンと小さな咳払いをしたあと、思阿さんはとても真剣な顔をした。

「どうかいつまでも、俺のそばにいてください。何があっても、あなたが笑顔で過ごせるように、俺が全力で、あなたの幸せも居場所も守りますから――。あなたなしで、生きていくことなど考えられません。あなたのことを何よりも大切に思っています……愛しています……。
――と言って、永庭さんは花を受け取りました……」

 はにかみながら、最後はわたしから視線をそらして湖面に顔を向け、さざ波に呼びかけるように思阿さんは言った。
 そうだったのね……。白い薔薇の力を借りて、永庭さんたら、とうとう自分の気持ちを正直に伝えたのね……。良かった……。
 ん? でも、今の言葉って、ちょっと変じゃない?!

「ねえねえ、思阿さん! 永庭さんは、自分のことを『俺』なんて言わないですよ。いつも『わたし』って言ってましたよ。『俺』って言っているのは――。えっ?! シ、思阿さーん!」

 思阿さんは、ひどく慌てて船の舳先の方へ走っていってしまった。
 激しく咳き込っみながら、しゃがみ込んだご老人の背中を一生懸命さすっている……。
 ああ、もう! 思阿さんたら……。
 はいはい、これは、わたしの薬水の出番ですね! この深緑にお任せくださいませ、ご老人!
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