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第四章 嵐の最中
38.婚約者は魅了に堕ちた
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「傷ついた? でもこれが本来あるべき姿なの。あんたが勝手に変えただけ。
わたしから盗んだもので甘い夢をみられたんだから、むしろ感謝してほしいわ」
二コラがあざ笑う。勝ち誇って、見下して。
正直なところ、今すぐにでも強力な結界を張って、弾き飛ばしてやりたい気分だった。
ラスムスとリヴシェは、それぞれ自分の周りに最も強力な結界を張っていた。でも砦全体の結界は、ヴィシェフラドの最上級魔術師の手によるものだ。それを破るとは、月の皇子の力を侮っていたと思う。けどリヴシェが張り直せば、おそらく彼でも破れない。
ということは……。
「あなたはカビーア皇子に捨てられたのね」
結界の内に取り残された二コラを、ヴァラートが助け出すことはできない。というより最初からそのつもりはないんだろう。
ラーシュを魅了してリヴシェに精神的ダメージを与えること。
できれば戦力として使えない程度に、ショックを受けてくれれば良い。
おそらくミッションはそんなとこか。
「ここから無事に出られるとでも?」
表情を変えないように意識する。表情筋に力を入れておかないと、つい素の感情が出てしまいそうだ。
「は……っ。
あんたは知らないでしょうけど、カビーア様はわたしを大事にしてくれてるわ。わたしのスキルを評価してくれてるの。
きっと助け出してやるから、安心して良いって」
ふふんと得意げな笑みが、美しい顔を下卑て見せる。
月の皇子カビーアは曲者だ。前世を含めても関わった男性のほとんどないリヴシェにだって、そのくらいわかるのに。
その曲者が助けてくれると、本気で信じているんだろうか。
「それにね……」
またも挑発するような笑いを浮かべて、二コラはピンク色に染めた唇の片端を上げる。
「ラーシュはもうわたしに夢中なの。ラーシュがついてる限り、わたしが害されることはないでしょう?
たとえあんたが女王でも、ラチェスの関係者に手は出せないわ。
王家なんてラチェスより下なんだから」
上とか下とかって、マウントでも取りたいのだろうか。
こういう考えには前世でも馴染めなかった。できるだけ関わりになりたくないタイプの女だ。
「ねえ、ラーシュ。そうでしょう?
あなたはわたしが好きなのよね?」
ぼんやりと焦点の定まらない目をしたラーシュの腕を、二コラは強く掴む。
「はっきり言ってやって。あなたが今、誰を大切に思っているのか」
「僕が……誰を大切に思うのか……」
頭をしきりに振って、ラーシュは何かに抗う様子を見せる。いくらか正気が残っているのか。
「ラーシュ、ほら早く。わたしでしょう? わたしのことが一番大事なんでしょ?」
二コラの手がラーシュの頬に触れると、ラーシュの抵抗が止んだ。ぼんやりと靄のかかった青い目が、リヴシェを睨みつける。
「僕は二コラを選ぶ。二コラは僕を愛してくれるからね。
君とは違う」
魅了の影響だとわかっていても、何度も繰り返されればリヴシェだって傷つく。
そこらへんにあるものを、手当たり次第に投げつけてやりたくなった。
(ええ、けっこうですとも。婚約解消しましょう)
口に出すのだけは、なんとか抑えた。言えば二コラの思うツボだ。
二コラの背後にいるカビーア皇子の、その思惑どおりになんて絶対になってやるものか。
「僕の前から消えてくれ。君の顔、見るのも嫌だからね」
黙っていれば言いたい放題言ってくれる。さすがに堪忍袋の緒が切れたと口を開きかけた瞬間。
「ほう……。それはありがたいことだな」
黒狼に姿を変えたラスムスの、しっとり艶のある声が響いた。
「今度はこの男か。忙しいことだな」
音もなく二コラに近づくと、薄い青の瞳が二コラを見上げた。
「なっ、何よ、この獣しゃべってるの?」
青くなっているところを見ると、二コラはラスムスの本性を知らないらしい。
「無礼な女と聞いてはいたが、これほど愚かであったとは。我が父も趣味の悪い」
獣呼ばわりがお気に召さなかったらしい。不機嫌な口調に気づいて、リヴシェは思わず口元が緩みかける。先ほどまでの怒りがゆっくりと融けて、高波が押し寄せていた心に平静が戻ってくるようだ。
「リーヴ、まずこのクソ女を片付ける。それで良いな?」
片付けるとは物騒なことを。まさか命まで取らないだろうけど。一応念を押しておくか。
「何か知ってるかもしれません。捕らえるだけにしてくださいね」
リヴシェの様子から二コラも黒狼の正体に気づいたらしい。えっとかまさかとか言いながら、こわごわと「獣」を見下ろして。
「まさかこの獣、ラスムス? そんなの嘘。そんなこと書いてなかった」
ここで「書いてなかった」は禁句でしょう。それだけ動揺しているんだろうけど、二コラの狼狽ぶりを見ていると、月の皇子の人選感覚も大したことないなと思えてしまう。
「ラスムスなの?」
でも即座に切り替えるあたりは、ある意味すごい。甘い声で呼びかけて、うるるんとした緑の瞳で獣を見つめている。
「わたし、知らなくて。ごめんなさい。あなたにこんな秘密があったなんて」
ごめんなさいともう一度言いながら、二コラはラスムスの頭に手を伸ばした。
そっと掌で撫でる。
「ラスムス、あなたのことがずっと気になってい……」
二コラの言葉は最後まで音にならなかった。
ぎゃっと、みっともない悲鳴がかわりに上がる。
白い右腕には、大きな噛み傷があった。
「我に触れるとは、良い度胸だ。次はその腕、失せると思え」
「ど……うして?」
痛みと恐怖に怯えながら、二コラは叫ぶように聞いた。
「どうしてこんなひどいこと」
魅了に限らず、月の皇子から渡された精神操作の力が、ラスムスに効くはずがない。
術者より上の力を持つ者には効かない。月の皇子カビーアの力では、ラスムスやリヴシェの精神に干渉することは不可能だ。
だからこそカビーアはラーシュを狙わせた。
二コラはまだ気づかない。ラスムスを魅了できると信じていたようだ。
「リーヴ、本当にこのクソ女を始末しなくて良いのか。俺は始末したいのだが」
「ダメです」
ぴしりと言い渡すと、いかにも不承不承の様子で「仕方ない」と聞いてくれる。
「治療はするな」
二コラの腕の傷のことだ。けっこうな出血だから、止血くらいはしておいた方が良いのではと言いかけると、即座に首を振られた。
「精神干渉は禁忌の術だ。女神も慈悲をたれまいよ」
ラスムスが放った金色の粒子は、二コラの頭上で輝く糸に変わった。キラキラと輝きながら二コラの身体を覆い、その身体を縛り上げてゆく。
「いっ……たい!」
傷のある右腕にも容赦なく糸は巻き付いて、ぎゅうぎゅうと縛りあげてゆく。
あれは痛そうだ。
「カビーア様がおいでになったら、ただではすまさないから!
リヴシェ! おぼえときなさいよ!」
ついに呼び捨てになった。ことここに至ってまだ捨て台詞が吐けるのは、女主人公は死なないと信じているからだろうけど。
リヴシェはといえば、できるだけ突き放して考えようと努力したおかげで、感情のまま取り返しのつかない言葉を吐かずに済んだ。
みっともなく取り乱してはいない。
けれど心の芯に、極悪の毒矢を撃ち込まれていた。その矢傷は、時間の経過とともにひどくなっている。
忌々しいが、二コラのミッションは1つだけ成功したようだ。
二コラを選ぶと言ったラーシュを、リヴシェは気持ち悪いと思った。
魅了の力に抗えなかったとしても、二コラを腕に抱いたラーシュを汚らわしいと思う。
「リーヴ、そいつをヴァラートに盗られたままにはしておけない。
わかるな?」
ラスムスはこんな時でも、とても正しい。
個人的な感情を持ち込んで、砦中を危険にさらすわけにはゆかない。
ひとつ大きく息をついて、リヴシェはラーシュの金色の頭に指を伸ばした。
白い光が放たれてラーシュを包む。黒い靄が滲みだして床を這い、やがてそれがすべて浄化されると、くたりと膝をついてラーシュは倒れた。
気を失っている。
「寝台へ運んであげて」
ラチェスの騎士に言い置くと、ラスムスと共に部屋を出る。
一度も振り返らなかった。
わたしから盗んだもので甘い夢をみられたんだから、むしろ感謝してほしいわ」
二コラがあざ笑う。勝ち誇って、見下して。
正直なところ、今すぐにでも強力な結界を張って、弾き飛ばしてやりたい気分だった。
ラスムスとリヴシェは、それぞれ自分の周りに最も強力な結界を張っていた。でも砦全体の結界は、ヴィシェフラドの最上級魔術師の手によるものだ。それを破るとは、月の皇子の力を侮っていたと思う。けどリヴシェが張り直せば、おそらく彼でも破れない。
ということは……。
「あなたはカビーア皇子に捨てられたのね」
結界の内に取り残された二コラを、ヴァラートが助け出すことはできない。というより最初からそのつもりはないんだろう。
ラーシュを魅了してリヴシェに精神的ダメージを与えること。
できれば戦力として使えない程度に、ショックを受けてくれれば良い。
おそらくミッションはそんなとこか。
「ここから無事に出られるとでも?」
表情を変えないように意識する。表情筋に力を入れておかないと、つい素の感情が出てしまいそうだ。
「は……っ。
あんたは知らないでしょうけど、カビーア様はわたしを大事にしてくれてるわ。わたしのスキルを評価してくれてるの。
きっと助け出してやるから、安心して良いって」
ふふんと得意げな笑みが、美しい顔を下卑て見せる。
月の皇子カビーアは曲者だ。前世を含めても関わった男性のほとんどないリヴシェにだって、そのくらいわかるのに。
その曲者が助けてくれると、本気で信じているんだろうか。
「それにね……」
またも挑発するような笑いを浮かべて、二コラはピンク色に染めた唇の片端を上げる。
「ラーシュはもうわたしに夢中なの。ラーシュがついてる限り、わたしが害されることはないでしょう?
たとえあんたが女王でも、ラチェスの関係者に手は出せないわ。
王家なんてラチェスより下なんだから」
上とか下とかって、マウントでも取りたいのだろうか。
こういう考えには前世でも馴染めなかった。できるだけ関わりになりたくないタイプの女だ。
「ねえ、ラーシュ。そうでしょう?
あなたはわたしが好きなのよね?」
ぼんやりと焦点の定まらない目をしたラーシュの腕を、二コラは強く掴む。
「はっきり言ってやって。あなたが今、誰を大切に思っているのか」
「僕が……誰を大切に思うのか……」
頭をしきりに振って、ラーシュは何かに抗う様子を見せる。いくらか正気が残っているのか。
「ラーシュ、ほら早く。わたしでしょう? わたしのことが一番大事なんでしょ?」
二コラの手がラーシュの頬に触れると、ラーシュの抵抗が止んだ。ぼんやりと靄のかかった青い目が、リヴシェを睨みつける。
「僕は二コラを選ぶ。二コラは僕を愛してくれるからね。
君とは違う」
魅了の影響だとわかっていても、何度も繰り返されればリヴシェだって傷つく。
そこらへんにあるものを、手当たり次第に投げつけてやりたくなった。
(ええ、けっこうですとも。婚約解消しましょう)
口に出すのだけは、なんとか抑えた。言えば二コラの思うツボだ。
二コラの背後にいるカビーア皇子の、その思惑どおりになんて絶対になってやるものか。
「僕の前から消えてくれ。君の顔、見るのも嫌だからね」
黙っていれば言いたい放題言ってくれる。さすがに堪忍袋の緒が切れたと口を開きかけた瞬間。
「ほう……。それはありがたいことだな」
黒狼に姿を変えたラスムスの、しっとり艶のある声が響いた。
「今度はこの男か。忙しいことだな」
音もなく二コラに近づくと、薄い青の瞳が二コラを見上げた。
「なっ、何よ、この獣しゃべってるの?」
青くなっているところを見ると、二コラはラスムスの本性を知らないらしい。
「無礼な女と聞いてはいたが、これほど愚かであったとは。我が父も趣味の悪い」
獣呼ばわりがお気に召さなかったらしい。不機嫌な口調に気づいて、リヴシェは思わず口元が緩みかける。先ほどまでの怒りがゆっくりと融けて、高波が押し寄せていた心に平静が戻ってくるようだ。
「リーヴ、まずこのクソ女を片付ける。それで良いな?」
片付けるとは物騒なことを。まさか命まで取らないだろうけど。一応念を押しておくか。
「何か知ってるかもしれません。捕らえるだけにしてくださいね」
リヴシェの様子から二コラも黒狼の正体に気づいたらしい。えっとかまさかとか言いながら、こわごわと「獣」を見下ろして。
「まさかこの獣、ラスムス? そんなの嘘。そんなこと書いてなかった」
ここで「書いてなかった」は禁句でしょう。それだけ動揺しているんだろうけど、二コラの狼狽ぶりを見ていると、月の皇子の人選感覚も大したことないなと思えてしまう。
「ラスムスなの?」
でも即座に切り替えるあたりは、ある意味すごい。甘い声で呼びかけて、うるるんとした緑の瞳で獣を見つめている。
「わたし、知らなくて。ごめんなさい。あなたにこんな秘密があったなんて」
ごめんなさいともう一度言いながら、二コラはラスムスの頭に手を伸ばした。
そっと掌で撫でる。
「ラスムス、あなたのことがずっと気になってい……」
二コラの言葉は最後まで音にならなかった。
ぎゃっと、みっともない悲鳴がかわりに上がる。
白い右腕には、大きな噛み傷があった。
「我に触れるとは、良い度胸だ。次はその腕、失せると思え」
「ど……うして?」
痛みと恐怖に怯えながら、二コラは叫ぶように聞いた。
「どうしてこんなひどいこと」
魅了に限らず、月の皇子から渡された精神操作の力が、ラスムスに効くはずがない。
術者より上の力を持つ者には効かない。月の皇子カビーアの力では、ラスムスやリヴシェの精神に干渉することは不可能だ。
だからこそカビーアはラーシュを狙わせた。
二コラはまだ気づかない。ラスムスを魅了できると信じていたようだ。
「リーヴ、本当にこのクソ女を始末しなくて良いのか。俺は始末したいのだが」
「ダメです」
ぴしりと言い渡すと、いかにも不承不承の様子で「仕方ない」と聞いてくれる。
「治療はするな」
二コラの腕の傷のことだ。けっこうな出血だから、止血くらいはしておいた方が良いのではと言いかけると、即座に首を振られた。
「精神干渉は禁忌の術だ。女神も慈悲をたれまいよ」
ラスムスが放った金色の粒子は、二コラの頭上で輝く糸に変わった。キラキラと輝きながら二コラの身体を覆い、その身体を縛り上げてゆく。
「いっ……たい!」
傷のある右腕にも容赦なく糸は巻き付いて、ぎゅうぎゅうと縛りあげてゆく。
あれは痛そうだ。
「カビーア様がおいでになったら、ただではすまさないから!
リヴシェ! おぼえときなさいよ!」
ついに呼び捨てになった。ことここに至ってまだ捨て台詞が吐けるのは、女主人公は死なないと信じているからだろうけど。
リヴシェはといえば、できるだけ突き放して考えようと努力したおかげで、感情のまま取り返しのつかない言葉を吐かずに済んだ。
みっともなく取り乱してはいない。
けれど心の芯に、極悪の毒矢を撃ち込まれていた。その矢傷は、時間の経過とともにひどくなっている。
忌々しいが、二コラのミッションは1つだけ成功したようだ。
二コラを選ぶと言ったラーシュを、リヴシェは気持ち悪いと思った。
魅了の力に抗えなかったとしても、二コラを腕に抱いたラーシュを汚らわしいと思う。
「リーヴ、そいつをヴァラートに盗られたままにはしておけない。
わかるな?」
ラスムスはこんな時でも、とても正しい。
個人的な感情を持ち込んで、砦中を危険にさらすわけにはゆかない。
ひとつ大きく息をついて、リヴシェはラーシュの金色の頭に指を伸ばした。
白い光が放たれてラーシュを包む。黒い靄が滲みだして床を這い、やがてそれがすべて浄化されると、くたりと膝をついてラーシュは倒れた。
気を失っている。
「寝台へ運んであげて」
ラチェスの騎士に言い置くと、ラスムスと共に部屋を出る。
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