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第四章 嵐の最中
39.婚約者はやつれていた
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砦に新しい結界を張った。
ラスムスとリヴシェの二人がかりでだから、おそらく無敵の結界だ。さすがのカビーア皇子もこれをすり抜けることはできない。
つまりヴァラートは手詰まりになるはずで、そうなると長期の遠征は費用ばかりかさんで得るものはない。
そもそもノルデンフェルト皇帝が出張って来た時点で、勝敗の行方はある程度見えなければならないのに。
故郷から遠く離れた騎士たちの心身の不調も、そろそろ気になる頃だろう。
上陸さえできず、わずかにかなったのは砦へ二コラを送り込んだこと。
事実だけ並べると、大軍を動かしてネズミ一匹捕まえられなかったことになる。
「ヴァラート皇帝がバカでない限り、撤退命令を出すだろうよ」
これ以上ここにいても無駄だと、ラスムスは吐き捨てる。
「けれどまだカビーア皇子が姿を見せていませんね」
リヴシェは最近覚えた珈琲を口にしながら、あの月の皇子が黙って去るだろうかと思案していた。
カビーア皇子が仕掛けた二コラは捕縛して、現在砦の地下牢にいる。二コラは必ず助けがくると言い張っているけど、そんな甘い男ではないと思う。
使い捨ての道具がどうなろうと、少しも気にしないのではないか。また新しい道具を用意して何か仕掛けてくるか、いよいよとなれば本人自らがたちの悪い罠とともに現れるのか。
「出てくるだろうな。だが心配するな。
何があってもリーヴは俺が護る。ノルデンフェルトの黒狼皇帝を護衛に持てるのは、リーヴ、お前だけだ」
どきんと、リヴシェの心臓が跳ねた。
ラーシュの魅了で弱っている心には、刺激が強すぎる。
氷のような薄い青の瞳が優しくて甘い。
「か……感謝いたします。それはなにより心強く……」
つっかえながらも、なんとか当たり障りのない言葉で返す。
これまでより少しだけ素直になったなぁと、自分の変化に多少の自覚はあった。
悪役王女の断罪処刑を回避して、リヴシェを幸せにしてやりたい。だから小説の主要人物、特に男主人公ラスムスと女主人公二コラとはできる限りの距離を取った。二人の邪魔はしないように、なんならラスムスと二コラがひっつく応援すらしてきたのだ。
ところがあの女主人公二コラも転生者で、しかもかなり根性のひん曲がった女だったとなれば、ラスムスやラーシュが惹かれなくとも仕方ない。惹かれるどころか、ラスムスにいたっては、クソ女呼ばわりまでしていたんだから。
小説のストーリーと大幅に変わってしまった現在について、二コラはリヴシェのせいだと言った。
でも本当にそうなんだろうか。確かにリヴシェが変えたこともある。例えば二コラを虐めなかったし、母王妃の病死も回避した。
けれど寵力がリヴシェに発現したことや、ラスムスの本性が黒狼でリヴシェを番と認識したこと、ヴァラートの侵攻、こんなことまでリヴシェに関与できるはずもない。
そこで思うのだ。
元は「失われた王国」の設定どおりだったのかもしれないけど、今は違うんじゃないかと。
だってここは現実だ。刺されれば血が出るし、傷つけば痛い。
現実なんだから、どう行動するかで未来が変わるのって当然じゃないか。
ただラスムスが二コラとひっつく前提が崩れたとしても、だからといって急にリヴシェが恋に落ちるわけではない。
そもそもリヴシェはそういう感情に疎いし、もっといえば面倒くさいとすら思っている。ひじょーに少ない回数ではあるが、リヴシェにも前世お付き合いしたことがあって、相手に合わせて時間をとったり趣味を合わせたり喜んでみせたりと、自分じゃない自分を演出するのにとても疲れた。
だからもうごちそうさまの気分なのだ。振り回されて疲れるだけのあれが恋なら、もう良い。
もっと穏やかに、平和に日々を過ごしたい。それこそが幸せだと思うんだけど。
「ラーシュ様がおいでです」
ラスムスの側近が控えめに声をかけた。
リヴシェの執務室は現在ラスムスのそれと共用で、以前なら常時傍にいたラーシュはここにいない。
あれ以来。
そういえばしばらく顔を見ていないなと思う。
「いいわ、通して」
扉が開く。
現れたラーシュの姿に、リヴシェは息を飲んだ。
「両陛下に拝謁いたします」
静かに金色の頭を下げたラーシュは、げっそりとやつれていた。
不健康に青白い肌は乾いて艶がなく、頬はこけている。ジュストコールの肩幅が大きいのか、細くなった身体がその中で泳いでいるようだ。
美貌で知られるラチェスの、中でも一番の美貌と謳われた昔の面影はない。
「ラーシュ……。まだ具合が悪いの?」
痛ましかった。
これが二コラに堕ちた代償だとしても、酷い。
「両陛下には大変なご迷惑をおかけいたしました。無能非才の身、恥じ入るばかりです」
老人のように落ちくぼんだ眼。けれど瞳の色だけは、以前のままだった。海のように美しい青。もう靄はかかっていない。
「気にするな……と言っても無駄だろうが。それでもあえて言う。気にするな。
相手が悪かった」
ラスムスはリヴシェの正面に座っていたから、ラーシュには背を向けたままだ。振り返らないのは、この場合むしろ優しい。
「おまえはラチェスの、事実上の当主だ。さっさとあるべき姿に戻れ」
さらりと続けたラスムスは、片づけねばならないことがあるからと席を立った。
執務室にリヴシェとラーシュ、二人が残される。
気まずい……。
「と……とりあえず、かけて。そこに立ったままでは、落ち着かないから」
長椅子を勧める。ラーシュは大人しく言うことをきいてくれて、顔を伏せたままリヴシェの正面に座った。
「かっ……身体はつらくない?」
最悪だ。どうしてこんなつまらない質問をしたのかと、内心でリヴシェは舌打ちをする。
辛くないはずがない。だってこんなにやつれている。
「ご……ごめんなさい。つらいわよね」
「身体はつらくないよ」
ぼそりと低い声が返る。
「頭は割れるようだし、背中もきしんで関節もガタガタだけど、そんなのどうってことない。
つらいのは……、あの夜僕がしたことだよ」
ちぎれるような声の後、ラーシュは顔を上げた。
「全部夢だったらどんなに良いか。でも夢じゃない」
気にしなくて良いと言いたかったけど、言えない。だってリヴシェもまだ根に持っている。
二コラを選ぶだとか、君よりずっと良いとか言われたのだ。
幼い頃からの婚約者で、激しい恋情とは無縁だけどそれなりに好意の積み重ねはあったし、信頼関係もあったと思う。
それなのに婚約はなかったことにしてほしいと、そう言ったんだから。
なにより嫌だったのは、ラーシュの腕に二コラがいたことだった。寝乱れた髪やガウンの胸元、思い出しても気持ち悪い。
けれどリヴシェは女王で、今はヴァラートとの戦の最中だ。そんな個人的な感情で、冷静さを欠いてはいけない。
ここはしっかり話し合って、当面の仕事に支障が出ないようにしておかないと。
「あ……あれは、カビーア皇子の力よ。わたくしとラーシュの間に楔を打って、仲たがいさせようとしたの。
その策にのっちゃダメだと思う」
「あの男……」
落ちくぼんだ青い瞳が、ぎらりと光る。すごい殺気だ。目の前にカビーアがいれば、掴みかかっているかもしれない。
「いつか縊り殺してやる」
「そんなに痩せてちゃ、縊り殺せないわよ」
一生懸命自然な微笑を作った。普段ならこんな風に笑うだろうと記憶を頼りにして。
眩し気にラーシュは瞬きをする。ふっと、そのこけた頬が緩んだ。
「そ……か。僕は今、あの男に掴みかかることもできないんだね。
かっこ悪いな。できればこんな僕を、君には見せたくなかったんだけど」
二コラのことはとりあえずおいておこう。まだ全然すっきりしていないけど、ラーシュに潰れてもらっては困る。
そうやって仕事のためと言い訳をしながら、病みやつれたラーシュにこれまでにない感情が呼び起こされるのも本当で。
二コラに魅了されたことを心から悔いて、自身を痛めつけているラーシュに、これ以上辛い目にあってほしくないと思う。
なんだろうこれは。同情?
自分の中に起こった気持ちの変化に戸惑いながらも、気づけば両手を伸ばしていた。
かさかさに乾いたラーシュの左手をとる。そして包んだ。
「大丈夫よ。すぐにかっこいいラーシュに戻るわ。
しっかり食べて、しっかり眠って。そしたらすぐだから」
リーヴと小さく呼んだラーシュが、泣きそうな顔をしてこくんと頷いた。
ラスムスとリヴシェの二人がかりでだから、おそらく無敵の結界だ。さすがのカビーア皇子もこれをすり抜けることはできない。
つまりヴァラートは手詰まりになるはずで、そうなると長期の遠征は費用ばかりかさんで得るものはない。
そもそもノルデンフェルト皇帝が出張って来た時点で、勝敗の行方はある程度見えなければならないのに。
故郷から遠く離れた騎士たちの心身の不調も、そろそろ気になる頃だろう。
上陸さえできず、わずかにかなったのは砦へ二コラを送り込んだこと。
事実だけ並べると、大軍を動かしてネズミ一匹捕まえられなかったことになる。
「ヴァラート皇帝がバカでない限り、撤退命令を出すだろうよ」
これ以上ここにいても無駄だと、ラスムスは吐き捨てる。
「けれどまだカビーア皇子が姿を見せていませんね」
リヴシェは最近覚えた珈琲を口にしながら、あの月の皇子が黙って去るだろうかと思案していた。
カビーア皇子が仕掛けた二コラは捕縛して、現在砦の地下牢にいる。二コラは必ず助けがくると言い張っているけど、そんな甘い男ではないと思う。
使い捨ての道具がどうなろうと、少しも気にしないのではないか。また新しい道具を用意して何か仕掛けてくるか、いよいよとなれば本人自らがたちの悪い罠とともに現れるのか。
「出てくるだろうな。だが心配するな。
何があってもリーヴは俺が護る。ノルデンフェルトの黒狼皇帝を護衛に持てるのは、リーヴ、お前だけだ」
どきんと、リヴシェの心臓が跳ねた。
ラーシュの魅了で弱っている心には、刺激が強すぎる。
氷のような薄い青の瞳が優しくて甘い。
「か……感謝いたします。それはなにより心強く……」
つっかえながらも、なんとか当たり障りのない言葉で返す。
これまでより少しだけ素直になったなぁと、自分の変化に多少の自覚はあった。
悪役王女の断罪処刑を回避して、リヴシェを幸せにしてやりたい。だから小説の主要人物、特に男主人公ラスムスと女主人公二コラとはできる限りの距離を取った。二人の邪魔はしないように、なんならラスムスと二コラがひっつく応援すらしてきたのだ。
ところがあの女主人公二コラも転生者で、しかもかなり根性のひん曲がった女だったとなれば、ラスムスやラーシュが惹かれなくとも仕方ない。惹かれるどころか、ラスムスにいたっては、クソ女呼ばわりまでしていたんだから。
小説のストーリーと大幅に変わってしまった現在について、二コラはリヴシェのせいだと言った。
でも本当にそうなんだろうか。確かにリヴシェが変えたこともある。例えば二コラを虐めなかったし、母王妃の病死も回避した。
けれど寵力がリヴシェに発現したことや、ラスムスの本性が黒狼でリヴシェを番と認識したこと、ヴァラートの侵攻、こんなことまでリヴシェに関与できるはずもない。
そこで思うのだ。
元は「失われた王国」の設定どおりだったのかもしれないけど、今は違うんじゃないかと。
だってここは現実だ。刺されれば血が出るし、傷つけば痛い。
現実なんだから、どう行動するかで未来が変わるのって当然じゃないか。
ただラスムスが二コラとひっつく前提が崩れたとしても、だからといって急にリヴシェが恋に落ちるわけではない。
そもそもリヴシェはそういう感情に疎いし、もっといえば面倒くさいとすら思っている。ひじょーに少ない回数ではあるが、リヴシェにも前世お付き合いしたことがあって、相手に合わせて時間をとったり趣味を合わせたり喜んでみせたりと、自分じゃない自分を演出するのにとても疲れた。
だからもうごちそうさまの気分なのだ。振り回されて疲れるだけのあれが恋なら、もう良い。
もっと穏やかに、平和に日々を過ごしたい。それこそが幸せだと思うんだけど。
「ラーシュ様がおいでです」
ラスムスの側近が控えめに声をかけた。
リヴシェの執務室は現在ラスムスのそれと共用で、以前なら常時傍にいたラーシュはここにいない。
あれ以来。
そういえばしばらく顔を見ていないなと思う。
「いいわ、通して」
扉が開く。
現れたラーシュの姿に、リヴシェは息を飲んだ。
「両陛下に拝謁いたします」
静かに金色の頭を下げたラーシュは、げっそりとやつれていた。
不健康に青白い肌は乾いて艶がなく、頬はこけている。ジュストコールの肩幅が大きいのか、細くなった身体がその中で泳いでいるようだ。
美貌で知られるラチェスの、中でも一番の美貌と謳われた昔の面影はない。
「ラーシュ……。まだ具合が悪いの?」
痛ましかった。
これが二コラに堕ちた代償だとしても、酷い。
「両陛下には大変なご迷惑をおかけいたしました。無能非才の身、恥じ入るばかりです」
老人のように落ちくぼんだ眼。けれど瞳の色だけは、以前のままだった。海のように美しい青。もう靄はかかっていない。
「気にするな……と言っても無駄だろうが。それでもあえて言う。気にするな。
相手が悪かった」
ラスムスはリヴシェの正面に座っていたから、ラーシュには背を向けたままだ。振り返らないのは、この場合むしろ優しい。
「おまえはラチェスの、事実上の当主だ。さっさとあるべき姿に戻れ」
さらりと続けたラスムスは、片づけねばならないことがあるからと席を立った。
執務室にリヴシェとラーシュ、二人が残される。
気まずい……。
「と……とりあえず、かけて。そこに立ったままでは、落ち着かないから」
長椅子を勧める。ラーシュは大人しく言うことをきいてくれて、顔を伏せたままリヴシェの正面に座った。
「かっ……身体はつらくない?」
最悪だ。どうしてこんなつまらない質問をしたのかと、内心でリヴシェは舌打ちをする。
辛くないはずがない。だってこんなにやつれている。
「ご……ごめんなさい。つらいわよね」
「身体はつらくないよ」
ぼそりと低い声が返る。
「頭は割れるようだし、背中もきしんで関節もガタガタだけど、そんなのどうってことない。
つらいのは……、あの夜僕がしたことだよ」
ちぎれるような声の後、ラーシュは顔を上げた。
「全部夢だったらどんなに良いか。でも夢じゃない」
気にしなくて良いと言いたかったけど、言えない。だってリヴシェもまだ根に持っている。
二コラを選ぶだとか、君よりずっと良いとか言われたのだ。
幼い頃からの婚約者で、激しい恋情とは無縁だけどそれなりに好意の積み重ねはあったし、信頼関係もあったと思う。
それなのに婚約はなかったことにしてほしいと、そう言ったんだから。
なにより嫌だったのは、ラーシュの腕に二コラがいたことだった。寝乱れた髪やガウンの胸元、思い出しても気持ち悪い。
けれどリヴシェは女王で、今はヴァラートとの戦の最中だ。そんな個人的な感情で、冷静さを欠いてはいけない。
ここはしっかり話し合って、当面の仕事に支障が出ないようにしておかないと。
「あ……あれは、カビーア皇子の力よ。わたくしとラーシュの間に楔を打って、仲たがいさせようとしたの。
その策にのっちゃダメだと思う」
「あの男……」
落ちくぼんだ青い瞳が、ぎらりと光る。すごい殺気だ。目の前にカビーアがいれば、掴みかかっているかもしれない。
「いつか縊り殺してやる」
「そんなに痩せてちゃ、縊り殺せないわよ」
一生懸命自然な微笑を作った。普段ならこんな風に笑うだろうと記憶を頼りにして。
眩し気にラーシュは瞬きをする。ふっと、そのこけた頬が緩んだ。
「そ……か。僕は今、あの男に掴みかかることもできないんだね。
かっこ悪いな。できればこんな僕を、君には見せたくなかったんだけど」
二コラのことはとりあえずおいておこう。まだ全然すっきりしていないけど、ラーシュに潰れてもらっては困る。
そうやって仕事のためと言い訳をしながら、病みやつれたラーシュにこれまでにない感情が呼び起こされるのも本当で。
二コラに魅了されたことを心から悔いて、自身を痛めつけているラーシュに、これ以上辛い目にあってほしくないと思う。
なんだろうこれは。同情?
自分の中に起こった気持ちの変化に戸惑いながらも、気づけば両手を伸ばしていた。
かさかさに乾いたラーシュの左手をとる。そして包んだ。
「大丈夫よ。すぐにかっこいいラーシュに戻るわ。
しっかり食べて、しっかり眠って。そしたらすぐだから」
リーヴと小さく呼んだラーシュが、泣きそうな顔をしてこくんと頷いた。
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