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第三章 暗雲
29.得をするのは誰か
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「これはこれは……。ヴァラート皇帝がわたくしに結婚を。
光栄なことですね」
できるだけ鷹揚に、ゆったりと微笑んで見せた。
いきなり断ってはいけない。まず相手の言い分を受け止めること。冒頭はYesで入れとは、前世の上司によく言われたことだ。
「わたくしには婚約者がいます。
幼い日より相愛の相手で、わたくしには何にも代えがたいほど大切な人なのです。
それも承知の上のことですか?」
かなり盛ったけど、この原稿を見せた時ラーシュは「それで良いよ」と嬉しそうだったから、まあ良いことにする。
幼い日から愛し合っている二人を引き離すの?
そんなひどいことをするの?
と、ジャブを打ってみたわけだ。
「おそれながら陛下が女王にお立ちになった上は、婚姻のお相手には我が兄、ヴァラート皇帝が最適かと存じます」
つまり「知ってるけど、それが何か?」くらいの意味か。
カビーア皇子が言っていることは、悔しいけど正しい。
ヴィシェフラドに昔の威勢がない現在、国を護ろうと思うなら力のある国と組む必要がある。そして組むならより強い相手と。
ヴァラートがわざわざ御大層な新鋭巡洋艦でやってきたのは、「ほらどうだ。うちは強いぞ」と見せつけるつもりだったに違いない。攻撃魔法をあちこちに仕込んだ巡洋艦は、魔力のない者でもS級の魔術師と対等どころか圧倒的に優位な戦闘に持ち込めるのだという。
「まぁ……。いくらなんでも急すぎますね。
わたくしにも考える時間が必要です」
わざとらしく困惑して少しだけ甘い声を出すと、月の皇子は「もちろんですよ」と微笑みながら頷いた。
「ですが陛下。大変申し上げにくいのですが、我が兄、ヴァラートの皇帝は、あまり気の長いほうではありません。
陛下の色よいお返事を、日ごと夜ごとに焦がれる思いで待っておりましょうから。
待ちきれず、こちらへ押しかけることもあるかもしれませんね」
なるほど、キツネだ。
綺麗な優しい顔をして、言ってることはかなり酷い。
「さっさと覚悟を決めなさい。どのみちあなたは逃れられません。
ぐずぐずしていると、我が軍が攻め入ることになりますよ」
意訳すると、そういうことだ。
「あらあら、怖いことを。
ではこの件はまた後日お返事をしましょう。
今宵はお疲れでしょうから、ゆっくりお休みなさい。
明日の夜、お食事を共に。お待ちしていますよ」
よし。シミュレーション、パターンC完了。
返事の内容は、この後綿密に詰めなくてはならないけど。
私室に戻るやいなや、リヴシェはソファにどさりと身を投げた。
疲れた。
ものすっごく疲れた。
わずか30分くらいのことなのに、永遠に続くのではと思うほど長く感じた。
「お疲れ様、よく頑張ったね」
キルシュを数滴たらした紅茶を、ラーシュがすいと差し出してくれる。サクランボのケーキも一緒に。
普段なら夕食前に甘いものなどペリエ夫人に止められるところだけど、かなりきわどい内容の打ち合わせになるからと夫人はさげてあった。
おかげでケーキ食べ放題だ。もっともとてもそんなにたくさんは、入りそうにもなかったけれど。
「婚姻の申し込みかぁ。本当に先王に退位してもらっておいて、良かったと思うわ」
もしあのまま在位していたら、そしてこの婚姻の申し込みが来ていたらと思うと、うすら寒くなった。
あの愚かな先王のことだ。同盟は良いことだと、喜んで承諾したに違いない。
リヴシェはヴィシェフラドの寵力を持つ身、しかもたった一人の世継ぎの王女だ。リヴシェがいなくなったら、誰が継ぐ……。
あ……!
嫌な考えが浮かんだ。
でも口に出すと、本当にそうなりそうだから、よくよく考えてからと目を閉じていると。
「害虫がなにかしたかなって? 僕もそう思うよ」
限りなく冷静な声だった。
ラーシュではリヴシェの王配にはなれない。役者不足と侮辱されたにもかかわらず、限りなく冷静な冴えた表情でじっとリヴシェを見つめている。
「ヴァラートへ嫁ぐとなれば、リーヴはヴィシェフラドから離れることになる。そうなって得をするのは誰か」
ああ、またか。
どうして大人しく花嫁修業でもしていてくれないのだろう。
小説設定どおりに、天真爛漫で純粋で元気で無邪気でと演じていれば、自動的にラスムスに愛されるはずなのに。こんな陰謀めいたことをしているから、側室でさえ拒まれたんではないのか。全く反省していない。それどころかさらに酷くなっている。
もし本当に、この事態を招いたキーパーソンが、彼女だったとしたら。
「調べてみる必要があるね。だけど時間がない。カビーア皇子の言い様からして、そう長くは待ってもらえないだろうからね。
それでも調べてみるしかないか」
キルシュとサクランボの甘い香りが漂っているのに、部屋の空気はひどく重かった。
リヴシェは大好きなケーキに手をつける気にもならず、目の前で少しずつ乾燥してゆく赤い果物をぼんやりと眺めている。
「ラスムス、ノルデンフェルトの皇帝が、こんな姑息なことをする?
それにラスムスは、わたくしがヴァラートへ嫁ぐことを薦めるかしら?
なんだかすっきりしないわ」
ラスムスなら、こんな回りくどい方法はとらないと思う。
必要とあれば策も用いようが、ラスムスの基本は直球、それも160キロの剛速球でストライクを狙いにゆくタイプだ。力でねじ伏せる。そんなラスムスの人となりに、今回のことは馴染みにくい。
知らないのではないか。
ちらりとそう思った。
「ラスムスじゃないのかも」
「さすがによくわかっているじゃないか」
閉じていたはずの窓が開いて、冷たい風と共に黒い影が忍び入る。
絞った薄暗い照明の下で、しなやかな黒い獣がリヴシェたちをじっと見つめていた。
その目は氷のような薄い青。
「悪いが無断で国境を越えさせてもらったぞ。
不本意だが、放っておけぬと思ってな」
ノルデンフェルト皇帝自ら、単身で乗り込んでくるとは。
けれどこれではっきりした。
二コラ・ジェリオ、やはり彼女が関わっている。
光栄なことですね」
できるだけ鷹揚に、ゆったりと微笑んで見せた。
いきなり断ってはいけない。まず相手の言い分を受け止めること。冒頭はYesで入れとは、前世の上司によく言われたことだ。
「わたくしには婚約者がいます。
幼い日より相愛の相手で、わたくしには何にも代えがたいほど大切な人なのです。
それも承知の上のことですか?」
かなり盛ったけど、この原稿を見せた時ラーシュは「それで良いよ」と嬉しそうだったから、まあ良いことにする。
幼い日から愛し合っている二人を引き離すの?
そんなひどいことをするの?
と、ジャブを打ってみたわけだ。
「おそれながら陛下が女王にお立ちになった上は、婚姻のお相手には我が兄、ヴァラート皇帝が最適かと存じます」
つまり「知ってるけど、それが何か?」くらいの意味か。
カビーア皇子が言っていることは、悔しいけど正しい。
ヴィシェフラドに昔の威勢がない現在、国を護ろうと思うなら力のある国と組む必要がある。そして組むならより強い相手と。
ヴァラートがわざわざ御大層な新鋭巡洋艦でやってきたのは、「ほらどうだ。うちは強いぞ」と見せつけるつもりだったに違いない。攻撃魔法をあちこちに仕込んだ巡洋艦は、魔力のない者でもS級の魔術師と対等どころか圧倒的に優位な戦闘に持ち込めるのだという。
「まぁ……。いくらなんでも急すぎますね。
わたくしにも考える時間が必要です」
わざとらしく困惑して少しだけ甘い声を出すと、月の皇子は「もちろんですよ」と微笑みながら頷いた。
「ですが陛下。大変申し上げにくいのですが、我が兄、ヴァラートの皇帝は、あまり気の長いほうではありません。
陛下の色よいお返事を、日ごと夜ごとに焦がれる思いで待っておりましょうから。
待ちきれず、こちらへ押しかけることもあるかもしれませんね」
なるほど、キツネだ。
綺麗な優しい顔をして、言ってることはかなり酷い。
「さっさと覚悟を決めなさい。どのみちあなたは逃れられません。
ぐずぐずしていると、我が軍が攻め入ることになりますよ」
意訳すると、そういうことだ。
「あらあら、怖いことを。
ではこの件はまた後日お返事をしましょう。
今宵はお疲れでしょうから、ゆっくりお休みなさい。
明日の夜、お食事を共に。お待ちしていますよ」
よし。シミュレーション、パターンC完了。
返事の内容は、この後綿密に詰めなくてはならないけど。
私室に戻るやいなや、リヴシェはソファにどさりと身を投げた。
疲れた。
ものすっごく疲れた。
わずか30分くらいのことなのに、永遠に続くのではと思うほど長く感じた。
「お疲れ様、よく頑張ったね」
キルシュを数滴たらした紅茶を、ラーシュがすいと差し出してくれる。サクランボのケーキも一緒に。
普段なら夕食前に甘いものなどペリエ夫人に止められるところだけど、かなりきわどい内容の打ち合わせになるからと夫人はさげてあった。
おかげでケーキ食べ放題だ。もっともとてもそんなにたくさんは、入りそうにもなかったけれど。
「婚姻の申し込みかぁ。本当に先王に退位してもらっておいて、良かったと思うわ」
もしあのまま在位していたら、そしてこの婚姻の申し込みが来ていたらと思うと、うすら寒くなった。
あの愚かな先王のことだ。同盟は良いことだと、喜んで承諾したに違いない。
リヴシェはヴィシェフラドの寵力を持つ身、しかもたった一人の世継ぎの王女だ。リヴシェがいなくなったら、誰が継ぐ……。
あ……!
嫌な考えが浮かんだ。
でも口に出すと、本当にそうなりそうだから、よくよく考えてからと目を閉じていると。
「害虫がなにかしたかなって? 僕もそう思うよ」
限りなく冷静な声だった。
ラーシュではリヴシェの王配にはなれない。役者不足と侮辱されたにもかかわらず、限りなく冷静な冴えた表情でじっとリヴシェを見つめている。
「ヴァラートへ嫁ぐとなれば、リーヴはヴィシェフラドから離れることになる。そうなって得をするのは誰か」
ああ、またか。
どうして大人しく花嫁修業でもしていてくれないのだろう。
小説設定どおりに、天真爛漫で純粋で元気で無邪気でと演じていれば、自動的にラスムスに愛されるはずなのに。こんな陰謀めいたことをしているから、側室でさえ拒まれたんではないのか。全く反省していない。それどころかさらに酷くなっている。
もし本当に、この事態を招いたキーパーソンが、彼女だったとしたら。
「調べてみる必要があるね。だけど時間がない。カビーア皇子の言い様からして、そう長くは待ってもらえないだろうからね。
それでも調べてみるしかないか」
キルシュとサクランボの甘い香りが漂っているのに、部屋の空気はひどく重かった。
リヴシェは大好きなケーキに手をつける気にもならず、目の前で少しずつ乾燥してゆく赤い果物をぼんやりと眺めている。
「ラスムス、ノルデンフェルトの皇帝が、こんな姑息なことをする?
それにラスムスは、わたくしがヴァラートへ嫁ぐことを薦めるかしら?
なんだかすっきりしないわ」
ラスムスなら、こんな回りくどい方法はとらないと思う。
必要とあれば策も用いようが、ラスムスの基本は直球、それも160キロの剛速球でストライクを狙いにゆくタイプだ。力でねじ伏せる。そんなラスムスの人となりに、今回のことは馴染みにくい。
知らないのではないか。
ちらりとそう思った。
「ラスムスじゃないのかも」
「さすがによくわかっているじゃないか」
閉じていたはずの窓が開いて、冷たい風と共に黒い影が忍び入る。
絞った薄暗い照明の下で、しなやかな黒い獣がリヴシェたちをじっと見つめていた。
その目は氷のような薄い青。
「悪いが無断で国境を越えさせてもらったぞ。
不本意だが、放っておけぬと思ってな」
ノルデンフェルト皇帝自ら、単身で乗り込んでくるとは。
けれどこれではっきりした。
二コラ・ジェリオ、やはり彼女が関わっている。
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