吸血鬼令嬢は血が飲めない

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スアヴィスの思惑

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 しかし、スアヴィスの思惑は違いました。


「…いいえ、お嬢様。貴女を阻む障壁は、初めから一つもありません。なぜなら、この私が“ご主人様を搾り尽くした”のですから」


「……へ…?」

 スアヴィスの言葉が、理解できませんでした。

「…スアヴィス、何を言ってるの…?」

「ご主人様を完全に退治することは、眷属である私には不可能でした。ですが羽を落とし、全身の血液を吸い尽くし、地底深くに追いやることはできました」

「……え? 吸い…? い、いつ……」

「お嬢様が、吸血鬼になられて間も無くです」

 100年以上昔、ヴァンパイア・ロードは何の前触れもなく城の最深部へ篭ってしまった。

「……え、じゃあ、我が父が突然、眠りについたのって…」

 100年を過ぎた頃から数えるのをやめてしまいましたが、確かあれは、わたくしが攫われてからそう日が経たないうちだったと記憶しています。

「はい。私がご主人様の命令に逆らい、力を奪ったのです」

「…な、なんで…?」

 わたくしは純粋に知りたかった。
 スアヴィスは、我が父の従順なしもべです。その彼が主を裏切るなんて、よほどの理由があったはず。

 しかし、その理由は驚くほどに簡潔でした。


「私にとっては、レギナお嬢様のほうが大切でしたので」


 理解が追いつかないわたくしのため、スアヴィスはゆっくり説明してくれます。

「これまで、この城に侵入した何百人もの退治人や聖職者を地底へ送り、ご主人様を完全に滅ぼしてくれないかと期待しました。今回あの娘と猟犬に、この身を傷付けられた瞬間、私の中の期待が確信に変わったのです」

「……ラクリマと、ニクス…? あの子達なら、我が父を倒せると思ったから…奈落の底へ落としたの…?」

「はい」

「……で、でも二人は…」

 あの日からもう一ヶ月は経とうとしている。
 あの子達が生きている奇跡なんて…。

「お嬢様。私はいつも侵入者を排除したら、事後報告致しますよね」

「!」

 わたくしはハッとします。
 今回は、まだ彼の口から「ラクリマの息の根を止めた」という報告を聞いていない。

 それはつまり、彼はラクリマとニクスの顛末を知っている。憶測ではなく、はっきりと明確に。
 わたくしは臆することも忘れ、彼の血色の目を覗き込みました。

「お、教えて! あの子達はどうなったの!?」

「…では、交換条件です。私の血を飲んでいただけますか? そうすれば、彼らについて何でもお話し致します」

「!!」

 スアヴィスの言葉がじわじわとわたくしの逃げ道を塞いでいく。

「血を飲んでください。生きてくださいませ。私の愛するお嬢様」


 ふいにスアヴィスの視線がわたくしから、背後のドアへと移ります。
 廊下の向こうから何者かが走ってくる微かな足音。わたくしは何事かと、首を捻ってドアを見ます。

「ーーーワンッ!!」

 ドアが開け放たれた時、わたくしの止まっていた時計が、息を吹き返しました。


「…やっと見つけたわ執事!! レギナさんから離れなさいっ!」

「ワンワン!!」


 ラクリマとニクスです。
 一ヶ月間地の底を彷徨い歩いた二人は、体中傷だらけでした。
 ラクリマの頬も、ニクスの体も少しだけ痩せている。それでも、二人の目には生気が確かに宿っていたのです。

「随分と遅いお着きですね。我がご主人様はどうなりました?」

 好機を邪魔されたと思っているのか、スアヴィスが機嫌悪そうに訊ねます。
 ラクリマは胸を張り、高らかに言い返しました。

「当然! ありったけの聖水で滅ぼしたわ!! あとは一ヶ月間、ニクスに案内してもらいながらひたすら出口を目指したわよ!」

「一ヶ月も飲まず食わずでよく死にませんでしたね。…吸血鬼でもあるまいし」

 スアヴィスの言葉の棘が鋭くなります。
 しかしラクリマは、一ヶ月暗闇を彷徨ってさらに肝が据わったせいか、少しも動じません。

「幸い牛乳缶も一緒に落ちてたから、食料に困らなかったわ!」

 わたくしは今も目の前の光景が信じられません。本当に二人は生きている。
 生きて、元気な顔を見せてくれている。

「……ラ、ラクリマ…! ニクス…! ごめんなさい、全部わたくしが悪いの。早く城から逃せば良かったのに、あなた達を危険な目に遭わせて…」

 ラクリマは、わたくしを責めませんでした。
 それどころか、初めて会った時と同じ、無垢で優しい笑顔を見せたのです。

「もういいのよ。レギナさん」

 そして、彼女もまた、わたくしの全く予想だにしないことを言いました。

「…いいえ、“レギナ大伯母様”。あなたを攫ったヴァンパイア・ロードは、わたしがこの手で退治したわ。敵討ちは無事に終わったの」

「!」

 思わず息を呑みます。

「…わたくしのこと、気づいてたの…?」

「名前を聞いた時はまさかと思ったわ。わたしのことを必死に助けようとしてくれたのも、同じ一族の娘だから、自分と同じ目に遭わせないためにしてくれたんでしょう?」

 胸が強く締め付けられます。
 わたくしがラクリマを助けたかった理由…それは彼女が、前世でプレイしたゲームの愛着あるヒロインだから。
 でもそれだけでは、小心者のわたくしはあそこまで体を張れなかった。

 わたくし自身が、ヴァンパイア・ロードの恐ろしさを身をもって経験していたから。
 そして、レギナの一族であるラクリマ
 に同じ運命を辿ってほしくなかったから。

 今こそあの落とし物をこの子に返すべきだと思いました。

「…ラクリマ、これ…」

 わたくしは地下牢で拾った写真を、ラクリマへと差し出しました。
 ラクリマは歩み寄り、わたくしの手から写真を受け取ります。

「…そこに写ってる女の子は、“人間だった頃のわたくし”です…。あなたとよく似た面影がありますわね…」

 懐かしくて、悲しい…。
 吸血鬼となったわたくしは今や、怪物。写真の中の、ラクリマに似た清純な少女とは似ても似つかない。
 この写真こそ、ラクリマとわたくしが遠い血縁者であるという証明でした。

「大伯母様は、当然亡くなってしまったものだと思ってた。…でも違ったわ。貴女は吸血鬼の姿で、わたしが来るのをずっと待っててくれたのね」

 ラクリマが、わたくしを拒絶することなく微笑んでいる。

 なぜこんなにも、臆病なわたくしを信じてくれるの。
 吸血鬼にも人間にもなれない。この城から逃げることも、我が父に立ち向かうこともできなかった、小心者な貧血鬼を。


「…うん、…待ってましたわ。あなたをずっと、待って、ましたの…」

 わたくしの150年が、やっと報われた思いでした。


 涙を溢れさせるわたくしの肩を、スアヴィスの冷たい手がそっと抱きます。

「ラクリマ。貴女は一族の悲願のため、城主であるヴァンパイア・ロードを退治した。ですが、ここにもまだ吸血鬼がおります。一人は、ヴァンパイア・ロードの力を奪った執事長。そしてもう一人は、貴女の大伯母様です。我々もまた、退治なさいますか?」

「……」

 ラクリマは穏やかな声でこう言いました。

「わたしは大伯母様に…ううん、レギナさんに生きていてほしいわ。例え吸血鬼になっても、レギナさんはレギナさんだもの。わたし、貴女のこと好きよ」

 ラクリマの澄んだ声は、乾いた地に注ぐ雨のように、わたくしの心に染み渡ります。

「これからは自由に生きてほしいと思ってるわ。それには執事長、貴方を倒さなきゃいけない?」

 ラクリマは逞しく身構えます。
 いつでも戦える。そう示すように。
 スアヴィスもまた、燕尾服の裾をずるずると伸ばして彼女を襲おうとする。

 そんな二人に挟まれた状態で、わたくしは、

「……スアヴィス…」

 また新たな涙を溢すのです。

 わたくしの頭の中を、160年の出来事が駆け巡ります。
 10歳までの幸せだった家族との日常。
 吸血鬼となってからの恐ろしく悲しい日々。
 いずれ来たるラクリマを待ち侘びた、永遠にも思える時間。

 これまでの生涯はただひたすら、可愛いラクリマを危険から救うために生きてきました。
 …しかし、今やその願いは達成された。
 呪縛となっていた我が父も、もういない。

 わたくしはこれからどうしたい?
 何のために、生きたい?
 誰のため?…自分の、ため?

「…わたくし、」

 そして、わたくしは本音を溢しました。

「…生きて、いいのかしら…? わたくし今は、あなた達と…ずっと一緒にいたいの…」

 その言葉を認識した瞬間、スアヴィスの大きな腕と一対の蝙蝠の羽が、わたくしを強く抱え込みました。

「ぐえっ!」

 締め上げられている…わけではありません。どうやら彼なりの“抱擁”を受けているようです。
 興奮が抑えられないのか、彼は声に感情を乗せ、ぶつけてきました。

「…お嬢様…! 勿論です! 私の行動すべてはそのためにあったのですから…! あぁ、150年ぶりに聞くことができました」

「ちょっ、く、苦しい…!」

 貧血でカラカラの枯れ木のような体になんてむごいことを。
 かと思えば、彼はすんなりと体を解放し、突然自身の指先を噛みました。

 彼の指先から、赤黒い血が滴ります。
 獣から搾り取ったものとは違う、吸血鬼特有の血。
 スアヴィスは濡れた指先を、わたくしの唇へと運びました。

「お召し上がりください、お嬢様。貴女の体に生命を取り戻すために。…私が、お嬢様をどれほど想っているのか、嫌と言うほど知っていただくために」

 スアヴィスの言葉の、後者の意味は分かりませんでした。
 わたくしは指先をじっと見つめます。それは150年間拒絶し続けたもの。…しかしなぜか“スアヴィスの血”だと思うと、わたくしの恐怖は少しだけ薄れたのです。

「…あ……」

 わたくしはようやく気づきます。
 彼になら命を奪われてもいいと思えた。わたくしは何よりも、スアヴィスのことを信頼していたのです。

 わたくしはおずおずと唇を開き、スアヴィスの指を迎え入れます。
 舌でその血の味を感じた瞬間、大きな衝撃を受けました。

「!!」

 血からは、スアヴィスの“本心”の味がしました。
 恐ろしくて、優しくて、美味しい。

 無表情な彼は何を考えているか分からない。
 でもその身に流れる血には、ただわたくしへの“愛”しかない。
 真っ黒に歪んだ、優しく、甘い味でした。
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