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第四章 夏と花火と過去の亡霊

浴衣と制服

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 会場に行く前に、まずは駅と花火会場のちょうど中間地点にある爽太の家に寄ってバッグを置いていくことになっている。
 玄関の上り口に腰掛けて休憩していると、和室にバッグを置きに行っていたはずの爽太が何かを持って戻ってきた。

「美波、足見せて」
「なんで?」
「鼻緒擦れて怪我する前に絆創膏貼っておこう」
「爽太、よく思いついたね。自分で貼るからもらってもいい?」

 私のリクエストを笑顔で封じ、爽太は三和土たたきに膝をつく。うっすらと赤くなった鼻緒の痕を辿る指の皮は、この家でコントラバスと共に暮らし始めた頃よりもずいぶん厚くなった。
 ……爽太、本当に頑張ってたからなぁ。
 弦の擦れと指の攣りと水ぶくれと血豆を乗り越え、爽太の指と音は現役の頃の八割くらいまで戻ってきた。月イチでコントラバスのレッスンを受けている高校吹奏楽部時代の顧問の先生も『本番までには形になりそう』と言っていたらしい。
 そんなことを考えながら爽太のつむじを見下ろしていると、絆創膏を貼り終えた指と手のひらが足全体をそっと包んでくれる。小さく息を漏らした次の瞬間、土踏まずを軽くくすぐられて変な声が出た。

「うひゃっ」
「油断しすぎ」
「もうっ」

 仕返しにもう片方の爪先で軽く爽太をつつく。爽太とこうやってじゃれあうのは楽しくて、心地いい。

「よし、行こうか。一応追加で絆創膏持っていくから、欲しくなったら言って」
「ありがとね」

 手を借りて立ち上がり、改めて会場へ向かう。いつもよりも気持ちゆっくりめに歩いてくれる爽太に私は問いかけた。

「ねえ爽太、どのあたりに場所取ったの?」
「有料観覧席。人少ないし、ペットボトルとレジャーシートと座布団つきだからデート向きだって会社の人に勧められた」
「え」

 確かに場所取っておいてくれるとは言ってたけど、会場や大河の職場からは少し離れた河川敷だとばかり思ってた。

「後で半分お金出すね」
「それくらい払わせて」
「なんで」
「浴衣着てきてもらったお礼。準備も、ここまで歩くのも大変だっただろ?」
「じゃあ、来年は私が席代払うから一緒に浴衣着ようよ」

 今日の爽太は浴衣ではなく、サックスブルーのサマーニットに黒のテーパードパンツ姿だ。細すぎずマッチョすぎない、文字通り爽やか系の爽太なら浴衣も綺麗に着られそう。

「ちょっと厳しいかな」
「そう? 着付けは私が覚えて着せるし」

 浴衣持ってないなら一式プレゼントする。絶対似合う。

「昔じいちゃんに教えてもらったから自力で着られるけど、人に揉まれて二人して着崩れすると後が厄介だし」
「それはそうだけどさぁ」

 あまりにも具体的な例を出されて何も言えなくなった私の頬を爽太がつつく。

「そうならない方法考えるから拗ねないの。……来年も、一緒に来よう」
「やった。楽しみにしてる」
「その前にまずは今年の花火な」

 そんな話をしながら辿り着いた会場は、予想通りたくさんの人でごった返していた。大河の職場のホテルのほうへ向かって歩き出そうとする私の手を取り、爽太が反対方向へ歩き始める。

「有料観覧席のあたり、あんまり屋台出てないから先に何か買っていこう」
「さすスガ」

 下調べバッチリだね、と言おうとした瞬間、頭の中に今日の爽太の声が蘇ってきた。

『鼻緒擦れて怪我する前に絆創膏貼っておこう』
『昔じいちゃんに教えてもらったから自力で着られる』
『二人して着崩れすると後が厄介』

 いくつもの言葉がパズルのように組み合わさって、ひとつの重い塊になって心の中にずしんと落ちてくる。
 鼻緒擦れの対策ができるのも、浴衣を自力で着られるのも、トラブルの内容がやけに具体的なのも、会場の配置に詳しいのもきっと。
 ――元カノの誰かと、浴衣を着てこの花火大会に来たことがあるからだ。
 そう気づいたとたんに気分だけでなく足取りまで重くなってきたけれど私にどうこう言う権利なんかない。だって、そんなのこっちも同じ。私が今着てる浴衣は元々、この花火大会にいっちゃんと来るために仕立てたものなんだから。

「美波?」

 爽太に声をかけられて、いつの間にかうつむき加減になっていた顔を上げようとしたところで。

「っ!?」

 背中に何かがぶつかった。振り向いた先には懐かしい母校の制服を着た女の子がいて、申し訳なさそうな顔で頭を下げてくる。

「ごめんなさい! 浴衣汚しちゃってませんか?」
「ええ」
「ほんと、すみませんでした」

 慌てた様子で近づいてきた男の子も一緒になって謝り、女の子を促して立ち去っていく。男の子の片手にはトランペットケース、女の子が背負っているのはたぶんクラリネット。ということは。

吹奏楽部うちの後輩だね」
「そうだな。皆で花火見たの、懐かしい」

 川沿いに建つ母校は花火会場とも近い。八月頭にあるこの花火大会は、野球部の応援と自分達のコンクールの狭間の貴重な息抜きイベントだった。そういえば。

「ちょっとだけ、爽太と二人だったことあったよね」

 高一の時、河川敷で自主練をしていた私を先生との居残りレッスンを終えた爽太が迎えに来てくれて、先に会場に向かった皆と合流するまで一緒に行動していたのだ。
 爽太が驚いた顔をする。

「……覚えてたんだ」
「忘れるわけないし」

 私の言葉に、爽太が昔を懐かしむような表情になった。
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