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三上さんとメモ帳
三上澪の休日
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灰色の空が、世界の明度を下げてしまっている。晴れてもいないが雨も降っていない、そんなアンニュイなある日の午後。
三上澪は、一人街を歩いていた。
白いスウェットに薄手の黒いガウチョパンツ、それに白いスニーカーを合わせた姿は、個性的ではないものの、春の日差しの届かない憂鬱な日からは隔絶されて見えるほどの存在感を放っている。
大学二年生といえば、慣れない大学生活にも若干の余裕が生まれるが、かといって単位のためにだらけてはいられない、ある意味一番精力的な時期だろう。
しかし、日頃から学びに余念のない彼女は、週に一度ある全休の日にも課題に追われることはなく、こうして出掛けていた。
都心部の駅というだけあって、周囲には巨大な商業施設が多く立ち並んでいる。
だが、それらの中に彼女のお目当てのものはないようで、人の通行の邪魔にならないよう道の端に寄り、肩掛けしていたミルク色のトートバッグからスマートフォンを取り出した。
「えっと、この先を真っ直ぐ行って、左……」
スマホに表示させる地図を見ながら、誰にも聞こえないほど小さな声で目的地までの道のりを確認し、再び歩をすすめる。
数分ほど歩き、澪は薄茶色の建物を見上げながら中へと入っていく。
春にしては涼しい温度設定の正面入り口、そのすぐそばの壁面に掛けられたフロアガイドの前で止まり、涼しげな目元のまま瞳を上下させた。
入口のガイドはその階だけではなく、施設全体のショップの位置について記してある。
そこで数秒ほど立ち止まり、思いの外苦戦していると――。
「こんにちは。お姉さん、今日はお休みですか?」
突如、真横から声を掛けられる。
二重で形の良い目元、高い鼻、薄い唇、束感を強めにセットされた茶髪。少し遊んでいそうと思われるかもしれないが、おそらく平均的な感性を持ち合わせた人間なら、間違いなく彼のことを「イケメン」と評するだろう。
つっかえのない、春の爽やかな風を感じさせるような声もまた、男の「慣れ」を示していた。これは、いわゆるナンパである。
「それにしても、曇りだと気分も落ち込んじゃいますよね」
無視させているのか、それとも気付かれてすらいないのか。どちらであれ返事の返ってこない状況でも、男は挫けることなく身振り手振りを交えながら言葉を続ける。
それもそのはず、彼は毎日のように街を当てもなく彷徨い、自らの欲を満たすために異性に声を掛け続けているのだ。
当然無視もされれば罵倒もされるが、それでも彼は日々同じことを繰り返す。もはや、無視など彼の心を微塵も傷つけない。
「僕もどんよりした気分だったんですけどね、お姉さんのことを見たら、一気にパッと元気になっちゃって。よかったら一緒に話したいなって思ったんですけど――」
しかし、いくら日課で声をかけ続けているといえど、ここまで粘り続けるのにも理由がある。
単純に、澪の容姿が一線を画すものだからだ。
――ここまで綺麗な女はそうそういないし出会えない。なんとしても、ここでアプローチをかけて次に繋げる。
おそらく、男は脳内でそんなことを考えながら、アドレナリンの分泌を感じているのだろう。
だが、依然として目の前の相手は自分に興味を示さない。
相手の心意がなんであれ、彼にとって無反応、無関心というのは、自分に価値がないと言われているのも同義だった。
ある意味罵倒よりも厳しい対応に、少しカチンとくる。
ここで男は、強行手段に出ようとした。流石に腕を掴まれれば無視はできないだろうと、自らの右手を彼女めがけて――。
「――っ!」
だが、それを実行に移すことは叶わない。
同じように施設に入ってくる人々が、彼を……というより、澪を見ているからである。
当然、彼女は未だにフロアガイドの方へ身体を向けているため、声をかけてきた男以外は澪の後ろ姿しか認識できていない。
にも関わらず、そのシルエットすらも魅力に溢れているため、彼女には男女問わず天然の防御壁が形成されていたのだ。
ここで男が強引な手段に訴えれば、その瞬間に誰かが店の人間、あるいは警察に通報するだろう。
もはや勝負は決していた。
「……あ、これだ」
そして、ここでようやく澪は目的地のある階層を発見した。
手首に巻いた白い時計に目をやり、振り向くと、幾人かの人がこちらを見ている。
彼女は、自分が周囲に気を向けられないほど夢中になってフロアガイドを見ていたことで、他の客の邪魔になってしまったのだと申し訳なく思い、頭を下げながら施設内に歩いて行った。
彼女はエスカレーターに乗って二階、三階と上がっていき、六階に着くと、もう一度フロアマップを確認して、小難しい英語で書かれた店へと向かう。
外装だけでなく、店舗内の床や壁、何もかもが白で統一された空間。
入店するのに敷居の高そうなそれの前に立った澪は、一度深呼吸したあと入店した。
「いらっしゃいませ~。ご予約はされてますか?」
「はい。16時から予約してる三上です」
「えーと、三上さんは……」
カウンター裏にかがみ、パソコンで予約を確認するのを数秒ほど待つ。
「ありました! ご来店ありがとうございます! まずはお荷物をお預かりしますね」
「ありがとうございます」
トートバッグを美容師に渡し、彼女は施術席へと案内される。
「それでは、本日担当させていただきます萩原と申します~!」
「よろしくお願いします~」
軽快そうな調子で挨拶をする美容師のお陰で、澪の緊張もいくらか解けているようだった。
「お姉さんはここに来られるのは初めてですか?」
「そうです。この間ネットでこの美容院が良いっていうのを見かけたから来てみました」
「嬉しいです~。それじゃあ今日は、私も張り切っちゃいますね!」
満面の笑みで気合を入れる美容師に、澪は思わずくすっと笑ってしまった。
「っていうか、お姉さん『髪質改善トリートメント』の予約をしてくださってるんですけど、もうとびっきり綺麗な髪してません?」
「え、そうですか?」
彼女の髪は、現時点でもキューティクルに溢れている。
自分自身は気が付いていないようだが、美容師はそこに疑問を感じていた。
「めちゃくちゃ綺麗ですよ! むしろ、ここからさらに綺麗にしたいと思うなんて、それほどの美意識があるのに尊敬です!」
「美意識はそんなに……人並みだと思うんですけど、ちょっと髪を綺麗にしたい理由ができたんです」
澪のその言葉を聞いて、美容師は首をかしげる。
これ以上美しい髪を手に入れようと思う理由とは?
――もしかしたら、彼女はモデルや女優なのかもしれない。
大学生だということは予約時に入力された情報で分かっているが、これほどまでに整った顔立ち、スタイル、さらには少し会話しただけでも中毒性のある美声を持ち合わせていれば、この若さで芸能界で活躍していてもおかしくはない。
……が、しかし。その考えはすぐに自身の脳内で反論される。
――大抵の場合、そういう人には既に行きつけの美容院があるはずだ。
彼女は芸能関係に精通していないが、店に来る理由は大方「ネットで見た」からではなく「芸能関係の友達や知り合いから教えてもらった」だろうと考える。
であれば、元々スペックの高い女子が、さらに上を目指す理由として一番可能性の高いものは――。
「……そういうことですね」
「え? なんですか?」
「いえいえ、とにかく髪をもっと綺麗にしたいということで、頑張っちゃいます!」
さらに気合を入れ始めた美容師を鏡越しに見ながら、澪は不思議そうに眉を上げた。
三上澪は、一人街を歩いていた。
白いスウェットに薄手の黒いガウチョパンツ、それに白いスニーカーを合わせた姿は、個性的ではないものの、春の日差しの届かない憂鬱な日からは隔絶されて見えるほどの存在感を放っている。
大学二年生といえば、慣れない大学生活にも若干の余裕が生まれるが、かといって単位のためにだらけてはいられない、ある意味一番精力的な時期だろう。
しかし、日頃から学びに余念のない彼女は、週に一度ある全休の日にも課題に追われることはなく、こうして出掛けていた。
都心部の駅というだけあって、周囲には巨大な商業施設が多く立ち並んでいる。
だが、それらの中に彼女のお目当てのものはないようで、人の通行の邪魔にならないよう道の端に寄り、肩掛けしていたミルク色のトートバッグからスマートフォンを取り出した。
「えっと、この先を真っ直ぐ行って、左……」
スマホに表示させる地図を見ながら、誰にも聞こえないほど小さな声で目的地までの道のりを確認し、再び歩をすすめる。
数分ほど歩き、澪は薄茶色の建物を見上げながら中へと入っていく。
春にしては涼しい温度設定の正面入り口、そのすぐそばの壁面に掛けられたフロアガイドの前で止まり、涼しげな目元のまま瞳を上下させた。
入口のガイドはその階だけではなく、施設全体のショップの位置について記してある。
そこで数秒ほど立ち止まり、思いの外苦戦していると――。
「こんにちは。お姉さん、今日はお休みですか?」
突如、真横から声を掛けられる。
二重で形の良い目元、高い鼻、薄い唇、束感を強めにセットされた茶髪。少し遊んでいそうと思われるかもしれないが、おそらく平均的な感性を持ち合わせた人間なら、間違いなく彼のことを「イケメン」と評するだろう。
つっかえのない、春の爽やかな風を感じさせるような声もまた、男の「慣れ」を示していた。これは、いわゆるナンパである。
「それにしても、曇りだと気分も落ち込んじゃいますよね」
無視させているのか、それとも気付かれてすらいないのか。どちらであれ返事の返ってこない状況でも、男は挫けることなく身振り手振りを交えながら言葉を続ける。
それもそのはず、彼は毎日のように街を当てもなく彷徨い、自らの欲を満たすために異性に声を掛け続けているのだ。
当然無視もされれば罵倒もされるが、それでも彼は日々同じことを繰り返す。もはや、無視など彼の心を微塵も傷つけない。
「僕もどんよりした気分だったんですけどね、お姉さんのことを見たら、一気にパッと元気になっちゃって。よかったら一緒に話したいなって思ったんですけど――」
しかし、いくら日課で声をかけ続けているといえど、ここまで粘り続けるのにも理由がある。
単純に、澪の容姿が一線を画すものだからだ。
――ここまで綺麗な女はそうそういないし出会えない。なんとしても、ここでアプローチをかけて次に繋げる。
おそらく、男は脳内でそんなことを考えながら、アドレナリンの分泌を感じているのだろう。
だが、依然として目の前の相手は自分に興味を示さない。
相手の心意がなんであれ、彼にとって無反応、無関心というのは、自分に価値がないと言われているのも同義だった。
ある意味罵倒よりも厳しい対応に、少しカチンとくる。
ここで男は、強行手段に出ようとした。流石に腕を掴まれれば無視はできないだろうと、自らの右手を彼女めがけて――。
「――っ!」
だが、それを実行に移すことは叶わない。
同じように施設に入ってくる人々が、彼を……というより、澪を見ているからである。
当然、彼女は未だにフロアガイドの方へ身体を向けているため、声をかけてきた男以外は澪の後ろ姿しか認識できていない。
にも関わらず、そのシルエットすらも魅力に溢れているため、彼女には男女問わず天然の防御壁が形成されていたのだ。
ここで男が強引な手段に訴えれば、その瞬間に誰かが店の人間、あるいは警察に通報するだろう。
もはや勝負は決していた。
「……あ、これだ」
そして、ここでようやく澪は目的地のある階層を発見した。
手首に巻いた白い時計に目をやり、振り向くと、幾人かの人がこちらを見ている。
彼女は、自分が周囲に気を向けられないほど夢中になってフロアガイドを見ていたことで、他の客の邪魔になってしまったのだと申し訳なく思い、頭を下げながら施設内に歩いて行った。
彼女はエスカレーターに乗って二階、三階と上がっていき、六階に着くと、もう一度フロアマップを確認して、小難しい英語で書かれた店へと向かう。
外装だけでなく、店舗内の床や壁、何もかもが白で統一された空間。
入店するのに敷居の高そうなそれの前に立った澪は、一度深呼吸したあと入店した。
「いらっしゃいませ~。ご予約はされてますか?」
「はい。16時から予約してる三上です」
「えーと、三上さんは……」
カウンター裏にかがみ、パソコンで予約を確認するのを数秒ほど待つ。
「ありました! ご来店ありがとうございます! まずはお荷物をお預かりしますね」
「ありがとうございます」
トートバッグを美容師に渡し、彼女は施術席へと案内される。
「それでは、本日担当させていただきます萩原と申します~!」
「よろしくお願いします~」
軽快そうな調子で挨拶をする美容師のお陰で、澪の緊張もいくらか解けているようだった。
「お姉さんはここに来られるのは初めてですか?」
「そうです。この間ネットでこの美容院が良いっていうのを見かけたから来てみました」
「嬉しいです~。それじゃあ今日は、私も張り切っちゃいますね!」
満面の笑みで気合を入れる美容師に、澪は思わずくすっと笑ってしまった。
「っていうか、お姉さん『髪質改善トリートメント』の予約をしてくださってるんですけど、もうとびっきり綺麗な髪してません?」
「え、そうですか?」
彼女の髪は、現時点でもキューティクルに溢れている。
自分自身は気が付いていないようだが、美容師はそこに疑問を感じていた。
「めちゃくちゃ綺麗ですよ! むしろ、ここからさらに綺麗にしたいと思うなんて、それほどの美意識があるのに尊敬です!」
「美意識はそんなに……人並みだと思うんですけど、ちょっと髪を綺麗にしたい理由ができたんです」
澪のその言葉を聞いて、美容師は首をかしげる。
これ以上美しい髪を手に入れようと思う理由とは?
――もしかしたら、彼女はモデルや女優なのかもしれない。
大学生だということは予約時に入力された情報で分かっているが、これほどまでに整った顔立ち、スタイル、さらには少し会話しただけでも中毒性のある美声を持ち合わせていれば、この若さで芸能界で活躍していてもおかしくはない。
……が、しかし。その考えはすぐに自身の脳内で反論される。
――大抵の場合、そういう人には既に行きつけの美容院があるはずだ。
彼女は芸能関係に精通していないが、店に来る理由は大方「ネットで見た」からではなく「芸能関係の友達や知り合いから教えてもらった」だろうと考える。
であれば、元々スペックの高い女子が、さらに上を目指す理由として一番可能性の高いものは――。
「……そういうことですね」
「え? なんですか?」
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