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第1章

第2話 【商人】

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「一目散に駆けてきたので部下を置いてきてしまったのですが、馬は後から参りますよ」

 タイタニスは言い、ドルゴラスにつけていた荷物を外す。三人は家の中に再び戻った。
 プロクスは衣装を手にして部屋に着替えに行き、その間にタイタニスは紅茶の準備を始めた。

 ルーカスはその手際の良さに感心しながら、よくカップを割らないものだと思った。タイタニスほどの手の大きさなら指先でカップを割ってしまいそうなものを。

「待たせたな」

 その声に、ルーカスは振り返る。
 そこには薄くて白い、上等な絹を身に付けた師がいた。詰め襟のゆったりした膝丈の上衣、銀のベルト。ズボンも裾がゆったり膨らんだ型のものだったが、いつもごわごわの衣装を着ているプロクスの体の華奢さがわかるには十分だった。
 頭は白い頭巾を被り、それが飛ばないように蔦が絡み合ったような冠をのせる。顔には必要最小限のところだけ空いたような、木の仮面。ルーナの木から出来ていて、魔法が施され、プロクスの顔に吸い付くようにくっついている。
 これは帝都に向かう時には必ず身につける仮面だった。

「ルーカスは見習いの衣装を着たままだったから、丁度良かったね」

 プロクスは、ルーカスの身に付ける詰襟の黒い衣装を見る。上着の縁は金糸で飾られ、白いシャツと灰色のベストを着ている。ズボンだけが膝下までの長さで、白い靴下と歩きやすい黒の革靴を履いている。

「俺この半ズボンすごく嫌なんだけど。何この白い靴下。早く長いズボンにブーツを履きたい」

 ルーカスはぶつぶつ言う。その側で、タイタニスがプロクスに紅茶を淹れる。タイタニスの前では子供のままごと用のカップに見えていたそれが、プロクスの前に置かれた途端に普通サイズになった。

 プロクスは仮面をつけたまま、紅茶を啜るように飲む。

「美味しい。丁度良い温度だね。さすがタンタン。素晴らしい腕前だ。茶屋を開ける」
「恐悦至極に存じます」

 タイタニスが笑いながら言う。そして、プロクスの前に座り、ふっと息を吐いた。何か話したそうにするのを、プロクスがカップ片手にどうぞ、と手で合図する。

「……部下が来るまでに、報告を。空白地帯と国との境にある結界についてです。やはり、長く時を経て、弱体化が見られます」

 ルーカスもまた、プロクスの隣に並んでタイタニスを見つめる。

「ノグレー公国から、境界線の結界を獣人が破り、多数の村人が攫われたと報告が上がりました。神殿からも遠い土地で、兵士も間に合いませんでした。特に、若い娘が狙われ――【十三人の姫】の伝承が伝わる地方ですから、皆怯えて震え上がっているようで」

 ――【十三人の姫】。それは、今は無きイヴォール公国の十三人の姫君が魔族に攫われた遙か昔の事件のことだ。
 姫君から生まれた十三人の子どもたちは魔人ヘルズと呼ばれ、イヴォール公国を滅ぼし、周囲の国に甚大な被害をもたらした。後に、当時の騎士王によって魔界・サーティス=ヘッドの北西に封じられた。

「そうか……やはり、結界は弱体化してきているな。古代の魔術で編まれたものだが、敵は長年それを研究してきた。そうだな、今まで改良されてこなかった方がおかしい。あの結界もおおざっぱで、小さいものなら通してしまうし。【戦火】も数が減ってきているのだろう?」

「きちんと神官によって管理されているはずなのですが、ある日突然火が消えることが増えてきたようで……何件か報告が上がっております。早急に魔術学院と神官とで原因を究明中です」

「新たな結界を造るという案はどうなった?前回の大年会でも議題に上がったが、その後進捗はどうだ」

 大年会とは、国中の騎士団長が集まって国防課題を話し合う重要な会議である。プロクスも騎士王として出席が義務づけられている。

「本殿の神官で話を進めていたのですが、どうやら神鹿軍団長も動いているようで……しかし、あなたがいるまでに間に合うかどうか。敵はどんどん賢しくなってきている」

「というと?」

「結界を少しずつずらしているようですよ。破ることなく」

 プロクスはため息をついた。

「賢い奴がいるようだ。異郷の民については管轄外だが、王家付きの学者に相談する。場合によっては国境兵を増やしてもらうよう取り計る。大年会の議題に挙げよう」

「それで、あなたの弟子のことですが……【黒真珠】のことですよ」

 あぁ、とプロクスは深く頷いた。

「――イオダスか」

「そのことがあってか、国中から、魔術師を集めています。本殿に留まらず、自分の造った研究所で随分長く過ごしているようだ」

 本殿、とはアストライアの王城にある神殿のことである。

「それは……でも、謀反を起こそうとしているわけじゃないだろう?彼も私と同じく【商人メルカトル】によって契約され、王に仕える身だ」

 ね?とプロクスは襟巻の中に話しかける。

 すると、襟巻がもぞもぞと動いて、真っ白でふわふわの毛玉のような蛾が這い出した。その目は黒々と大きい。そして、星を散りばめたように輝いている。

『お呼びですか、我が王よ』

 ――プロクス専属の【商人】、白雪シロユキ。鈴を振るような声で、すらすらと情報を述べる。

『イオダス・サージェス。現ハージェス侯爵家当主。三十五年前、十二歳で神殿兵となり、当時のセヴェル支部神官長の元で頭角を現し、その後【商人連サブリエ】の騎士として契約。彼の希望でプロクス=ハイキングの弟子となりました。そして最年少で神殿兵をまとめる神鹿軍団長として就任。歴代のプロクスの弟子の中で、最も優秀です』

【商人】とは、元始の人と同じ時代、或いはその遙か昔から存在する者たちだ。【商人】というからには何かを商う者たちだが、魚や布を商う者たちとはまるで違う。
 彼らに依頼して、手に入らないものはない。そして、彼らは【商人連】という組織を作り、各国に絶大なる影響力を持った。

『さらなる情報がほしいのですか我が王?これは難易度二に当たります』
「いや、いい。私が直接聞こう」

 そう、と白雪はごそごそとプロクスの襟巻の中に戻る。

 【商人】が「難易度」について告げるのは、その情報の見返りが必要な時。それは物であったり、行動であったりする。彼らとの取引で、金銭で解決されるものほとんどはなかった。

 先程まで白雪が話していた内容は、国に仕える者なら誰でも知っていることだ。

 プロクスは生真面目な弟子の顔を思い浮かべる。まだ顔があった頃のものだったが。

 プロクスも、イオダスも【商人】と契約している。二人ともそうして王族の元に派遣され、国を守る仕事に従事している。【商人連】はそうして、優秀な人材を派遣する事業も行なっていた。

 プロクスは遙か昔に契約を【商人】と交わした。報酬は、騎士王として国に仕える仕事を完遂すると得られることになっている。日々の生活費は王家からもらっているが、それとは別だ。

「あれは職務には堅実な男だ。そしてこの国で最強と言っても差し支えがない。頼りになるし、部下からの忠誠も厚い。謀反の心配などないだろう」

 のん気にそう言うプロクスを、タイタニスはほんの少し不安な表情で見る。

 神殿だけでなく、今や王城にも多大な影響力を持つ神鹿軍団長イオダス・サージェス。プロクスの弟子であり、【商人連】が認める優秀な人物。

 プロクス=ハイキングがいなくなった後、彼こそが次の騎士王だと、騎士たちの間では噂されている。

 タイタニスは若い頃の彼を知っており、また慕ってもいたが、あの頃とはわけが違う。彼はよもや人間と言えるのかわからない存在になりはてた。

 それに、とタイタニスはルーカスと話し出したプロクスを静かに見つめる。

(師匠であるプロクスに対し、イオダスは――)

 タイタニスは、手を組んで口元を隠す。思わず歪めた口を。
純真な騎士王は、その優しさと包容力でどんな者も受け入れる。一度でもそのぬくもりに触れれば、氷のように頑なな人間も心を許してしまう。

 プロクスを慕う者は多い。騎士王は自らを慕う者を、平等に扱う。平等に心を配る。
 だが、それが我慢ならない者もいる。
 弟子という特別な枠に収まっても、後継となるルーカスが現れた彼は、内心穏やかではないだろう。

(どうか、何も起こらないでくれ)

 プロクスの退官まで、後三年。そうすれば、プロクスは王家との契約を終え、海を渡り、【商人連】の騎士ではなくなる。

(――彼女に、自由を)

 タイタニスは願わずにいられなかった。
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