滲む墨痕

莇 鈴子

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第三章 一日千秋

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 古いが大きく立派な木造二階建て家屋。その隣にひっそりと並ぶ、こぢんまりとした平屋――野島家の離れに帰ってきた潤は玄関戸の前に立ち、トートバッグの外ポケットから鍵を取り出した。鍵穴に差し込んで回し解錠すると、からからと引き戸を開けて中に入る。
 戸を閉め、静寂の中でため息をつく。近頃はここに立つたびに思うのだ。結局また帰ってきてしまった、と。
 玄関戸のすりガラス越しに射し込む昼下がりの光を背に立ち尽くしていると、藤田の家の広くて寒い土間が思い出された。そしてあの部屋の映像が甦り、彼の声と感触が溢れて全身に襲いかかってくる。
 甘く激しい記憶に身震いした潤は、高さのある上がり框にどすんと腰かけ、雪のついた黒いレインブーツを片足ずつ乱暴に引っ張って脱ぎ捨てた。
 正面にある障子を開ければ、八畳の居間に配置されたこたつとテレビと石油ストーブが目に入る。バッグを置いてこたつの電源を入れると、テレビ台の収納引き出しを開けてマッチを取り出し、ストーブの前に歩み寄り膝を下ろした。
 金網を引き上げて手前にひらく。火力調節ダイヤルを点火位置まで回し、マッチに火をつけたら、燃焼筒つまみを持ち上げて隙間から点火する。つまみを持って左右に数回動かし、燃焼筒のすわりを確かめてから金網を閉めた。
 筒が下から少しずつ赤くなるのを見届けると、潤は腰を上げた。
 部屋奥にある続き間の襖を開ける。壁際に鏡台とたんす、幅狭な上着掛けを置いた簡素な寝室に足を踏み入れた。紺色のダウンジャケットを脱いでハンガーに掛けると、押入れに歩み寄り、襖を開けた。
 仕切りの上に布団類、下には夫婦の少ない荷物を整理して置いてある。東京を離れるとき、服やバッグ、アクセサリーや雑貨などの多くを処分した。もともとたくさん持っているほうではなかったが、それでもいざ最小限に減らすとなると不必要なものの多さに驚いた。
 潤はその場にしゃがむと、端に置かれた黒い大きめのクラッチバッグを手に取った。そして収納ケースの裏側に手を伸ばし、壁との隙間に隠すようにして挟み込んである冊子を抜き取った。
 居間に戻り、こたつテーブルの上にバッグと冊子を置いて座布団に膝を落とす。バッグのファスナーを開けて薄い長方形をした漆塗りの箱を取り出し、ふたを開けると、仕切りの中にきちんと収まる書道用具が姿を現した。
 硯、固形墨、文鎮……そこから陶器製の水滴を手に取り、立ち上がると台所に向かった。障子を開けて部屋を出るとすぐ、玄関の隣に位置する板張り床の二畳ほどの狭いスペースにある。使い勝手がよいとはいえない。
 洗面台という気の利いたものがないこの住まいでは、料理だけでなく歯磨きや洗顔など水を使うときはすべて台所で済ませざるを得ない。風呂もないため母屋で借りている。東京にいた頃には想像もできなかった暮らしだが、生活が落ち着くまでの辛抱だと信じて順応してきた。
 流し台で手を洗い、水滴に水を入れると、ぎしぎしと音を立てる床を踏みしめて台所をあとにした。
 こたつに脚を忍ばせ、座布団の上に正座して背筋を伸ばす。バッグの中から筆巻、下敷き、半紙入りのファイル、折りたたまれた新聞紙を取り出し、道具一式を配置すると、水滴で硯に水を垂らし、墨を当てて磨りはじめた。しがらみを忘れ、無心になれる時間だ。
 三週間前――松の内が明けた八日に、美代子が遅いクリスマスプレゼントとして贈ってくれた書道セット。一見書道バッグには見えないものをわざわざ選んでくれたのだ。昼休み中にこっそり訪ねてきた彼女は、「若旦那様には内緒よ」とさわやかに微笑んだのだった。
 以来、毎日時間を見つけてはひとり黙々と書道に勤しんでいる。
 水と墨が混ざり合って液体の濃度が増し、高貴で清々しい香りがふっと立ち上がる。潤はいったん墨を置いて水滴を手に取り、陸に水を数滴落とすとふたたび墨を磨りつづけた。
 それを何度も繰り返して墨の海を作ると、固形墨を置いて深く息を吐き、冊子を手にした。
 夫に見つからないよう日時を指定してネット注文した顔真卿『多寳塔碑たほうとうひ』の法帖。顔法入門に適していると藤田が言っていたものだ。
 これまでそれを手本に独自に臨書を進めてきた。筆遣いがわからなければその都度調べ、顔真卿の書風に少しでも近づけるよう納得がいくまで練習を重ねた。
 藤田から教わりたいと何度思ったことだろう。
 この線はどう運筆すれば出せますか。この文はどのような意味を持つのですか。また連絡すると言っていたのは嘘ですか――。すべての疑問を呑み込んで、ただ書と向き合ってきた。
 昨日の続き『厭俗』から始まるページをひらいてたもとに置き、その筆法を食い入るように観察する。見ているだけでも充分愉しめるが、潤は筆を取った。
 穂に墨を吸わせ、黒く艶めくそれを硯の縁で丁寧に整えると、腕を構えて深呼吸し、白い紙に静かに穂先を降ろした。
 起筆は力強く打ち込む。横画は細く、縦画は太く、そして縦画の左は細く、右は太くなるよう意識する。横画の収筆は筆の弾力を活かし、起筆のときより強い筆圧で右斜め下に押し込む。左払いは鋭く、右払いは太く堂々と……。
 顔法には、向勢のほかに蚕頭燕尾さんとうえんびといわれる特徴がある。起筆が丸く蚕の頭のようで、右払いの収筆が燕の尾のようにふたつに分かれていることからそう呼ばれる。
 この起筆には、蔵鋒という用筆法が使われている。横画では右から左、縦画では下から上、と穂先を逆方向に入れてからもとの方向に戻し、穂先を線の内側に隠すように送筆する技法だ。穂先の形が表れずに丸みを帯び、沈潜した重厚な印象を与える。
 だがやはり藤田の説明どおり、多寳塔碑ではその特徴はひかえめである。しかしながら、ところどころにそれらしい筆遣いが見て取れる気もする。
 それを発見するたびに、藤田に連絡して詳しい書き方を尋ねたいという衝動に駆られた。彼はきっと「真面目だなあ」と優しく笑うだろう。そうして丁寧に、時間をかけて指導してくれることだろう。
 『厭俗』の二文字を書き、筆を置いてひと息つく。自分の中で納得がいくと、新聞紙――美代子が気を利かせて自宅から持ってきてくれたものだ――をテーブルの上に広げた。書いたばかりの書を乾かすためそこに置いておく。
 新しい半紙を用意すると、潤はふたたび筆を手にした。
 続きの『自誓出家』から始めて八文字を書き終えた時点で、硯には墨がなくなっていた。時間をかけて摩ってもすぐに減ってしまうのだ。
 潤は書道バッグから市販の墨液を取り出した。ふたを開け、硯に液を足し入れる。練習に時間を割きたいときはこうしている。
 臨書を再開し、さらに八文字書き進めた。『宿命潛悟』の最後の横画を押さえると、紙から静かに穂先を離した。半紙におさまるその四文字を眺め、口元を歪める。
「……下手」
 苦笑まじりの呟きが、いびつな心に冷たく沁みた。
 全部で二千字以上ある文字を毎日少しずつこつこつと書き進めてきたが、今書いている部分はまだ序盤だ。
 静まり返った孤独な時間。いつか途中で挫折するかもしれない。だが今はとにかく愚直にやるしかない。情熱と信念を試されているようなこの状況を乗り越え、志を貫きとおすことができたら、なにかが変わるのではないかと潤は願う。
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