滲む墨痕

莇 鈴子

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第三章 一日千秋

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 ふと、背後にあるトートバッグの中で短い振動音がした。
 休憩中の美代子が遊びにくるためにメッセージを送ってきたのだろうと潤は思った。義父の見舞いと食材の買い出し以外では家を出ずに書道ばかりしているので、人のいい美代子はときおり顔を見にきてくれるのだ。「私のプレゼントのせいね」と苦笑しながら。
 潤は背をひねってバッグからスマートフォンを取り出した。そうして画面に表示されたショートメッセージの送り主を見て、息を止めた。
 藤田千秋先生――その登録名が、あの低い声を甦らせる。
――東京へ行きます。逢えませんか。
 すぐに内容を確認したい気持ちを抑え、急に激しく打ちはじめた胸の鼓動を鎮めることに努める。
 誰かからのメッセージをひらくだけのことがこれほどまで気力を要するものだっただろうか。初恋――そのような甘く淡いものとはほど遠い、恐怖と緊張感に侵された奇妙な興奮。不穏な感情を宿す胸に手のひらを押し当て、通知画面に指を滑らせた。
『明日、東京へ行きます。』
 目に飛び込んできた文字列に、潤は深く息を吐き出した。
 短いメッセージの中には、最寄り駅を十三時三十五分に出発する電車に乗ると示されている。途中の駅で新幹線に乗り換えるのだろう。
 一緒に行きましょう、とは書かれていない。だが出発時刻を知らせてきたところになにかしらの意図は感じる。
 この瞬間を待ち望んでいた。メッセージをひらく瞬間、自身の置かれた環境をすべて忘れて藤田だけを想い、焦燥感にまみれ、あの夜の続きを想像せずにはいられなかった。そのような瞬間を味わえただけで充分だ、と心に言い聞かせる。
 潤は返信欄に『私は行けません』と入力した。送信せず、そのひとことをぼんやりと眺める。行けるはずがない。行けるはずがないのだ。
 しかしふと思い立ち、入力した文字をひとつずつ消していった。目の前にある自分の書に目をやってから、ふたたび画面に視線を落とした。
『多寳塔碑を臨書しています。でも思うように書けません。どうすればいいですか?』
 そう入力しなおし、送信した。藤田のメッセージの内容を無視しているが、今もっとも彼に伝えたいことはそれだった。
 ふと部屋の中の明るさが頼りなくなった。空に雲がかかったのか、窓から射し込む陽の光が弱くなったのだ。潤はこたつから身を引いて立ち上がり、照明の引き紐を引いて電気をつけた。
 こたつに入り、しばらくじっとして待つも返信はない。唐突すぎたかもしれない。気が急いて、しかしそれを紛らわす術もなく、臨書の続きをすることにした。
 法帖の筆跡を熟視し、書く。そのあいだも心臓は内側から胸を殴ってくる。ひと文字書き終えるたびにテーブルの端のスマートフォンを気にしつつ、手を動かす。
 メッセージを知らせる短い振動が鋭く響いた。びくりと肩が震え、紙を滑る筆にそれが伝わり線が歪んだ。しかし手を止めずに四文字しっかりと書き終えてから、潤は静かに筆を置いた。
 スマートフォンを掴み、送信者が藤田であることを確認する。ひとつ息を吐いてから、おそるおそるメッセージをひらいた。
「……ん?」
 画面に映し出されたのは不可解な文章だった。
『点は墜石の如く、画は夏雲の如く、鉤は屈金の如く、戈は発弩の如し』
 どう返信すべきか考えていると、続けてふたつの文章が表示された。
『点は石を落としたよう、線は夏の雲のよう、転折は金属を曲げたよう、戈法は強弓を放つよう。顔真卿の楷書はそう評されています。』
『情景を想像して、思い切って書いてみてください。臨書は大切です。しかし技術ばかりに気を取られると字が萎縮してしまいます。』
 藤田の指摘どおりだった。誰が見ているわけでも、誰に見せるわけでもないのに、うまく書こうと一点一画にこだわりすぎて気持ちがすっかり縮こまっていた。
「点は石を落としたよう……」
 潤は声に出して読みながらイメージを膨らませていく。地面を叩く石、むくむくと立ちのぼる巨大な雲、ぐいと曲げた金属、弦を強く張った弓を引いて勢いよく放つさま……。
 すると、画面にはさらにメッセージが追加された。
 そこに現れた一文は、一瞬で潤の心を奪った。
『紙の上では、あなたは自由です。』
 スマートフォンを手放し、書を新聞紙の上にさっと置いた潤は新しい半紙を用意した。意味がわからずとも印象的な言葉だと思った『宿命潛悟』を、藤田の教えを反芻しながらもう一度書いてみようと思った。
「今だけ、自由」
 呟き、筆を取った。
 この白い紙は、なにをしても誰にも咎められない、誰にも知られない、自分だけの場所。小さな、しかし無限に広がる想いの集結点。そう思うと根拠のない自信がみなぎってくる。
 筆に墨をたっぷりと含ませる。腕を構えると、紙背まで気を貫くような気持ちで一画目の点を打った。その勢いを止めずに、二画目、三画目、強い心のまま筆を押し込む。
 書きながら気持ちが溢れてくる。
――もっと激しく、もっと大きく。昔のように、太く堂々と……!
 耳を撫でる、筆が紙の上を這うかすかな音。空気の流れを感じさせるそれは、胸の中を清々しく吹き抜けていく。
 だが強風にはほど遠い。顔真卿の書、あるいは藤田の『潤』を目の当たりにした瞬間の、あの激しい風の揺さぶりには到底及ばない。なにもかもが足りない。強い憧れだけを頼りに、潤は迷いを跳ね除けるように筆を揮った。
 最後の一画を打ち込み、筆を置く。書き終えたばかりのそれと一度目の書を見比べる。より抑揚のある線質になり、生き生きとして見える。しかしひどく感情的で、醜い字だった。
「……ふふ」
 自然と口角が上がり、笑いが漏れた。悲観的な笑いではない。
 潤はスマートフォンで書を写真に収めると、メッセージを添えて藤田に送った。
『できました。おかしな字でしょう?』
 一分も経たずに返信がきた。
『いいえ。美しいです。僕は好きですよ。』
 潤は小さく噴き出した。
「また美しいって言った……」
 呟き、書をじっと見下ろす。
 どう見ても醜悪。藤田はこれのどこに魅力を感じたのか。そう思うと、直接その口から聞きたくなった。
 電話してしまおうか。その甘えを胸の奥に押しとどめ、返信を打つ。
『嬉しい。ありがとうございます。やっぱり藤田先生は褒めるのが上手です。』
 画面上に連なる互いのメッセージにその文が追加されて数秒後。画面が通話着信時のそれに変わり、スマートフォンが鈍い機械音とともに振動しはじめた。
 どくり、と心臓が強く鳴った。息を呑む。
 黒い画面に表示された“藤田千秋先生”の文字。掌中で唸りつづける端末。続けざまに激しく打ち鳴らす鼓動の中、潤は無意識に部屋を見まわしてから、かすかに震える細い指で“通話”に触れた。
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