滲む墨痕

莇 鈴子

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第一章 顔筋柳骨

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 陸と呼ばれる硯の平面部分に、水滴上部の空気穴を指で押さえながら醤油差しの要領で水を数滴落とす。そこに固形墨を硯に対して斜めに接するように当て、“の”の字を描くように優しく磨っていく。
 墨の磨り方には、硯に対して垂直に接地させる方法、N字を描くように磨る方法と様々あるらしいが、やりやすいものを選べばよいという。
 ひとつひとつの名称を教えながら丁寧に指導する藤田の声に頷き、潤は左手で硯をそっと支えつつ右手を静かに動かした。す、す、と硯と墨がこすれるかすかな磨り音が心を静めていく。
 隣でそっと発された低い咳払いが、妙に色っぽく耳に届いた。肌がじんわりと熱を帯びてくるのがわかり、墨を持つ手がかすかに震えはじめたが必死に抑える。藤田の存在を意識していることを本人に悟られないよう、潤はできる限り心を無にして磨りつづけた。
 水と墨が徐々に混ざり合い、ある程度濃度が出るまで根気強く磨っていくと、墨の香りがふっと立つ瞬間があるという。そうしたら、水を足してまた磨る。これを何度も繰り返せば、海と呼ばれる硯上部のくぼみに墨液が少しずつ流れて溜まっていく。
 三十分ほど経っただろうか。
「うん。それくらいでいいでしょう」
 藤田の柔らかな声にほっとして手を止める。用意されていた布で墨についた水分を拭き取り、墨置きに立てかけた。
 硯の海には、文字どおり墨の海ができあがっていた。
 とても静かに、胸が昂っていく。
「なんだかとても、心地よい達成感がありますね」
 自然とこぼれた吐息まじりの声は、意思とは裏腹に艶めいていた。それを隠すように潤は言葉を続ける。
「こちらでは子供たちも磨った墨を?」
 藤田が首を小さく横に振った。
「親御さんたちはやはり字の上達を望まれて子供を預けてくださるので、基本的には練習時間を重視しています。ですが月に一度、自分で墨を磨ってから書くという時間を設けています。市販の墨液との違いをわからせるというよりは、墨の香りを感じたり、磨るときの感触を愉しんだり、これから書く文字の構想を練ったり、ゆっくりと静かな時間を過ごしてほしいという思いのほうが強いですね」
 その話に感心して頷く潤に、藤田は肩をすくめて苦笑した。
「人によっては、僕のやり方はちょっと面倒くさいと思うかもしれません」
「そんなことありません。大切な時間だと思います」
「ははは、ありがとう。幸い子供たちにも受け入れてもらえています。自分を見つめ直せるとか、疲れた心が癒されるなんて大人びたことを言う子もいますよ」
「ふふっ」
 思わず肩を震わせて笑うと、おのずと緊張がほぐれていった。
「では書いてみましょうか」
「はい」
 ついに、筆を手にして字を書くときが来た。
 半紙の表面を触って、よりなめらかな質感のほうを表にして下敷きの上に置く。紙の上部に文鎮を乗せれば準備完了だ。
「なにか書きたい字はありますか」
「書きたい字。ええと……」
「なんでもいいですよ。なければこちらで指定します」
「んん……」
 そっとまぶたを下ろし、わずかに首をかしげて考える。静かで暗い視界の中、ある四字熟語が白く浮かび上がり、はっと目を開けて隣に顔を向けた。
 そこにあるのは、唇を薄くひらいて呆けたようにこちらを見つめる男の顔だった。潤が目を閉じてから一瞬で誰かと入れ替わってしまったのではないかと思うほど、藤田の纏う空気は言いようのない艶を放っている。
 自分でもその変化に気づいたのか、彼はそっと視線を外した。
「ああ、っと、思い浮かびましたか」
「は、はい。……初志貫徹」
 その言葉を口に出すと、今の自分にはあまりにもハードルが高い気がして恥ずかしくなった。
「難しくてうまく書けないでしょうけど」
 悲観的なことを呟いた潤とは反対に、藤田は興味深げな視線をよこした。
「なにか深い思い入れが?」
「そうですね……。言葉の意味を知ったのが小学生のときで、子供ながらにそんな生き方に憧れていました。それで、学校の書き初め大会で好きな言葉を書くことになって」
「書いたのですね」
「はい。大きな字で、堂々と。そのときの心から満足できた記憶が、なぜだかずっと残っているんです」
 熱のこもった言葉に自分で照れて思わず俯くと、後れ毛が落ちてきた。すばやく耳にかけた直後、近くで低い咳払いが聞こえ、藤田が言った。
「一度自由に書いてみてください。僕は少し離れたところにいます。わからないことがあったら訊いてください」
 そう言い残し、立ち上がった彼は潤の視界からいなくなった。裸足で畳を踏む音が後方に移動し、そのどこかに座る気配がして、部屋は静けさに包まれた。
 潤は、筆を取った。斜めに傾けて墨に浸し、穂の根元までたっぷり含むよう筆を回転させる。乾いた毛が漆黒に濡れたら、毛先に溜まった墨を硯のふちで撫で落とし整える。
 親指、人差し指、中指の三本で筆の軸を持ち、薬指と小指で軽く支える。穂を真下にして真っ直ぐにし、肘を机から離して、机と肘が水平になるように構えた。
 少しだけ背後が気になるが、目の前に神経を集中させる。この言葉を半紙に書くのは初めてだ。小学生の書き初めで使った三枚判は半紙を縦に三枚連ねた大きさ。今回は大きく縦一行ではなく、二行でバランスよく書かなければならない。潤は白い半紙に完成形を思い浮かべ、小さく息を吐いた。
 半紙の右上部の一点を目指して筆を入れる。『初』の一画目。斜めに入れ、少しだけ左に抉るように押さえる。思い描いた雨露のような形になった。
 二画目は最後の払いに気をつけて、三画目は真っ直ぐな縦線。筆遣いはかろうじて身体が覚えているようだが、こわごわ運んだせいか線が歪み、墨が少し滲んでしまった。
 一筆入魂、と心の中で気合を入れ、丁寧に、しかし躊躇せずに書いていった。『志』は心の部分が苦手だった、『貫』は縦のバランスを考えながら横線を引くのに苦労した、『徹』は画数の多さのわりに得意だった、などと思い出しながら。
「……できた。初志貫徹」
 自身に言い聞かせるように呟き、潤は筆を置いて深く息を吐き出した。
 振り返ってみると、藤田は続き間の襖の前であぐらをかいて目を閉じていた。まるで瞑想でもしているようだ。
「先生……」
 ひかえめに呼んでみたが、聞こえなかったのか藤田はまったく動かない。もしかしたら寝ているのかもしれない。潤は立ち上がり、静かに畳を踏みしめて藤田のもとへ歩み寄った。
 音を立てないように、こっそりと膝を落とす。藤田は静かな呼吸を繰り返している。よくもこんなふうに座ったまま寝られるものだ。
 こうして無防備な表情を見ると、精悍な顔立ちの中に優しさが隠れているのがわかる。はじめはこの無精髭のせいで無骨な印象をもったが、髭を剃れば変わるかもしれない。
 ふいに、そのまぶたがぴくりと動いて薄くひらいた。潤が視線をそらすよりも先に、まだ焦点の定まらない瞳で潤を捉えた藤田は目を丸くした。
「あれ……僕、寝ていましたか」
「は、はい。たった今起こそうと思って……」
 潤は小さな嘘をついた。ひそかに顔を眺めていたなどと知られれば気味悪がられてしまうと思ったからだ。
 その秘密を知る由もない藤田は、頭を下げて「すみません」と呟いた。
「今日は野島さんに迷惑をかけてばかりだ」
「いいえ。きっとお疲れなのでしょう」
「申し訳ない」
「先生は謝ってばかりですね」
 苦笑を返した藤田が腰を上げようとしたので、潤は先に立ち上がり机に戻った。あとをついてきた藤田は、完成した『初志貫徹』を見下すと、なぜか静止して黙り込んでしまった。
 机の前に正座した潤は、隣でゆっくりとあぐらをかいた彼がひと言目になにを発するのか怯えながら待った。
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