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水仙の誘惑
水仙の誘惑 -1-
しおりを挟む「あの、どちらまで?」
咲は車の助手席で、花音に尋ねた。
「隣駅にある喫茶店まで」
「喫茶店?」
「うん。ちょっと人と待ち合わせているんだ」
「人と?」
あまり詳しい事情を話さない花音に、咲は眉根を寄せた。
「ごめんなさいね、咲さん。お付き合いさせてしまって」
そんな咲を気遣って、後部座席の文乃が謝辞を述べる。
「実は私の友達と待ち合わせをしているの」
「そうなんですか」
咲は曖昧に笑って応じた。
──それで私はなんの理由で付き合わされているのだろう?
花音と彼の元カノとの空間に戸惑い、咲はチラリと花音を窺った。視線に気づいているのかいないのか、花音は涼しい顔で運転を続ける。
「咲さんは華村ビルに引越してきて、どれくらい経つの?」
文乃が尋ねた。
「そうですね。だいたいニ週間くらいです」
「ニ週間? それなら、つい最近引越してきたのね」
「はい。今まで実家暮らししていたんですけど、色々ありまして。花音さんの好意に甘えて住まわせてもらっています」
そうなの、と文乃が頷いた。
「あそこはそういうところだものね」
懐かしそうに笑う。
「そういうところ?」
「訳あり人間の住む処」
「訳あり人間の住む処……」
なるほど、そうなのかもしれない、と咲は思った。
「私も、昔、あのビルに住んでいたのよ」
「文乃さんが?」
「ええ。五年ほど前に」
つまり文乃さんも訳あり人間だったわけだ。
「花音さんに……あ、武雄くんのお祖母さまに助けていただいて」
「文乃さん、その話は」
それまで黙って二人の話を聞いていた花音が顔をしかめた。
いいじゃない、と文乃は笑って続ける。
「私、昔、ホステスをしていてね……」
「ホステス?」
意外な職歴に咲は目を見開いた。咲の想像では、ホステスとはもっとイケイケでギラギラした人がなる職業だと思っていた。
文乃はそれとは全く逆の穏やかで控えめで上品な印象だ。
「そう。ちょっと名前の知れたところの高級クラブでね」
そうなんですか、と咲は頷いた。
ホステスは意外だったが、『高級クラブ』というところには納得がいった。
「ということは、花音さんとはそこで知り合ったんですか?」
咲の問いに、「なんでさ」と花音が呆れ声を上げる。
「え? 違うんですか?」
「あのね、咲ちゃん」と花音は大袈裟にため息を吐き出し、眉をひそめた。
「僕、そんなところにいくような男に見える?」
「見えるというか……」
咲はチラリと花音を見上げた。
「男の人はみんな行くものだと……」
「行かないよ。大体、そんなに女性との出会いに困ってないし」
「そうなんですか?」
「そう」
花音は憤懣やるかたないというように鼻息を荒くした。
「──花音さんって、意外にチャラいんですね」
「は?」
予想外の返しに花音が目を丸くする。
「だって、女性に困っていないなんて……」
「いやいや、違うでしょ。『女性との出会い』に、でしょ。誤解を招くようなこと言わないで」
「同じですよね」
「全然違うよ」と花音は肩を竦めた。
「仲がいいのね」
二人のやりとりを眺めていた文乃がクスクスと笑う。
「でも、まぁ、武雄くんの名誉のために言っておくと、最初に知り合ったのはお祖母さまの方なの。武雄くんは、クラブには来ていないわ」
「そうなんですか?」
「そうなの。武雄くんのお祖母さまがクラブにお花を生けに来ていてね。それで知り合ったの」
それは生け込みというやつですね。
咲は頷いた。
「当時、私、ストーカー被害にあっていて」
「ストーカー被害?」
「ええ。ちょっと悪質な客がいてね。それで武雄くんのお祖母さまに相談したら、華村ビルに住まないかって言われたの」
「『うちにはいい用心棒もいるから』って」
いい用心棒って、花音さんのこと?
チラリと花音を一瞥する。
身長はわりと大きいほうだけど。中性的で柔らかな物腰の花音には、とても用心棒なんて荒っぽいことは勤まらない気がした。
「それであそこの五階に住むことになったの」
文乃はそう言って笑った。
五階に住んでいた、ということは付き合っていた花音もよくその部屋を訪れたのだろう。
内見のとき、部屋の事情に詳しかったのは、そのせいなのかもしれない。
色々勘ぐっていると、「もういいですか、文乃さん。そろそろ待ち合わせの場所に着きますよ」と花音が話を遮った。
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