天狗の囁き

井上 滋瑛

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第二十一話 九州

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 広家は小姓に命じて追加の冷や水を要求した。
「問題はここからだ。
 九州はどうにもわからんのが揃っておる。
 黒田、龍造寺、大友、立花、加藤、小西、高橋、秋月、伊東、島津」
 羅列したのは九州に所領を持つ主だった大名家。
 その中で黒田家は既に長政が五千四百の兵を動員して家康の元、会津征伐に従っている。
「龍造寺はほぼ鍋島に取って変わられているが、逆にわかりやすい。
 鍋島は恐らく内府につく。
 大友の先代は其方も知っておる様に強敵であり、面白い人物であったが、当代は極めて凡庸でな人物だ。
 去年朝鮮での、失態による幽閉からは赦されたが、どうせ家中の事で精一杯だろう。
 どちらについても大した動きは取れん。
 立花は偏屈なところがあって判断が難しい。
 加藤殿は先年の島津家庄内での内乱で裏工作が明るみに出て、内府より謹慎を言い渡されておる。
 治部につくとも思えんが、内府次第であろう。
 小西は治部。
 そして島津……どうにも昨今、当主(義久)と弟の鬼島津(義弘)で意見の相違が頻発しているらしく読み難いが、ちょうど鬼島津は上方に来ておるらしい。
 鬼島津の武勇は未だ衰えておらぬ上、誇り高き武人。
 求め、頼りにされれば彼の性格上どちらについてもおかしくはない」
 ここで広家は言葉を止め、一つ大きく深呼吸をした。
 広俊はそれにつられるように大きく息を飲む。
 ここからが本題になる。
「なんとも読めないのは九州であるが、各陣営が動員できそうな兵数の予測をたて、我ら毛利家が動員できる兵の数を足してみよ」
 そう問われた広俊は暫しの間宙を睨み、指を折る。
 やがて広俊はある一つの事に気付く。
 広俊の表情を見て広家は『気付いたか』と言って再び話しだす。
「全て皮算用に過ぎん。
 しかし仮に毛利が治部につけば、数の上では兵数的には拮抗する。
 更に言えば毛利が治部につく事によって、内府方から治部方に引き込めそうな者もおる。
 勝算がないとは思わない。
 だが、治部につけば毛利は滅ぶのだ。
 戦の勝敗に関係なく」
 そう言って広家は九州を指し示した。
 広俊は怪訝な表情をする。
 広家は豊後国を指している。
「黒田……殿ですか」
『黒田……如水軒か』
 広俊の声と天狗の声が重なる。
 だが食い違っている。
 広俊は豊後の地を離れた長政の事を言い、天狗は豊後の地に残る官兵衛の事を言っている。
 そしてこれこそが広家が毛利を危ぶむ一つだ。
 父元春や叔父隆景に限らず、かつて小国であった毛利を支えてきた宿将は既に亡く、その子弟らは彼らが残したあまりに大きな功績をその目で見ず、伝説として耳で聞いて育った。
 この広俊もその一人だ。
 そしてこの俊英も、戦国を生き抜いてきた英傑の持つ伝説の恐ろしさを知らない。
「式部(広俊)、儂が指しておるのは甲斐守ではないぞ。
 その父御、如水軒殿だ」
 黒田官兵衛孝高。
 現在は剃髪し、如水軒円清を号す。
 その齢五十五。

「豊後は既に甲斐守が内府と共に関東におる。
 しかし如水軒殿が兵を興し、そして―」
 広家は次に肥後、肥前を指す。
「―加藤殿、龍造寺鍋島辺りを抱き込めば、上方に兵を出している九州諸侯の平定など、一ヶ月もかからぬだろう」
 それに対して広俊は少し不思議そうな表情で広家に問う。
「しかし如水軒殿は既に隠居された身。
 兵の大半も既に甲斐守が引き連れて今は関東。
 言葉にするのは容易いですが、そう上手くいきますかな」
 広家は少し身を乗り出し、諭すように言う。
「凡百といる隠居爺ならその通りだ。
 しかし如水軒殿はそれが出来、やる御仁なのだ。
 先年太閤が亡くなられた後、儂の元に如水軒殿から一通の書状がきた。
 なぜかあの御仁は黄梅院様共々、かねてより儂を懇意にしてくれておったからのう。
 その書状にはこう書かれておった。
『かようの時は仕合わせになり申し候。
 はやく乱申すまじく候。
 そのお心得にて然るべき候』」
 意訳すると『近く天下大乱が起こるであろう。
 その心積もりでいるのがよろしかろう』との忠告だ。
 広家はようやく息を飲んだ。
 隠居の身と侮った官兵衛の慧眼を知らされたのだ。
 当然此度の騒ぎに対して、表だってではないにしても、何かしらの備えをしていたであろう。
「これは甲斐守から聞いた事だ。
 かつて総見院(織田信長)が秀岳院(明智光秀)に討たれた際には、当時の豊国大明神に『武運が開けますな』と語ったとも言われている。
 そんな御仁を背に、長きに渡って安芸の兵を上方に動かして治部につけば、毛利家は間違いなく滅ぶ。
 治部の挙兵を聞いた際、儂から『何があろうとも安心して、安芸より動かれぬように』と、書は送ってある。
 安芸中納言様が上坂されるなど、万が一にもあってはならぬ」
 広俊の顔色が緊張に染まる。
 広家の話を聞き、毛利が三成方につく危険を察した様だ。
「儂は確かに黒田甲斐守と親しくしており、如水軒殿とも書を交わすなどしておる。
 だが意味は異なる。
 甲斐守は友としてだが、如水軒殿は偉大なる乱世の謀将。
 近しくおかねば、何を考え、どう動くかわからぬ。
 これは儂が吉川の家督を継ぐ時、黄梅院様より受けた訓戒でもある。
 例えこの身は大坂にあろうと、目は九州より離せぬのだ」
 今の毛利家は、伊達政宗、最上義光に警戒を怠れない上杉家と同じ状況であり、且つそれが分かりにくい状態なのだ。
 これでもし『勝てば毛利の天下』等と吹聴し、輝元を三成方の総大将に担ぎ出そうとする者があればどうだろう。
 輝元はその甘言に吊られはしないだろうか。
 そしてその甘言を弄しそうな男がいる。
 広家を大坂に呼び出した安国寺恵瓊だ。

 恵瓊は元就の代から毛利に仕える臨済宗の外交僧だ。
 外交交渉の窓口として、能弁を振るってきた。
 特に、毛利と豊臣の取り次ぎ口が三成となってからは殊更に評価され、毛利家中でも大きな発言力を持つようになった。
 そこには当然三成の介添えがあった事であり、三成と恵瓊は非常に近しい。
 しかし隆景没後からは、まるで家宰を気取るような物言い、増長の気があり、広家は好ましく思っていなかった。

 無言で一頻り思案した広俊は重く口を開いた。
「某からも安芸中納言様に書を送りましょう」
 広家は大きく頷いた。
「是非そうしてくれ。
 儂よりもすぐ側にいる機会が多い其方からの方が、安芸中納言様も聞き入れやすかろう」
 だが広家は内心大いに頭を抱えていた。
 広俊の発言の内容は裏を返せば『輝元は甘言あれば乗るであろう』事を意味している。
「しかし肝心の坊主はいつ来るのであろうかのう」
 広家は眩しそうに外を見る。
 いつの室には強い西陽が差し込んで来ていた。
 丁度その時であった。
 一人の小姓が室に入ってきた。
「瑶甫(安国寺恵瓊)様がご到着でございます」
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