天狗の囁き

井上 滋瑛

文字の大きさ
上 下
17 / 26

第十七話 継承

しおりを挟む
 隆景の話に区切りがつくと、元長の息遣いが変わった。
「又次郎……その友は大切にせよ……」
「兄上、起きておられたのですか」
「寝てはおらぬ……
 全て聞いておった……」
 床に伏せた元長は目を閉じたまま言う。
「ところで……何故大和大納言殿を斬ろうとしたのだ……」
「いや……何故と言われましても、決して二心あった訳ではなく、咄嗟の事で体が勝手にと申しますか……」
 自覚なき動機を聞かれた経言は、困惑しつつも素直に答える。
 元長は力なく、だがどこか楽しそうに小さく笑う。
「理由なく咄嗟に斬られては……大和大納言様もたまったものではなかろう……」
 すると隆景が口を挟む。
「いや、理由がおろうともいかんぞ。
 もし備えを以って、忠心を試していたとすればどうだ。
 全く其方ら兄弟は、時にとんでもない事をしてくれようとする。
 若き頃の随浪院様と同じだ」
 経言は疑問を持った。
 それは脳裏の天狗も同様だった様だ。
『“其方ら兄弟は”、とは如何なる事か。
 兄も何か、しでかした事があるのか』
 問われても、経言にもわからない。
 長政に話したように、父元春も若かりし頃は破天荒な人物であった事は聞いていた。
 だが兄元長はその様な事はなく、名将へと成長した元春に、そして伯父隆元にも似た真面目な性格と言われ、経言もその認識だった。
「左衛門佐様。
 儂は兎も角、先程も『其方ら兄弟は』とは、過去に何かあったのでございましょうか」
 すると隆景は少し驚いた様な表情をした。
「なんだ、又次郎は知らぬか。
 まぁ儂が少輔次郎に誰にも話すな、と言ってはあったのだが」
 隆景が元長を見ると、その視線を感じ取ったかの様に元長の目がゆっくりと開かれた。
「大坂で、関白を斬ろうとした……」
 経言は驚いて聞き返した。
「兄上、今何と申されました。
 関白を……何と……」
 目を大きくして元長を、そして隆景を見る。
 すると隆景が元長の代わりに話す。
「四国平定後に儂と少輔次郎が大坂で関白に拝謁したのは知っておろう。」
 経言は黙って頷く。
「その時、随浪院様から密かに言われておったらしくてな。
 常に献上品の一つにあった太刀と関白の位置を確認しながら、関白が隙を見せたら斬りかかろうとしておったのだ。
 流石に関白も少輔次郎のただならぬ眼光に気圧されて警戒しておったのだが、時折隙をみせるのだ。
 その都度、儂が少輔次郎の袖を引いておった」
 経言は初めて聞いた兄の逸話に唖然とした。
「まさか兄上が、随浪院様からの密命とは言え、その様な事を……」
 すると元長が苦しそうに身を起こそうとした。
「いや……随浪院様から『少しでも隙あらば斬れ』と言われていた事もあるが……
 私自身も鳥取や……高松のわだかまりが残っておってな……
 もし斬れたならば“今荊軻”とでも、史に名を残せたのにのぅ……」
 経言は膝立ちになり、元長の体を押さえる。
「兄上、無理をなさらないでくだされ。
 寝たまま、体を労ってくだされ」
 ところが元長の体を押し止める事ができない。
 触れる手から感じる元長の体は冷たく、生気を感じない。
 死の間際に触れた、父の体と同じだ。
 しかし苦痛に顔を歪めるものの、元長の眼光は鋭く力強い。
 身を起こそうと体を支える腕は、痩せ細りながらも鋼の様に強固。
 経言は逆に押し返され、尻もちをついた。
「そんな事よりもだ……
 覚えておるか……父上に真っ向から初陣を願い出て……
 叶わぬなら私に連れて行けと言った事を……」
 自身を押しのけて起き上がった元長に圧倒され、経言は驚きの表情で何度も頷く。
「二宮木工助の静止を振り切って、一揆衆に詰め寄って間道を突き止め……
 尼子の背後をつけば、先頭をきって敵陣を駆け抜けてきた……
 無知ゆえの無謀もあっただろうが……私も及ばぬ勇を持っていた……
 私は関白に対して……太刀を掴む事も……触れる事も出来なかった……」
 元長は言葉を区切り、小さく咳き込んだ。
 経言は慌てて元長の背を擦ろうと、体を寄せる。
 だが元長はそれを拒み、指で“いいから座れ”と床を差し示した。
「そしてあの日から其方は兵法、軍略を学び、智を得た……
 だが、それと同時に恐れも知った……
 己の無知を知り……己の不足を知り……そして無謀を忌避するあまり、勇を忘れた……
 いつの頃からか……失うを恐れて、責から逃げ……
 随浪院様や、左衛門佐様の前で萎縮し……
 何かあればその場だけの、取り繕った物言い……
 私や左衛門佐様が期待するのは、そんな賢しい机上の弁者ではない。
 恐れに克ち、勇を持つ武士だ」
 元長は再び言葉を区切って大きく息を吸い、そして咳き込む。
 今度は経言も動かない。
 十三離れた兄が、最後の力を振り絞って伝えそうとしている。
 膝に置いた拳に力を込める。
 握りしめるのは目に映らぬ心の筆。
「勇と無謀は紙一重。
 時に無謀にも思える、決断を迫られる事もあろう。
 だが惜しむらくは、今や毛利にその勇を備える者も、勇を知る者も少ない。
 其方の勇を以た決断に、勇無き者は“うつけ”と言うかもしれない。
 それでも其方はその責から逃げてはならん」
 元長の語気が次第に強くなる。
 身を乗り出して経言の肩を掴む。
 蒼白ながらも、鬼気迫る表情。
 冷気すら感じるが、肩を掴む手の力強さ。
 それは現世に顕在した仁王か、はたまた地底より湧き出た阿修羅か。
 経言はその迫力に圧倒され、思わず身を反らしそうになった。
『引くな経言。
 兄が最期の死力を尽くし、お主に伝えておるのだ。
 お主も全身全霊で受け止めよ』
 天狗の叱咤に背を押され、経言も腹に力を込めて姿勢を保つ。
「勇を以て毛利を護らねばならぬ。
 それが吉川家当主の責。
 其方ならばそれが出来る。
 己を守ろうと思うな。
 毛利なければ吉川も他の庶家もない。
 だが今後の其方次第で、理解してくれる知勇の士は必ず現れる。
 毛利家内外問わず其方を慕い、頼り、そして支えてくれる者が必ず現れる。
 黒田の吉兵衛殿もその一人かもしれん。
 其方は一人ではない。
 全ては今後の其方次第だ」
 そこまで言い切ると元長は激しく咳き込み、布団に突っ伏した。
 顔を伏せた布団が赤く染まる。
「兄上」
 経言が叫ぶ。
「典医を呼んでまいる」
 それまで黙っていた隆景が室を飛び出す。
「兄上、兄上」
 必死に呼びかけながら、経言は元長を助け起こし、血に汚れた口元を袖で拭う。
 元長は目を細めて柔和な笑みを浮かべていた。
「其方が羨ましい……」
 思いも寄らない言葉だった。
 経言は悲痛と困惑の混じり合った表情で、首を左右に振る。
「一体何を言われる。
 儂には、兄上から羨ましく思われる所なぞ……」
「父の背を追い、仁を学び、智を納め、勇を鍛えてきた……
 だが父を越える事能わず、天命が尽く……
 後世の人からは、ただ元春の子としてのみ記憶の片隅に置かれ……
 やがて路傍の草花と同じく、忘れ去られるだろう……
 武門に生まれた者として、なんと口惜しい事か……」
 声の調子が徐々に弱くなる。
 元長はゆっくりと目を閉じた。
 経言は肩を震わしながら、懸命に首を振り続ける。
 元長の言葉を否定するように。
「其方は私以上の勇がある……
 学び得たものを、己のものとして示す智もある……
 敵陣を駆け抜け、私の身を案じた仁もある……」
 いつ途切れてもおかしくない程に、語気は弱く、か細い。
「其方ならば私は無論の事、父をも越える武士になれる……
 元春の子としてではなく、吉川又次郎経言として、その名を天下に示し、吉川家、毛利家を―」
 遂に元長の言葉が途切れた。
「兄上……」
 腕の中の元長は答えない。
「兄上……兄上……“吉川家、毛利家を”何でございましょう」
 経言は声の震えを必死に押し殺して問いかけた。
 途切れた言葉の続きを解さない経言ではない。
 それでも寝息もたてずに眠る元長に呼びかけた。
 胸の底から込み上げるものを押さえようと。
 眼の前の事実、現実を受け止めまいと。
「しかと最後まで申していただかにゃ、このうつけにはわからんけぇ……
 兄上、目を覚ましてつかぁさい……
 兄上……兄上……」
 それでも元長が目を覚まし、経言に応える事はなかった。

 天正十五年六月五日。
 吉川治部少輔元長、日向都於郡の陣中で病没。
 享年四十歳。
 子はなく、家督は元春三男の経言が継承した。
 次男元棟は健在であったが、病弱であった為と言われる。

 その後の九州の国分は黒田孝高に豊前国の内六郡、佐々成政に肥後国の大半を、そして小早川隆景に筑前・筑後・肥前1郡が与えられる等、大きく変化する事となった。
 平穏を迎えたと思われた九州だった。
 しかし佐々成政が領国化を急ぐあまり、性急な検地を推し進めた事で国人衆の反発を招いてしまった。
 肥後国人衆の不満は一揆となり、それは他国にまで波及。
 経言は鎮圧の援軍として再度九州の地を踏み、
ここでも武功を上げ、そして黒田孝高、長政父子との更なる交流、親交を深める事となった。

 また9月には毛利輝元から、毛利氏の祖先・大江広元の諱から「広」の一字書出を与えられ、「経言」から「広家」と改名する。
しおりを挟む

処理中です...