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第56話 黒い獣①

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「『逃げ』……ですか。」
「ああ。もし遠距離攻撃を使うやつがいたら、それがどんな魔物でも、逃げることを第一に考えてくれ。」

 それを聞いて、スゥとリーシャは、少し納得いかない様子だった。

「でも、遠距離攻撃なら、こっちもリーシャができるのだ。相手が弱そうなら、なんとかなるんじゃないのだ?」
「同感よ。どんな魔物でもっていうのは、大げさなんじゃないの?」

 二人の言葉に対して、ロルフはしっかりと首を横に振った。

「お前達のパーティーは、エトが攻撃を引き付けて回避、リーシャが攻撃魔法で攪乱、その隙にスゥの近接攻撃を当てる、連携攻撃が主体だ。この時、遠距離からエト以外が攻撃されるとどうなる?」
「!」

 三人共、はっとして口を紡ぐ。

「エトは攻撃を受けられないから、遠距離攻撃から他のメンバーを守れない。もしそれで回復役兼司令塔のリーシャが落ちれば、もはやパーティーとしては戦えないだろう。いいか、戦闘においては、常に最悪のケースを意識してくれ。」

 リーシャとスゥが頷くのを横目に、エトは拳を強く握った。

 『守れない』――。
 その言葉の重みが、鈍く胸に響いていた。


+++


 黒い、獣。

 地面に片手を叩きつけ、無理やりに体を引き起こしたエトの目に映ったのは、今までに見たことも無い魔物の姿だった。

 熊よりも一回り大きいくらいの体に、血管のように赤い筋が走って、脈打つように光っている。
 黒い体は境界がわかりづらく、距離と霧も相まって、それ以上のことはわからない。

 体は魔物に向けたまま一瞬だけ背後を確認する。
 燃える木の手前で、身をかがめたマイアが頭を上げるのが見えた。

 攻撃が当たらなかったことにほっとするが、気を緩めていい状況ではない。
 すぐに視線をリーシャとスゥの方へ向ける。

「リーシャちゃん! スゥちゃん!」
「エト、平気ね?!」

 二人は既に武器を構え、臨戦態勢に入っていた。

 リーシャは呪文を唱え、いくつかの火弾を魔物に向けて撃ち放つ。
 スゥは斧を盾のように構え、リーシャを守るように立った。

「……マイアちゃん、身を隠してて。」
「エト……!」

 視線を前に置いたまま、背後のマイアにそっと伝える。
 返事を聞く前に、エトは腰を限界まで落とすと、弾けるように駆けだした。

 視界も足場も悪い、森の深部。
 道を知っているのは、非戦闘員のマイアのみ。

 ほぼ最悪のケース――敵が遠距離攻撃を行う魔物で、かつ逃げられない状況。


『相性の悪い相手の場合は、役割を入れ替えて対応するんだ。』

 ロルフの言葉を思い出す。

『スゥが盾役としてリーシャを守り、リーシャは遠距離攻撃で攪乱、その隙に機動力の高いエトが接近して攻撃。とどめを刺すまで行かなくとも、機動力を削ぐことができれば、距離を詰めていつもの戦法に持ち込むことができる。』

 エトは腰から双剣を抜き取り、回転させて逆手に構えた。
 視線を、目の前の魔物だけに集中させる。

 私の役目は、なるべく早く近づいて、敵の足を止めること――!


「エト、回り込んで!」

 リーシャの声。それに続いて、数発の攻撃魔法。
 魔物は恐らくリーシャの想定通りに、それを横に飛んで回避する。見た目ほど俊敏性はない。十分に捉えられる。

 エトはその逆側から走り込み、木の枝を蹴って、黒い魔物の真上に躍り出た。

「せ……っ!」

 そのまま、落下の速度に体の回転を合わせ、魔物の体を切り裂く。
 浅い、でも、刃は入る。

 着地と共に地面を蹴り、流れるような動きで、そのまま肩を、腕を、足を、続けて回るように斬りつけた。
 魔物の動きは明らかに鈍っている。反撃も無い。

 これなら……いける。倒せる!

 エトは一度体制を立て直すため、飛んで一度距離を取り、さらなる攻撃を仕掛けようとした。

 ――しかし、その時初めて正面から見た獣の姿に、エトの体は硬直した。

「な……に……、これ。」

 不自然に小さな足、左右で大きさの違う腕と肩。それに押されるように、不自然に傾いた頭。その顔が正面に見えなかったのは、片側が焼けただれたように崩れていたからだ。

 片側しか開いていない目は、まるで血の塊のように赤黒く、そこから流れる赤い液体は、血のようにも、また涙のようにも見える。

 深紅の筋が脈打つその全身からは、常に黒い霧のようなものが立ち上り続けていた。

 今までに見てきたどれとも違う、明らかに異質な魔物。
 得体の知れない恐怖が背筋を駆けあがり、体が強張る。

 でも同時に、それだけではない何かか、エトの脳裏をかすめた。

 この感じ……何だか、前にも――?


「……っ、だめ、エト! 離れてぇッ!!」

 背後から、悲鳴のようなマイアの声。
 はっと我に返ると、目の前の魔物の足元が赤黒く発光し、その範囲が急激に大きくなっていくのが見えた。

 体が光っているのではない。周囲の空間が、ぼけたように光っている。
 この光り方には、見覚えがあった。

 ――『魔法』だ。

「っ……?!」

 エトは踏み込んだ足を無理やり引き戻し、地面を逆さに蹴り飛ばして、可能な限り後ろに跳ねた。

 まさか、さっきのは、ダメージで動きが鈍っていたんじゃなくて――!


 次の瞬間、魔物の周囲が、赤黒く爆ぜた。
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