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1巻
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「スー、夕食に私の好きな鶏の香草焼きを作ってもらえるようにお願いしてきてくれるかしら。甘く煮た人参と、茹でたお芋にバターと牛乳を入れて滑らかになるように裏ごしした物を添えてね」
「かしこまりました、すぐに伝えてきます。お嬢様のお好きな白パンや、兎肉のクリーム煮をたっぷり入れたパイもご用意していますよ。料理長が朝から張り切って仕こんでいました」
「うれしいわ。木の実のパンもおいしかったけれど、白パンには敵わないもの。熱々のパイも楽しみよ」
温かい食事を誰に気兼ねすることなく食べられる、想像するだけで心が浮き立つ。
「すぐに料理長に伝えて参りますね」
飛び出すように部屋を出ていったスーは、一目散に調理場に向かい料理長に私の希望を伝えてくれるだろう。私の好みを熟知している料理長は、おいしい夕食を提供してくれるはずだ。
「ロージー、ここは落ち着けるわ。何も警戒しなくていいのだもの」
「はい。お嬢様」
疲れが取れる薬湯に浸かり、好みの香油で髪の手入れをする。さらに、おいしい料理をお兄様と笑顔でいただく。
嫁ぐ前の当たり前だったことが再びできると思うと、幸せな気持ちでいっぱいになる。
「ああ、ロージー。私はもう誰にも遠慮をしなくていいのね。伯爵家に嫁いで私ができたのは金銭に関することだけだったわ」
私はあの屋敷で、使用人たちから悪意に押しつぶされないように自分を守るだけで精一杯だった。
ミケーレ家の役に立つことができれば、少しでも認められる気がして、寝る間を惜しんで薬を作り続けたのだ。けれど、結果は変わらなかった。
「悪意しかなかったあの屋敷でお嬢様はずっと気を張っておいででした。ですから……もういつもの、お嬢様でいてくださいませ。私の力が足りなくてお嬢様をお守りできず、申し訳ありませんでした」
「ロージー、あなたはよくやってくれたわ。あなたがいなかったら私は耐えきれなかった」
ロージーがずっとそばにいてくれたことで、どれだけ救われただろうか。
これからは私らしく前を向いていたいと強く思ったのだった。
数時間後。
ゆっくりと湯浴みをしたあと、ロージーに満足いくまで頭のてっぺんから爪先まで手入れをしてもらった私は薄桃色のドレスに着替えた。
お兄様とともに夕食をとるため、食堂に移動する。そこはおいしそうな匂いに満ちていて、テーブルの上には私の好きな料理が並んでいた。
新鮮な食材が使われているご馳走を食べながら、商業ギルドとお兄様の商談について話す。
「――まあ! お兄様、それではギルド長がかわいそうです。少しは融通して差し上げて。今まで私にとてもよくしてくださっていたのだから、お礼したいの」
「そうだな、ほんの少しだけ配慮しようかな。納品数を少し増やすくらいならいいか」
「そうしてください。商業ギルド内でお兄様と密かに会えたのはギルド長のおかげなのですから」
薬の納品以外の外出が許されていなかった私に、ミケーレ伯爵家の使用人たちに気づかれずお兄様に会えるように配慮してくれたのが、商業ギルドの長だったのだ。
エルフ族の彼は、もともと亡くなったおじい様の友人で、私の名付け親でもある。植物系の魔法を得意とするエルフは森の民とも呼ばれる種族で、人間とは異なる長く尖った耳と数百年の寿命を持つ。
私にとってギルド長は、頼りになるおじい様のような存在で、彼も私をまるで本当の孫のようにとても可愛がってくれていた。
だが、お兄様は彼が苦手なのだ。お兄様ははっきり理由を言わないけれど、ギルド長は私にだけ優しいらしい。
「恩はあるが、どうもあのうさんくさい笑顔がなあ」
お兄様は私好みに焼かれた鶏の香草焼きを口にしながら、まだぼやいている。私はそれに呆れながら、付け合わせの人参の優しい甘さを貴重なものだと感じていた。ミケーレ伯爵家では私の食事に新鮮な野菜が出ることはなかった。付け合わせの甘く煮た人参すらどれだけ望んでも食べられなかったのだ。
「どうした」
「懐かしい味に感動していたの。すごくおいしい」
「そうか、たくさん食べてやれ。使用人たちはフェデリカがいると張り切るからな」
私を甘やかすお兄様、おいしい料理に優しい使用人たち。この屋敷にいれば、私はのんびりと過ごせるだろう。
しかし、王都のこの屋敷に居続けたら、旦那様が私のところに来て悪かったと謝罪してくれるかもと、来るはずのない彼を待ち続けてしまう。
「お兄様、私は明日領地に向かいますね」
自分で離縁を決めたのに、そんな情けない日々を過ごすのは嫌だ。私は彼を忘れて生きると決めたのだから。
「もっとゆっくりしていけばいいのに」
「お父様とお母様に早く会いたいの。心配をかけてしまったでしょう?」
「そうか。じゃあ馬車を用意するよ。揺れの少ない最新の長距離用馬車、俺の自信作だ」
「ありがとう。お兄様」
お兄様が自信作と言うくらいだ。本当にすごい馬車に仕上がっているのだろう。それを使っていいと言うなんて、お兄様は私をどれだけ甘やかしてくれるのか。
「今日来てくださったこと、私一生忘れません」
「うん、恩を忘れずに。ずっと俺と仲よく生きていこう」
お人よしのお兄様はそう言って、私が出ていかなくていいと伝えてくれる。
「そんな甘い人は、またギルド長に無理難題を言われていますよ」
「問題ないさ。トニエ家の錬金術師も薬師もみな優秀な者ばかりだからな」
機嫌がいいのか、お兄様は葡萄酒を飲みながら笑って言う。
まだ私には錬金術師と薬師としての実力はそこまでない。でも、出戻るからには役に立ちたい。力をつけて、いつかお兄様にお前は優秀だと言わせてみせる。
「私、お兄様のために頑張りますね」
「ぜひそうしてくれ。一緒にギルド長に対抗しよう」
私の言葉を聞いて満足そうにお兄様は笑う。
そのとき、銀盆を持ったメイドが食堂に入ってきた。
「あら、どうしたの?」
「お食事中、失礼いたします。お嬢様にお手紙が届いているのですが……」
そう言いながら、メイドはなぜかお兄様のほうへ歩いていく。私宛の手紙なのにどうしてだろう。
「手紙?」
銀盆には一通の手紙がのっている。私は冷静を装いながらも、心の中では浅ましく期待していた。
まさか旦那様だろうか。離縁を知った旦那様からの手紙だろうか。
彼への未練を捨てたと言いながら、期待してしまう自分に嫌気がさしてしまう。けれど、一度は永遠を誓った相手なのだから、すぐには嫌いになれないのかもしれない。
「どなたから……?」
「それがわからないのです。門番が子どもから受け取ったそうで」
「なんだって? 中は確認したのか」
お兄様が眉をひそめながら、メイドに問う。
「手紙を持ってきたのは、どこの家かもわからない子どもだったため、念のため執事長が中を確認しました。駄賃に金貨一枚をもらい、配達を引き受けたと言っていたそうです」
メイドの説明に、私の期待は儚く消えてしまった。手紙を配達させるためだけに、金貨一枚という大金を旦那様が支払うとは思えない。
旦那様のはずなんてない、と自分自身に心の中で言い聞かせる。それにもし旦那様からの手紙だとしたら、本当は連絡ができたのにしてこなかったというつらい現実を思い知るだけ。
それでも私はなぜ期待してしまうのだろう。
「危険なものではないのだな」
「はい、送り主がわからないだけです。ただ、執事長は困惑していました。お嬢様にお見せしていいのかと」
メイドが私ではなく、お兄様に手紙を渡そうとしている理由を悟る。
執事長は私に手紙を見せたくないのだろう、でも私宛だからお兄様に判断を託したのだ。
思わずお兄様と顔を見合わせたあと、もう一度手紙に視線を向ける。
とは言え、中を見ない限り謎は謎のままだ。
「俺が見ようか」
「いいえ。私が。こちらに持ってきてくれる?」
お兄様が手紙を受取ろうとするのを遮り、メイドに指示をする。彼女は戸惑ったようにお兄様に視線を向けた。
「いいよ。フェデリカだって自分で判断ができる年齢だ」
お兄様は心配そうにしつつもそう言ってくれる。
「ありがとうございます。お兄様」
ドキドキしながら、私はその手紙を手に取った。
「ずいぶん高級な紙ね。でも、家紋も何もない」
子爵令嬢に宛てて出すには上質すぎるものであると、すぐにわかる封筒に家紋も模様もないのは違和感を覚える。早速、便箋を開くと、フワッと甘い香りがした。
「香水?」
花のような甘い香りがする。トニエ子爵家は仕事柄、香料や香水などに詳しいけれど、それは嗅いだことのないものだった。
不相応な縁にしがみつかずに自ら退いたことは素晴らしい決断です。離縁おめでとう。
手紙には美しい筆跡でそれだけが書かれていた。
こんなひどい手紙、おめでとうなんてそんなこと……
誰が送ってきたのだろう。手続きをしてくれた神殿とミケーレ伯爵家、トニエ子爵家以外に私の離縁を知るはずがない。ミケーレ伯爵家の使用人の可能性が高いと思ったけれど、嫌がらせをするために、こんな上質な便箋に書いたり高級な香水を拭きつけたりしないだろう。
別の誰かだとすると、いったいどうやってこのことを知ったのか。いずれ噂になるとは思っていたが、あまりにも早すぎる。
誰かが私と旦那様の離縁を喜んでいるなんて、この手紙を読むまで考えもしなかった。それが誰なのかわからないし、知りたくもない。
「なんて書いてあった?」
一読したあと手紙を折りたたみ、メイドからお兄様へ渡してもらう。
「なんだ、これは」
「……お兄様」
読み終えたお兄様は声を荒らげ、手紙をぐしゃりと握り潰す。
激怒しているお兄様に声をかけると、お兄様は無理矢理に作り笑顔を見せ、葡萄酒を乱暴に自分のグラスに注いだ。
「大丈夫だ。フェデリカは何も気にする必要はない」
優しいお兄様はそう言って葡萄酒を飲み干し、また笑う。けれど私は手紙の衝撃からとても笑い返すことはできなかった。
「お兄様。できるなら私は今後王都に来ることなく、日々を過ごしたいと思います」
誰かはわからないけれど、私の離縁を喜ぶ人がいる王都にもういたくない。早く領地に戻ってすべてを忘れて過ごしたい。悔しさと悲しさと情けなさが混ざり、不安に押し潰されそうになりながら言葉を絞り出した。
「ああ、それがいい。お前には領地が合っていると思うよ」
「はい」
「お前も飲もう。明日からは楽しいことしかない暮らしが待っている」
「……はい」
笑うお兄様にぎこちなく私も笑い返して、葡萄酒を一気に飲み干した。
葡萄酒をたくさん飲んだら忘れられるだろうか。あの人のこともつらかった暮らしも手紙のことも全部、記憶から消えて幸せになれるだろうか。
……女神マルガレーテ様、私はあなたの教えを守る者だというのに、どうしてこんなつらい仕打ちをするの。愛する人と幸せになりたい、ただそれを望んだだけだったのに。
テーブルの上に放置されたままの手紙を見つめる私は、心の奥に重い何かを宿してしまったようだ。
「明日の準備がありますので、そろそろ部屋に戻りますね」
「ああ、ゆっくりおやすみ」
「はい、おやすみなさい」
力なく立ち上がり、ロージーとともに食堂を出る。手紙の衝撃が強すぎて、せっかくの料理人力作の味もどこかに行ってしまった。
泣きたい気持ちを我慢して長い廊下を歩く。そして部屋の前に辿り着いた瞬間。
「ねえ、ロージー。私の選択は正しかったのよね」
涙が一粒、ポロリと零れ落ちるのもかまわずに、限界が来てしまった私はロージーに尋ねた。
「ええ、お嬢様」
「私は自分で離縁を選んだのよ。あの屋敷で、妻と認められず使用人たちの悪意に耐えながら生きるのは嫌だった。だからこそ、自分で進む道を決めたの。その選択は間違っていないわよね」
「はい、お嬢様」
私の涙に一瞬動揺した表情を見せたロージーは、そっと私の手を取って部屋の中に入るとソファーに座らせてくれる。そして、私の手に自分の両手を添えたままひざまずく。
「お嬢様の選択は間違っていません。私はそう信じています」
私を肯定してくれるロージー。それでも私の涙は止まらなかった。
「私の選択は間違っていない。でもね、私は幸せになりたかったわ。彼と幸せになれると信じていたのに、何が悪かったのかしらね……」
ポロリポロリと涙がドレスに落ちて、小さな染みを作っていく。
――離縁おめでとう。
その言葉が頭の中から消えない。結婚という制度において、私は完全なる敗者である。
「おめでとうって、どうして……。私が離縁したことを誰が喜んでいるの? 誰があんな手紙を書いたの?」
私の最高の幸せは結婚したあの日までだったと、繰り返し思わずにはいられない。
結婚してほしい、と花束を持ち私の前にひざまずいた彼の姿はいつだって鮮明に思い出せる。私を好きだと言ってくれたあの人の笑顔は嘘だったのだろうか。
結婚の誓いをしたあと、初夜すら過ごさずに屋敷に寄りつかなくなった旦那様。
私はなぜ彼が帰ってこないのかと悩み苦しみながら、待ち続けた。帰ってこられない理由があるのか、私が何か旦那様を怒らせてしまったから帰ってこないのか……
ひとりで考えても答えは出るわけはないというのに、それでも私は考え続けたのだ。
「旦那様が屋敷に戻らなかった理由があの手紙の差出人なの? 旦那様は、屋敷に帰らずあの手紙の人と一緒だったの? 愛されていると信じていたけれど、そうじゃなかったの?」
涙は次から次へと零れていく。心の奥底に燻っていた思いを告げながら私は泣き続けた。
「なぜ旦那様は私に求婚したの。私の一年は何だったのかしら」
味方のいないミケーレ伯爵家で、自分の誇りを保つだけで精いっぱいだった。
旦那様を待ち続けた一年は無駄だったのだろうか。彼の役に立ちたいと、少しでもミケーレ伯爵家の力になりたいと頑張ってきた私の努力は無駄だったのか。
「お嬢様は十分努力しておいででした。お嬢様が作られたお薬は病気の方にとって必要なものでしたし、それを売って得られたお金はミケーレ伯爵領を潤すために使われたと思います」
「……そうよね。私が過ごした一年は無駄ではなかったわ。少なくとも領民のためになったはずよ」
義両親は贅沢をしたくて私にお金を要求したわけではなく、水害や不作で困窮する領地をなんとかしたかったのだ。だから、少しでもいいからと私に求めただけだとわかっている。
「私、幸せになりたかった。望んだのはそれだけだったのに。……結局はお金だったのかしらね、私はそのために旦那様に望まれたのかもしれないわ」
そう考えるなら、結婚したあと私の顔を見る必要などなかったのだと理解できる。
屋敷に形だけの妻として私を置いて、薬の売り上げを義両親に納めさせる。持参金も密かに使えば、私にはわからない。
彼にとって計算違いはこの離縁だけ。貴族令嬢にとって婚約破棄も離縁も恥ずべきことだから、もし離縁したいと思っても実際に行動は起こせないだろう、そう考えていたのかもしれない。
「お嬢様、そんなふうに言わないでください! お金のためだったなんて、そんな悲しいことは考えないでください!」
目に涙を浮かべたロージーは私をまっすぐに見つめて言う。その顔は今までに見たことがないほど真剣だった。
「……悲しい。……そうね、こんな考え方は惨めになるだけね」
彼が何を思って私に求婚したのか、彼がなぜ帰ってこなかったのか、その理由がわかる日は来ないだろう。彼の思惑など永遠に知る由もない。私がいくら考えても答えは出ないのだ。
それは考えても仕方ない過去のことに悩んで、わざわざ自分自身を不幸な境遇においているようなもの。
――自分で自分を幸せにするためにあの屋敷を出たのに悔やむなんて愚かだ。考えるのはもうやめよう。手紙のことももう忘れよう。
乱暴にぐいと手の甲で涙を拭い、もうこれ以上泣かないように瞼を閉じて顔を上に向けた。
貴族令嬢らしからぬ行いをする自分がおかしくて、でも笑う気力は出て来なかった。
「ロージー。泣いたら喉が渇いてしまったわ。お茶を淹れてくれる?」
「……はい、お嬢様。すぐにご用意できますわ」
急に話を変えた私にロージーは返事をして、すぐにお茶の用意を始めた。目を閉じていても彼女が動く気配を感じる。
「こんなに泣くなんて、子どもみたいね」
そうつぶやく。そして、すうっと息を吸いこむと、部屋に飾られた花の香りと紅茶の香りがした。
ここはミケーレ伯爵家の屋敷ではないのだと改めて実感する。使用人の目を気にして、息をひそめて暮らしていたあの部屋ではない。
あの屋敷では花も紅茶の香りもしなかった。
でも、それはもう過去だ。誰に行動を制限されることなく、私はどこにだって行ける。もう自由なのだ。
「私って馬鹿ね」
瞼を開くと、心配そうな顔をしたロージーが私を見つめていた。
「お嬢様、お茶を淹れました。お嬢様のお好きな蜂蜜と牛乳を入れた甘い紅茶です」
テーブルにのせられた白い茶器は、嫁ぐ前の私のお気に入りだったもの。
「いい香り」
温かい紅茶を飲むことすらできなかった生活はもう終わり。部屋にいつも綺麗な花を飾って、おいしいお茶を好きなときに飲んで、誰に気兼ねすることなく家族と笑い合って暮らす。
「ロージー。領地に帰りましょう。帰ってお父様とお母様に甘えて、のんびり暮らすのよ」
「はい、お嬢様」
彼のために悔やむのも悩むのも泣くのも、今日でおしまい。私をよく思わないミケーレ伯爵家の使用人たちや、私にお金だけを望む義両親に気を遣う必要もない。ミケーレ伯爵家が治める領地の民には申し訳ないと思うけれど、私にだって限界がある。
自分で自分の行き先を決めたのだから、と言い聞かせながら、また零れてきた涙を乱暴に拭って無理矢理笑みを浮かべる。
――私はもう彼を忘れる。
「私、彼に復讐する。そう決めたわ」
「復讐……ですか」
「私は領地に戻って旦那様を忘れて幸せになるの」
香り高い紅茶を飲んで、私はロージーに笑いかける。
旦那様と過ごして得るはずだった幸福な時間を、私はミケーレ伯爵夫人ではなくトニエ子爵令嬢として掴む。私はもうフェデリカ・ミケーレではなくフェデリカ・トニエに戻ったのだから。出戻りの寂しい令嬢ではなく、実家に戻り幸せになった令嬢としてこれから生きていこう。私を虐げてきた人たちを捨て、自分のために生きる。
「考えても答えが出ないことを考え続けても仕方ないわ。もうどうでもいい過去のことよ。私はもう、自分で自分を幸せにすると決めたの」
「お嬢様は理不尽に耐えて、伯爵夫人として領民のために尽くしてこられました。寝る間を惜しんで民のために働いておいででした。ですから、もう十分です」
「ロージー、ありがとう」
旦那様、私はもうあなたを必要としない。これからは出戻り子爵令嬢として幸せになる。
私は自分で自分を幸せにできる。私の幸せにあなたはいらない。
「私は私のために幸せに生きるの」
これが私の復讐なのだ。
◇ ◇ ◇
奥様が乗った馬車が去っていくのを私、セバスは呆然と見送るしかなかった。神殿から屋敷に戻る馬車の中、頭に浮かぶのは後悔の文字だけ。
「私はなんて馬鹿なことを」
今からちょうど一年前、成人してたった一年というフェデリカ・トニエ様と旦那様は結婚した。王都に暮らす令嬢たちのように派手な化粧をしていないからか、彼女は年齢よりも少し幼く見えた。そんなフェデリカ様は実家から連れてきた使用人以外味方がいないミケーレの屋敷で、旦那様に一度も会えぬまま一年という孤独な日々を過ごしたのだ。
結婚したあの日、旦那様は王太子殿下の使者に呼ばれ、王宮に向かった。奥様は帰ってこない旦那様をひと晩寝ずに待ち続けていた。けれど。
『まだあなたはこの家の女主人ではありません。ですので、女主人の部屋に住むことは許されません』
寝不足の顔をした奥様に、私は非情な現実をお伝えしなければならなかった。
ミケーレ伯爵家では初夜を過ごすことを夫婦の絆だと重要視しているため、これがなければ妻と認められず、家政を取り仕切る権利はないとされているのだ。
『旦那様は王太子殿下に呼ばれて王宮に行かれたのでしょう? 大事なお勤めですもの。仕方ないわ』
『初夜は大切です。どうぞご理解ください』
『ええ、私も下級とはいえ貴族の出ですもの。理解しています』
そう言って微笑んだ奥様にひとまずお休みいただくように伝えたあと、私はすぐに王宮へ向かった。
そこで旦那様から『理由があって屋敷に戻れないが、フェデリカによく仕えるように』と指示された。
そして、白い結婚のままであることは大旦那様と大奥様に知られないようにとも。
格下の、しかも田舎の子爵家の出身である奥様との結婚を、おふたりは本心からは賛成していなかった。そのおふたりに白い結婚を知られては、奥様が肩身の狭い思いをしてしまうだろうという、旦那様の配慮だと私は理解した。
だからこそ、奥様にも『あなたの不名誉になるのですから、白い結婚のことは大旦那様たちには秘密にしてください』とお願いしたのだった。
彼女はそれからずっと客人として、ミケーレの屋敷に居続けることになった。
家族に大切に守られて育った彼女が過ごすにはつらい日々だっただろう。それを私は理解しているつもりだったけれど、実際は何も理解していないままお仕えして、ずっと傷つけていたのだ。
だから、こんな結果になってしまった。
「……奥様が自ら離縁を望むとは思ってもいなかった。旦那様になんと言えばいいのだ」
馬車の中で私はつぶやく。
「これは私の罪だ。旦那様に」
神殿に向かう途中で聞いたロージーの話を思い出し、私は後悔の念に駆られる。彼女に指摘された通り、私は何も把握していなかった。
私はミケーレ家の執事として誠心誠意接していたつもりだったが、今振り返るとひどい態度を取り乱暴な言葉を使っていた。でも、それでよいとなぜか思いこんでいたのだ。
奥様を不幸な状況に追いつめてしまったのは、間違いなく私自身である。
そう考えていたとき、馬車が屋敷に到着した。奥様が使っていた客間へ急ぐ私を見て、何かを察したのか、侍女頭があとをついてきた。しかしそれを気にする余裕もなく、そのまま客間の扉を開く。
「ステラ何をしている!?」
「……セバス様」
床にうずくまり泣いているステラが視界に飛びこんできた。
「奥様のお部屋をお掃除しようと、そしたら机の上に私宛の手紙があって」
ステラが大切な宝物のように抱きしめていたものは、奥様からの手紙だった。
「お前宛の手紙だと? お前は文字が読めないだろう。そもそも、なぜお前が奥様の部屋の掃除をしている?」
私は眉をひそめた。
「かしこまりました、すぐに伝えてきます。お嬢様のお好きな白パンや、兎肉のクリーム煮をたっぷり入れたパイもご用意していますよ。料理長が朝から張り切って仕こんでいました」
「うれしいわ。木の実のパンもおいしかったけれど、白パンには敵わないもの。熱々のパイも楽しみよ」
温かい食事を誰に気兼ねすることなく食べられる、想像するだけで心が浮き立つ。
「すぐに料理長に伝えて参りますね」
飛び出すように部屋を出ていったスーは、一目散に調理場に向かい料理長に私の希望を伝えてくれるだろう。私の好みを熟知している料理長は、おいしい夕食を提供してくれるはずだ。
「ロージー、ここは落ち着けるわ。何も警戒しなくていいのだもの」
「はい。お嬢様」
疲れが取れる薬湯に浸かり、好みの香油で髪の手入れをする。さらに、おいしい料理をお兄様と笑顔でいただく。
嫁ぐ前の当たり前だったことが再びできると思うと、幸せな気持ちでいっぱいになる。
「ああ、ロージー。私はもう誰にも遠慮をしなくていいのね。伯爵家に嫁いで私ができたのは金銭に関することだけだったわ」
私はあの屋敷で、使用人たちから悪意に押しつぶされないように自分を守るだけで精一杯だった。
ミケーレ家の役に立つことができれば、少しでも認められる気がして、寝る間を惜しんで薬を作り続けたのだ。けれど、結果は変わらなかった。
「悪意しかなかったあの屋敷でお嬢様はずっと気を張っておいででした。ですから……もういつもの、お嬢様でいてくださいませ。私の力が足りなくてお嬢様をお守りできず、申し訳ありませんでした」
「ロージー、あなたはよくやってくれたわ。あなたがいなかったら私は耐えきれなかった」
ロージーがずっとそばにいてくれたことで、どれだけ救われただろうか。
これからは私らしく前を向いていたいと強く思ったのだった。
数時間後。
ゆっくりと湯浴みをしたあと、ロージーに満足いくまで頭のてっぺんから爪先まで手入れをしてもらった私は薄桃色のドレスに着替えた。
お兄様とともに夕食をとるため、食堂に移動する。そこはおいしそうな匂いに満ちていて、テーブルの上には私の好きな料理が並んでいた。
新鮮な食材が使われているご馳走を食べながら、商業ギルドとお兄様の商談について話す。
「――まあ! お兄様、それではギルド長がかわいそうです。少しは融通して差し上げて。今まで私にとてもよくしてくださっていたのだから、お礼したいの」
「そうだな、ほんの少しだけ配慮しようかな。納品数を少し増やすくらいならいいか」
「そうしてください。商業ギルド内でお兄様と密かに会えたのはギルド長のおかげなのですから」
薬の納品以外の外出が許されていなかった私に、ミケーレ伯爵家の使用人たちに気づかれずお兄様に会えるように配慮してくれたのが、商業ギルドの長だったのだ。
エルフ族の彼は、もともと亡くなったおじい様の友人で、私の名付け親でもある。植物系の魔法を得意とするエルフは森の民とも呼ばれる種族で、人間とは異なる長く尖った耳と数百年の寿命を持つ。
私にとってギルド長は、頼りになるおじい様のような存在で、彼も私をまるで本当の孫のようにとても可愛がってくれていた。
だが、お兄様は彼が苦手なのだ。お兄様ははっきり理由を言わないけれど、ギルド長は私にだけ優しいらしい。
「恩はあるが、どうもあのうさんくさい笑顔がなあ」
お兄様は私好みに焼かれた鶏の香草焼きを口にしながら、まだぼやいている。私はそれに呆れながら、付け合わせの人参の優しい甘さを貴重なものだと感じていた。ミケーレ伯爵家では私の食事に新鮮な野菜が出ることはなかった。付け合わせの甘く煮た人参すらどれだけ望んでも食べられなかったのだ。
「どうした」
「懐かしい味に感動していたの。すごくおいしい」
「そうか、たくさん食べてやれ。使用人たちはフェデリカがいると張り切るからな」
私を甘やかすお兄様、おいしい料理に優しい使用人たち。この屋敷にいれば、私はのんびりと過ごせるだろう。
しかし、王都のこの屋敷に居続けたら、旦那様が私のところに来て悪かったと謝罪してくれるかもと、来るはずのない彼を待ち続けてしまう。
「お兄様、私は明日領地に向かいますね」
自分で離縁を決めたのに、そんな情けない日々を過ごすのは嫌だ。私は彼を忘れて生きると決めたのだから。
「もっとゆっくりしていけばいいのに」
「お父様とお母様に早く会いたいの。心配をかけてしまったでしょう?」
「そうか。じゃあ馬車を用意するよ。揺れの少ない最新の長距離用馬車、俺の自信作だ」
「ありがとう。お兄様」
お兄様が自信作と言うくらいだ。本当にすごい馬車に仕上がっているのだろう。それを使っていいと言うなんて、お兄様は私をどれだけ甘やかしてくれるのか。
「今日来てくださったこと、私一生忘れません」
「うん、恩を忘れずに。ずっと俺と仲よく生きていこう」
お人よしのお兄様はそう言って、私が出ていかなくていいと伝えてくれる。
「そんな甘い人は、またギルド長に無理難題を言われていますよ」
「問題ないさ。トニエ家の錬金術師も薬師もみな優秀な者ばかりだからな」
機嫌がいいのか、お兄様は葡萄酒を飲みながら笑って言う。
まだ私には錬金術師と薬師としての実力はそこまでない。でも、出戻るからには役に立ちたい。力をつけて、いつかお兄様にお前は優秀だと言わせてみせる。
「私、お兄様のために頑張りますね」
「ぜひそうしてくれ。一緒にギルド長に対抗しよう」
私の言葉を聞いて満足そうにお兄様は笑う。
そのとき、銀盆を持ったメイドが食堂に入ってきた。
「あら、どうしたの?」
「お食事中、失礼いたします。お嬢様にお手紙が届いているのですが……」
そう言いながら、メイドはなぜかお兄様のほうへ歩いていく。私宛の手紙なのにどうしてだろう。
「手紙?」
銀盆には一通の手紙がのっている。私は冷静を装いながらも、心の中では浅ましく期待していた。
まさか旦那様だろうか。離縁を知った旦那様からの手紙だろうか。
彼への未練を捨てたと言いながら、期待してしまう自分に嫌気がさしてしまう。けれど、一度は永遠を誓った相手なのだから、すぐには嫌いになれないのかもしれない。
「どなたから……?」
「それがわからないのです。門番が子どもから受け取ったそうで」
「なんだって? 中は確認したのか」
お兄様が眉をひそめながら、メイドに問う。
「手紙を持ってきたのは、どこの家かもわからない子どもだったため、念のため執事長が中を確認しました。駄賃に金貨一枚をもらい、配達を引き受けたと言っていたそうです」
メイドの説明に、私の期待は儚く消えてしまった。手紙を配達させるためだけに、金貨一枚という大金を旦那様が支払うとは思えない。
旦那様のはずなんてない、と自分自身に心の中で言い聞かせる。それにもし旦那様からの手紙だとしたら、本当は連絡ができたのにしてこなかったというつらい現実を思い知るだけ。
それでも私はなぜ期待してしまうのだろう。
「危険なものではないのだな」
「はい、送り主がわからないだけです。ただ、執事長は困惑していました。お嬢様にお見せしていいのかと」
メイドが私ではなく、お兄様に手紙を渡そうとしている理由を悟る。
執事長は私に手紙を見せたくないのだろう、でも私宛だからお兄様に判断を託したのだ。
思わずお兄様と顔を見合わせたあと、もう一度手紙に視線を向ける。
とは言え、中を見ない限り謎は謎のままだ。
「俺が見ようか」
「いいえ。私が。こちらに持ってきてくれる?」
お兄様が手紙を受取ろうとするのを遮り、メイドに指示をする。彼女は戸惑ったようにお兄様に視線を向けた。
「いいよ。フェデリカだって自分で判断ができる年齢だ」
お兄様は心配そうにしつつもそう言ってくれる。
「ありがとうございます。お兄様」
ドキドキしながら、私はその手紙を手に取った。
「ずいぶん高級な紙ね。でも、家紋も何もない」
子爵令嬢に宛てて出すには上質すぎるものであると、すぐにわかる封筒に家紋も模様もないのは違和感を覚える。早速、便箋を開くと、フワッと甘い香りがした。
「香水?」
花のような甘い香りがする。トニエ子爵家は仕事柄、香料や香水などに詳しいけれど、それは嗅いだことのないものだった。
不相応な縁にしがみつかずに自ら退いたことは素晴らしい決断です。離縁おめでとう。
手紙には美しい筆跡でそれだけが書かれていた。
こんなひどい手紙、おめでとうなんてそんなこと……
誰が送ってきたのだろう。手続きをしてくれた神殿とミケーレ伯爵家、トニエ子爵家以外に私の離縁を知るはずがない。ミケーレ伯爵家の使用人の可能性が高いと思ったけれど、嫌がらせをするために、こんな上質な便箋に書いたり高級な香水を拭きつけたりしないだろう。
別の誰かだとすると、いったいどうやってこのことを知ったのか。いずれ噂になるとは思っていたが、あまりにも早すぎる。
誰かが私と旦那様の離縁を喜んでいるなんて、この手紙を読むまで考えもしなかった。それが誰なのかわからないし、知りたくもない。
「なんて書いてあった?」
一読したあと手紙を折りたたみ、メイドからお兄様へ渡してもらう。
「なんだ、これは」
「……お兄様」
読み終えたお兄様は声を荒らげ、手紙をぐしゃりと握り潰す。
激怒しているお兄様に声をかけると、お兄様は無理矢理に作り笑顔を見せ、葡萄酒を乱暴に自分のグラスに注いだ。
「大丈夫だ。フェデリカは何も気にする必要はない」
優しいお兄様はそう言って葡萄酒を飲み干し、また笑う。けれど私は手紙の衝撃からとても笑い返すことはできなかった。
「お兄様。できるなら私は今後王都に来ることなく、日々を過ごしたいと思います」
誰かはわからないけれど、私の離縁を喜ぶ人がいる王都にもういたくない。早く領地に戻ってすべてを忘れて過ごしたい。悔しさと悲しさと情けなさが混ざり、不安に押し潰されそうになりながら言葉を絞り出した。
「ああ、それがいい。お前には領地が合っていると思うよ」
「はい」
「お前も飲もう。明日からは楽しいことしかない暮らしが待っている」
「……はい」
笑うお兄様にぎこちなく私も笑い返して、葡萄酒を一気に飲み干した。
葡萄酒をたくさん飲んだら忘れられるだろうか。あの人のこともつらかった暮らしも手紙のことも全部、記憶から消えて幸せになれるだろうか。
……女神マルガレーテ様、私はあなたの教えを守る者だというのに、どうしてこんなつらい仕打ちをするの。愛する人と幸せになりたい、ただそれを望んだだけだったのに。
テーブルの上に放置されたままの手紙を見つめる私は、心の奥に重い何かを宿してしまったようだ。
「明日の準備がありますので、そろそろ部屋に戻りますね」
「ああ、ゆっくりおやすみ」
「はい、おやすみなさい」
力なく立ち上がり、ロージーとともに食堂を出る。手紙の衝撃が強すぎて、せっかくの料理人力作の味もどこかに行ってしまった。
泣きたい気持ちを我慢して長い廊下を歩く。そして部屋の前に辿り着いた瞬間。
「ねえ、ロージー。私の選択は正しかったのよね」
涙が一粒、ポロリと零れ落ちるのもかまわずに、限界が来てしまった私はロージーに尋ねた。
「ええ、お嬢様」
「私は自分で離縁を選んだのよ。あの屋敷で、妻と認められず使用人たちの悪意に耐えながら生きるのは嫌だった。だからこそ、自分で進む道を決めたの。その選択は間違っていないわよね」
「はい、お嬢様」
私の涙に一瞬動揺した表情を見せたロージーは、そっと私の手を取って部屋の中に入るとソファーに座らせてくれる。そして、私の手に自分の両手を添えたままひざまずく。
「お嬢様の選択は間違っていません。私はそう信じています」
私を肯定してくれるロージー。それでも私の涙は止まらなかった。
「私の選択は間違っていない。でもね、私は幸せになりたかったわ。彼と幸せになれると信じていたのに、何が悪かったのかしらね……」
ポロリポロリと涙がドレスに落ちて、小さな染みを作っていく。
――離縁おめでとう。
その言葉が頭の中から消えない。結婚という制度において、私は完全なる敗者である。
「おめでとうって、どうして……。私が離縁したことを誰が喜んでいるの? 誰があんな手紙を書いたの?」
私の最高の幸せは結婚したあの日までだったと、繰り返し思わずにはいられない。
結婚してほしい、と花束を持ち私の前にひざまずいた彼の姿はいつだって鮮明に思い出せる。私を好きだと言ってくれたあの人の笑顔は嘘だったのだろうか。
結婚の誓いをしたあと、初夜すら過ごさずに屋敷に寄りつかなくなった旦那様。
私はなぜ彼が帰ってこないのかと悩み苦しみながら、待ち続けた。帰ってこられない理由があるのか、私が何か旦那様を怒らせてしまったから帰ってこないのか……
ひとりで考えても答えは出るわけはないというのに、それでも私は考え続けたのだ。
「旦那様が屋敷に戻らなかった理由があの手紙の差出人なの? 旦那様は、屋敷に帰らずあの手紙の人と一緒だったの? 愛されていると信じていたけれど、そうじゃなかったの?」
涙は次から次へと零れていく。心の奥底に燻っていた思いを告げながら私は泣き続けた。
「なぜ旦那様は私に求婚したの。私の一年は何だったのかしら」
味方のいないミケーレ伯爵家で、自分の誇りを保つだけで精いっぱいだった。
旦那様を待ち続けた一年は無駄だったのだろうか。彼の役に立ちたいと、少しでもミケーレ伯爵家の力になりたいと頑張ってきた私の努力は無駄だったのか。
「お嬢様は十分努力しておいででした。お嬢様が作られたお薬は病気の方にとって必要なものでしたし、それを売って得られたお金はミケーレ伯爵領を潤すために使われたと思います」
「……そうよね。私が過ごした一年は無駄ではなかったわ。少なくとも領民のためになったはずよ」
義両親は贅沢をしたくて私にお金を要求したわけではなく、水害や不作で困窮する領地をなんとかしたかったのだ。だから、少しでもいいからと私に求めただけだとわかっている。
「私、幸せになりたかった。望んだのはそれだけだったのに。……結局はお金だったのかしらね、私はそのために旦那様に望まれたのかもしれないわ」
そう考えるなら、結婚したあと私の顔を見る必要などなかったのだと理解できる。
屋敷に形だけの妻として私を置いて、薬の売り上げを義両親に納めさせる。持参金も密かに使えば、私にはわからない。
彼にとって計算違いはこの離縁だけ。貴族令嬢にとって婚約破棄も離縁も恥ずべきことだから、もし離縁したいと思っても実際に行動は起こせないだろう、そう考えていたのかもしれない。
「お嬢様、そんなふうに言わないでください! お金のためだったなんて、そんな悲しいことは考えないでください!」
目に涙を浮かべたロージーは私をまっすぐに見つめて言う。その顔は今までに見たことがないほど真剣だった。
「……悲しい。……そうね、こんな考え方は惨めになるだけね」
彼が何を思って私に求婚したのか、彼がなぜ帰ってこなかったのか、その理由がわかる日は来ないだろう。彼の思惑など永遠に知る由もない。私がいくら考えても答えは出ないのだ。
それは考えても仕方ない過去のことに悩んで、わざわざ自分自身を不幸な境遇においているようなもの。
――自分で自分を幸せにするためにあの屋敷を出たのに悔やむなんて愚かだ。考えるのはもうやめよう。手紙のことももう忘れよう。
乱暴にぐいと手の甲で涙を拭い、もうこれ以上泣かないように瞼を閉じて顔を上に向けた。
貴族令嬢らしからぬ行いをする自分がおかしくて、でも笑う気力は出て来なかった。
「ロージー。泣いたら喉が渇いてしまったわ。お茶を淹れてくれる?」
「……はい、お嬢様。すぐにご用意できますわ」
急に話を変えた私にロージーは返事をして、すぐにお茶の用意を始めた。目を閉じていても彼女が動く気配を感じる。
「こんなに泣くなんて、子どもみたいね」
そうつぶやく。そして、すうっと息を吸いこむと、部屋に飾られた花の香りと紅茶の香りがした。
ここはミケーレ伯爵家の屋敷ではないのだと改めて実感する。使用人の目を気にして、息をひそめて暮らしていたあの部屋ではない。
あの屋敷では花も紅茶の香りもしなかった。
でも、それはもう過去だ。誰に行動を制限されることなく、私はどこにだって行ける。もう自由なのだ。
「私って馬鹿ね」
瞼を開くと、心配そうな顔をしたロージーが私を見つめていた。
「お嬢様、お茶を淹れました。お嬢様のお好きな蜂蜜と牛乳を入れた甘い紅茶です」
テーブルにのせられた白い茶器は、嫁ぐ前の私のお気に入りだったもの。
「いい香り」
温かい紅茶を飲むことすらできなかった生活はもう終わり。部屋にいつも綺麗な花を飾って、おいしいお茶を好きなときに飲んで、誰に気兼ねすることなく家族と笑い合って暮らす。
「ロージー。領地に帰りましょう。帰ってお父様とお母様に甘えて、のんびり暮らすのよ」
「はい、お嬢様」
彼のために悔やむのも悩むのも泣くのも、今日でおしまい。私をよく思わないミケーレ伯爵家の使用人たちや、私にお金だけを望む義両親に気を遣う必要もない。ミケーレ伯爵家が治める領地の民には申し訳ないと思うけれど、私にだって限界がある。
自分で自分の行き先を決めたのだから、と言い聞かせながら、また零れてきた涙を乱暴に拭って無理矢理笑みを浮かべる。
――私はもう彼を忘れる。
「私、彼に復讐する。そう決めたわ」
「復讐……ですか」
「私は領地に戻って旦那様を忘れて幸せになるの」
香り高い紅茶を飲んで、私はロージーに笑いかける。
旦那様と過ごして得るはずだった幸福な時間を、私はミケーレ伯爵夫人ではなくトニエ子爵令嬢として掴む。私はもうフェデリカ・ミケーレではなくフェデリカ・トニエに戻ったのだから。出戻りの寂しい令嬢ではなく、実家に戻り幸せになった令嬢としてこれから生きていこう。私を虐げてきた人たちを捨て、自分のために生きる。
「考えても答えが出ないことを考え続けても仕方ないわ。もうどうでもいい過去のことよ。私はもう、自分で自分を幸せにすると決めたの」
「お嬢様は理不尽に耐えて、伯爵夫人として領民のために尽くしてこられました。寝る間を惜しんで民のために働いておいででした。ですから、もう十分です」
「ロージー、ありがとう」
旦那様、私はもうあなたを必要としない。これからは出戻り子爵令嬢として幸せになる。
私は自分で自分を幸せにできる。私の幸せにあなたはいらない。
「私は私のために幸せに生きるの」
これが私の復讐なのだ。
◇ ◇ ◇
奥様が乗った馬車が去っていくのを私、セバスは呆然と見送るしかなかった。神殿から屋敷に戻る馬車の中、頭に浮かぶのは後悔の文字だけ。
「私はなんて馬鹿なことを」
今からちょうど一年前、成人してたった一年というフェデリカ・トニエ様と旦那様は結婚した。王都に暮らす令嬢たちのように派手な化粧をしていないからか、彼女は年齢よりも少し幼く見えた。そんなフェデリカ様は実家から連れてきた使用人以外味方がいないミケーレの屋敷で、旦那様に一度も会えぬまま一年という孤独な日々を過ごしたのだ。
結婚したあの日、旦那様は王太子殿下の使者に呼ばれ、王宮に向かった。奥様は帰ってこない旦那様をひと晩寝ずに待ち続けていた。けれど。
『まだあなたはこの家の女主人ではありません。ですので、女主人の部屋に住むことは許されません』
寝不足の顔をした奥様に、私は非情な現実をお伝えしなければならなかった。
ミケーレ伯爵家では初夜を過ごすことを夫婦の絆だと重要視しているため、これがなければ妻と認められず、家政を取り仕切る権利はないとされているのだ。
『旦那様は王太子殿下に呼ばれて王宮に行かれたのでしょう? 大事なお勤めですもの。仕方ないわ』
『初夜は大切です。どうぞご理解ください』
『ええ、私も下級とはいえ貴族の出ですもの。理解しています』
そう言って微笑んだ奥様にひとまずお休みいただくように伝えたあと、私はすぐに王宮へ向かった。
そこで旦那様から『理由があって屋敷に戻れないが、フェデリカによく仕えるように』と指示された。
そして、白い結婚のままであることは大旦那様と大奥様に知られないようにとも。
格下の、しかも田舎の子爵家の出身である奥様との結婚を、おふたりは本心からは賛成していなかった。そのおふたりに白い結婚を知られては、奥様が肩身の狭い思いをしてしまうだろうという、旦那様の配慮だと私は理解した。
だからこそ、奥様にも『あなたの不名誉になるのですから、白い結婚のことは大旦那様たちには秘密にしてください』とお願いしたのだった。
彼女はそれからずっと客人として、ミケーレの屋敷に居続けることになった。
家族に大切に守られて育った彼女が過ごすにはつらい日々だっただろう。それを私は理解しているつもりだったけれど、実際は何も理解していないままお仕えして、ずっと傷つけていたのだ。
だから、こんな結果になってしまった。
「……奥様が自ら離縁を望むとは思ってもいなかった。旦那様になんと言えばいいのだ」
馬車の中で私はつぶやく。
「これは私の罪だ。旦那様に」
神殿に向かう途中で聞いたロージーの話を思い出し、私は後悔の念に駆られる。彼女に指摘された通り、私は何も把握していなかった。
私はミケーレ家の執事として誠心誠意接していたつもりだったが、今振り返るとひどい態度を取り乱暴な言葉を使っていた。でも、それでよいとなぜか思いこんでいたのだ。
奥様を不幸な状況に追いつめてしまったのは、間違いなく私自身である。
そう考えていたとき、馬車が屋敷に到着した。奥様が使っていた客間へ急ぐ私を見て、何かを察したのか、侍女頭があとをついてきた。しかしそれを気にする余裕もなく、そのまま客間の扉を開く。
「ステラ何をしている!?」
「……セバス様」
床にうずくまり泣いているステラが視界に飛びこんできた。
「奥様のお部屋をお掃除しようと、そしたら机の上に私宛の手紙があって」
ステラが大切な宝物のように抱きしめていたものは、奥様からの手紙だった。
「お前宛の手紙だと? お前は文字が読めないだろう。そもそも、なぜお前が奥様の部屋の掃除をしている?」
私は眉をひそめた。
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