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21:心を狂わせる

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 初めてだった、こんなにも自分の心を狂わせる人がいるだなんて思いもしなかった。
 彼女はそれだけの魅力を持ってて、それ以上の優しさで俺を包み込む。
 毎日触れたいと願い、毎日その声で名前を呼ばれたいと、毎日彼女の傍にいたいなと思い、そんな日常を俺は過ごしてきた。
 最初は彼女の視界に入れればいいと願い、それとなしに視界に入れるようにちょこちょこと存在感を消して動いていた。
 でも、それだけじゃ物足りなくなるのも分かっていたので彼女の好きな動物の話題を提供して共通の話題を持つ事に成功する。
 そこからは物凄いスピードで物事が進んで行ったのはまだ記憶に新しい。
 彼女に好きな人が出来た、そう聞いて衝撃と失恋の覚悟を受け止めるのに数日は時間を要した。
 でも、彼女にだって好きな人がいてもおかしいとは思わない、それだけの魅力を、優しさを持っている女性だ。
 俺の心を狂わせる、それは彼女だけだと言い切っていい。
 この人生で出逢った誰よりも俺の心を狂わせる存在である……でも、それも潮時なんだろうなと自覚して彼女の視界から消えようとした。
 そんな俺の事を気に掛けてくれる彼女は俺の右手を握り締めながら、不安そうな瞳を向けて小さな声でこう問い掛けてくる。

「私、何かした?」

 そんな事を聞いてくるなんて優しいにも程がある、そう思ったけれどこれも彼女の魅力だと気付く。
 誰でも平等に優しくするのが彼女の美点でもあり、長所でもあると自分でも自覚しているのだろう、それを惜しみも無く使うのは女性として成功するタイプだと思う。
 俺は作り笑顔を浮かべて出来るだけ彼女の心に残らないように、手をそっと離すと「好きな人が出来たんです」と事実を伝える。
 でも、その好きな人と上手く行く事も想いを繋げる事も出来ないと知っている自分だから彼女の紡がれる言葉を聞きたくなくて、その場から逃げ出すように走り出す。
 彼女の切ない顔と驚きに満ちていた声が木霊するが後の祭り。
 一人で歩く歩道の道に転がる小石を蹴り上げて、同時に自分の中にある彼女への想いを断ち切ろうと頑張って空に昇華させようとした。
 けれど、その俺に聞こえない筈の声が、彼女の泣きそうな声が聞こえてきて振り向いてしまった、振り向けばそこには大粒の涙を浮かべている彼女が走ってて思い切り抱き着かれて焦る。

「や、弥生さん!?」
「渡さない!」
「えっ?」
「君の事、誰にも渡さない! 私の、私だけの王子様でいてもらうんだから!!」
「や、弥生さん? 一体……」
「私の好きな人は君! 楓君! 貴方なの!! 気付いて、私も心の声に!!」

 信じれなかった、彼女の、弥生さんの声は震えているけれどしっかり熱の籠もった温かさを感じる。
 なんだろう、俺は彼女の心の声が分からない程に自分の世界に浸っていたんだろうか。
 弥生さんの顔が涙で濡れている、それがどうしてか綺麗だなって感じてつい涙を舌先で拭っていた。
 驚く彼女を優しく抱き締めて耳元でそっと伝える、自分の大好きな想い人を。

「俺の好きな人は優しくて笑顔が素敵で、俺の事を大好きだって泣きながら伝えてくれる……そんな優しい女性の貴女が大好きです」
「っ!! 楓、くん……私達、両想い……なの?」
「そのようですね、俺のお願いを聞いてはもらえませんか?」
「どんなお願いですか……?」
「俺とどうかお付き合い下さると嬉しいです」
「私でよければ……よろしくお願いします」

 嬉しそうに微笑む弥生さん、その頬に流れる涙を吸い取りつつもゆっくりと唇を重ねて口付けると弥生さんの唇がフワリと甘い味がした。
 触れ合うだけの口付けに嬉しそうにしては優しく抱き締めて唇を離すと耳元で彼女の名を口にする。

「弥生、さん……大好きです」
「私も楓君が大好きです……だから一人でどっかに行こうとしないで下さいね……貴方に一人にされたら私は本当に寂しいだけの女になってしまうから」
「俺もそうしたくないから、だから……ずっと傍にいます。俺の愛が貴女の笑顔になるのであれば俺は喜んで貴女へ愛を捧げると誓うから」
「楓……一生傍にいて……」

 そう嬉しそうに呟く弥生さんを俺は優しくも力強く抱き締めるのであった。
 俺達が相思相愛の恋人になった瞬間心を狂わせる人は最愛の存在へと生まれ変わる瞬間でもあったのだ。
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