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2巻

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   序章 元神子みこは墓作りにきたようです


「……おお」

 その光景を前にして、思わず感嘆の声がこぼれる。
 今俺の前に広がるのは、大きな絨毯のように広がった花畑だ。日差しを全身で受け、生き生きとした色とりどりの花々が、見渡す限り広がっている。
 花は一つひとつ違う種類だというのに、まるで管理されているかのように美しい色どりで並んでいた。鬱蒼うっそうとした森を抜けた先にあるので、その美しさはさらに際立っている。
 吹き抜ける風を受けて小さく揺れる。それだけで花のよい香りが俺のほうにも広がってきた。

「どう? 気に入ったでしょ?」

 ここまで案内してきた男――メルディ・サリオ・シューカは淡々と問いかけてきた。俺を見つめる野原のような緑色の瞳には、感情が一切宿っていない。普段とは違い、腰まである空を感じさせる青く長い髪は、髪紐で一纏めにして結ばれていた。
 背中から生える薄羽と整った容姿のせいで、花畑に埋もれると妖精のようにも見える。
 メルディは普段と変わらず無表情だ。しかし、問いかけてくる態度は、俺の答えがわかっているように見えるのだが、気のせいだろうか。
 ……相変わらず、何を考えているのかわからないヤツめ。
 正直な話、俺は一目でこの花畑が気に入った。元々、花なんてものには興味はない。そんな俺が、ここまで惹かれるとは思ってもみなかった。それほどまでに、目の前に広がる花畑は幻想的で目が奪われる。
 花の中にはほのかに発光しているものや、風が吹く度に色が変わるなんてものもある。元の世界にはなかったような花が多いから、なおさらなのかもしれない。

「ああ。不思議と……気に入ったよ」
「……うん。イクマなら、そう言うと思ってた」

 メルディは俺を見つめ、一瞬だけ眩しそうに目を細めた。珍しい表情をするものだと思いながら、俺はほのかに発光している花に手を伸ばした。

「不思議な花だなあ」
「それはザディスの花だよ。木の神が作ったやつ。本当は綺麗な音が鳴る花なんだけど、もう鳴らない」
「え、なんでだ?」
「神は、もういないから」

 そう答えたメルディの声は、少しだけ弱々しく聞こえた。
 俺は発光している花を指先で突くが、メルディの言う通り音が鳴ったりはしない。
 はるか昔、この世界では当たり前のように神々が存在していた。ある事情によって去ってしまった神たちは、この世界のことをどう思っているのだろう。
 捨てた世界だと、とうの昔に忘れ去っているのか、それとも未だに戻りたいと願っているのか。
 俺が黙りこんでいると、メルディは突如両手を広げ、そのまま大の字で花畑に寝転がった。
 メルディの寝転がる勢いのよさは、当たり前だが花のことなど考えておらず、花びらが散っていく。俺はメルディの行動に目を丸くしたが、何をしようとしているのかを察してしまう。

「……おい、まさか」
「うん。少し寝るね、用が終わったら起こして」
「メルディ!」

 メルディは花に埋もれながら、背をくるりと丸める。
 前言撤回、こんな怠惰な妖精は嫌だ。俺の知る妖精は働き者であってほしい。
 自然と溜め息がこぼれ、肩を落とす。
 寝ると決めたメルディを起こすのは、かなり労力を消費する。そうなると、今わざわざ起こすのは手間だ。メルディを起こすのは帰りでいいだろう。
 それでも、すぐさま寝るという暴挙に出た男の頬を抓ってやろうかと一歩足を踏み出したが、ちょうどそこが少しぬかるんでいた。

「うわ、っ」

 ズルッと滑り、勢いよく踏みこんだ足だけ前へ。普通なら踏みとどまることもできただろうが、今回は腕に抱えているものがあった。そのせいで大きくバランスを崩して、そのまま後ろへ倒れていく。
 まずい、と考えた瞬間、すぐに抱きとめられた。

「――イクマ」

 咎めるように俺の名前が呼ばれると同時に、一瞬の浮遊感を覚える。目線を少し斜め後ろに向けると、恐ろしい形相をした男が立っていた。
 日差しを受けながら輝く銀色の髪と、頭から生える白い二本の角。紫水晶の瞳に見える瞳孔は縦長で、それは目があった者を凍り付かせるような圧力があった。
 美しさを表現するにはいろいろな言葉があるとは思うが、この男――セルデア・サリダートには、美しいという表現が怖い程ぴったりに思える。

「助かったよ、セルデア」
「今のは危なかったと理解しているのか?」

 眉をひそめ、鋭い目つきがこちらを睨む。相も変わらず悪役顔のセルデアだが、何も知らない他人がこのやり取りを見れば、俺が厳しく責められているように見えるだろう。
 しかし、俺から言わせればこの顔はただ俺を心配しているだけだ。その証拠にちょっとだけ眉尻が下がっている。

「あー、してるしてる」
「……来る前にも言ったが、私は貴方一人くらいならば問題なく抱えられる」
「やめてくれ。またお姫様だっこはいやだ」

 かつて一度横抱きされて移動した時、通り過ぎる神官たちの視線に耐えるのがどれだけ大変だったか。あれは、三十過ぎた男がされるには拷問に近い。それなら肩に担ぎ上げられたほうが幾分かマシだ。
 しかし、セルデアが俺に対してそんな扱いをしないことはわかりきっている。

「大丈夫だ。少し泥濘ぬかるみを踏みつけただけだ、体調はすっかりいい」
「……」

 俺の言葉を聞いたセルデアは、下唇をぎゅっと噛みしめた。本当に化身けしんという存在は愛が深い。愛する人間が少しでも傷つくことが許せないだろう。これぐらいのことでも人生の終わりのような顔をする。

「ったく。ほら、さっさと終わらせるから、よかったら手伝ってくれ」

 そういって俺が掲げたのは、小さな木箱だ。
 俺がここにいる理由が、この箱だった。何の変哲もない木箱。その中に入っているのは――元神様が入っていた小鳥の死骸だった。
 すべての元凶だった元神様は俺の目の前で消えていった。アイツが最後にどういう考えに至ったのかはわからないが、嬉しそうな声だけは未だに俺の頭に焼き付いている。すると、どうにも、この小鳥を適当に放置なんかできなかった。
 だからこそメルディに頼んで、埋める場所を捜してもらい、ここに墓を作りに来たのだ。
 俺とセルデアは、花畑の中で適当な場所を捜して、二人で屈んで土を掘り返す。もちろん、花まで掘り返さないように慎重に小さな穴を掘っていく。

「悪いな、セルデア。こんなことに付き合わせて」

 セルデアには、元神様のことをほぼ話した。正確にはセルデアだけでなく、メルディやルーカスたちにも伝わっているだろう。
 元神様は、セルデアを苦しめた元凶だ。その墓作りに付き合わせるというのは、罪の意識を感じる。
 しかし、それに対してセルデアはすぐに首を振った。

「構わない。それに、今の私にとっては他人事のように思えなかった」

 元神様の末路は愛が深かったせいで起きた悲劇だ。そして、化身であるセルデアもまた、それが起こり得ると感じているのだろう。
 セルデアは少し苦しそうに眉をひそめ、唇を深く閉じた。
 その後しばらくは、黙々と穴を掘り続ける。そうすると、木箱が入るくらいの穴があっという間にできあがる。その瞬間、俺とセルデアは互いに目を合わせ、小さく笑い合った。

「よし、これで完成だ」 

 俺は、木箱を持ち直し立ち上がる。そして、空に掲げた。
 それは、最後くらいは日差しを沢山感じさせてやりたいと思っての行動だ。
 その木箱を見つめながら、先ほどの話を思い出す。
 俺が知った元神様についての事柄で、誰にも伝えていないことが一つだけあった。
 それは俺に――正確にはこの世界に召喚された神子たちに、元神様の恋人の魂が混ざっていることだった。
 深い理由があって、伝えていない訳ではない。ただ単純に、それは元神様の恋人と元神様だけが、知っていればいいことのように思えたからだ。
 もう、この世界に神子は召喚されないからな。

「……じゃあな」

 自分で口にしながら、別れを告げた相手は返答しないとわかっていた。
 その時だった。
 ふと、木箱から黒いものがこぼれ落ちてくる。もしかしたら、掘り返した時に手についた土かもしれないと考えている内に、それは俺の口の中に転がりこんできた。

「っげほ、ごほ」
「イクマ!」
「だ、大丈夫だ。土が口の中に、うえっ」

 不快なざらざらとした感触が口の中に広がり、本当に土が口に入ったのだと改めて気付く。口内の土を小さく吐き出しながら、口内に残る感触に顔をしかめた。
 くそ、最後の最後で元神様にやり返されたように感じる。
 それが八つ当たりだと知りながら、掘った穴へ乱雑に押しこんだ。後は、ゆっくり土を被せる。
 墓標はいらないだろう。ただ近くにあった名前も知らない真っ白な花を一本だけ摘んで、少し盛り上がった土の上に載せた。
 載せ終えると、一際大きな風が花畑を吹き抜けていく。
 その力強い風に目をすがめる間に、俺が墓前に置いた花を簡単に攫って、舞い上がる。
 メルディのせいで散った色とりどりの花びらも巻きこんでいく。その美しい花吹雪に包まれながら、真っ白な花は遠くに飛んでいった。
 盛り上がった土の上から花は消えた。まるで献花すらいらない、という誰かの意思だと感じるのは考えすぎだろうか。
 俺とセルデアは黙って、花が飛んでいった方向を見つめていた。

「……帰るか、セルデア」

 俺が言葉を切り出すと同時に、セルデアがそっと俺の手を掴む。俺から手指を絡めてしっかり繋ぐと、セルデアは柔らかく笑った。

「ああ、帰ろう」

 それは、普段見せる悪役のような酷薄こくはくな笑みではない。ただ嬉しそうに笑うセルデアに俺の心臓が締め付けられる。そして、同時にじんわりと胸の奥が温かくなる。
 だから、つられて俺も笑う。嬉しくて幸せで、セルデアへの気持ちがあふれて止まらない。ああ本当に、愛っていうものは頭を馬鹿にさせる毒のようなものだ。
 見つめ合っていると、正面へと移動したセルデアの顔がゆっくりと近づいてくる。ああ、これはキスされるなとわかった。だからこそ、俺も上を向いた。
 心臓が壊れそうなくらいに鼓動が速まり、体温も段々と上昇していくのがわかる。きっと頬も赤く染まっていることだろう。
 あと少しで唇が触れ合うというところだった。

「ねえ、どうしよう」
「うわ!」

 セルデアの後ろから、ひょっこりと顔を出したのはメルディだ。普段と変わらない重たげな目蓋で薄く開いた眼が俺を見つめた。
 寝ていたはずのメルディの出現に驚いて、反射的に後ろへ跳び退しさる。セルデアも固まっていた。

「め、メルディ!」

 メルディにはすでにいろいろと見られているとはいえ、慣れるものではない。恋愛初心者である俺が恥ずかしいのは当然なはずだ。
 しかし、普段は叩き起こされるまで起きないはずのメルディが、自然に目を覚ましたのは気になる。もしかして、何かあったのか?

「ど、どうした。な、何があった?」
「どうしよう、イクマ」

 メルディらしく表情こそ変わらないが、その声はどことなく力がないように感じる。いつも着ている真っ白な祭服姿で、身体を小さく震わせていた。

「――寒くて、眠れない」
「……は?」
「思った以上に、ここが寒くて寝心地悪い」

 しんと辺りが静まり返る。俺の心配していた気持ちは一気に引いていき、冷めた目線をメルディに送る。
 いや、わかっていた。メルディは筋金入りのマイペースだ。こいつの言葉をすべてまともに聞いていると、疲れるのはこちらだけだということは身に染みて理解している。
 しかし今回だけは、こいつをここに埋めて帰ってもいいのではないだろうか。そんな気持ちを抱えたまま、セルデアと目が合う。
 セルデアは俺の気持ちを察したのか、緩々と首を左右に振った。悪人のような見た目とは正反対の優しい男だと、わかりきっていることを再認識した。

「はあ……」

 俺の深い溜め息は、再び吹いた風に混じって消えていった。




   第一章 元神子は溺愛されているようです


『なんで、そんなに悲しそうなの?』

 そう俺に問いかけてきたのは、褐色の肌で紅玉色の瞳を持つ少年だ。周りを見渡すと、真っ白な空間には、少年以外何もない。これが夢だとすぐに気付いた。

『ねえ、俺に教えてよ、イクマ』

 紅玉の瞳の少年は、少し怯えながら続ける。名前を呼ばれたところを見ると、その少年は俺が澤島郁馬さわじまいくまだということを知っているようだ。なら、問われているのは俺で間違いない。
 しかし、俺は別に悲しくはない。そんな表情すらしていないはずだ。そう答えようと口を開いたが声は出なかった。
 まあ、夢なのだからそういうこともあるだろう。
 俺は特に焦ることもなく、とりあえずは目の前の少年を観察する。黒髪には灰色のメッシュが混ざり、長さは全体的に短い。
 年齢は十代後半といったところだろうか。耳には黄金のリングが何個も付けられているところを見ると育ちはいいのだろう。
 ――あれ。
 そこで気付いた。俺は、この子に見覚えがある。

『……わかった、言いたくないんだね』

 ただ声が出せないだけなのだが、紅玉の瞳の少年はそう判断したらしい。少し悲しそうに目を伏せて、次にこちらを見る表情にはしっかりとした決意が宿っていた。

『あともう少しだけ、待っていて。そうしたら俺が――』

 その思いつめたような表情が、さらに俺の記憶を揺さぶる。あと少し、あと少しで、出てきそうだというのにどうしても思い出せない。
 誰だ、この子。俺はこの子の名前を知っているはずだ。
 紅玉の瞳の少年は、俺の手を力強く握り締めた。

『――助けてあげる』

 その言葉と同時に、一つの名前が浮かんでくる。それは確かに覚えのある名前だった。俺はとっさに口を開く。そして、そのまま彼の名前を力強く呼んだ。


「ら……っ‼」

 大きく叫んだ自分の声に起こされ、意識が戻ってくる。俺が出した声だというのに驚いて、飛び起きた。視界に真っ先に飛びこんできたのは、紫水晶の瞳だった。

「イクマ?」

 目を軽く見開き、驚いているセルデアと目が合う。しばらく、そのまま見つめ合いながら、一瞬だけ自分が今どこにいるのかわからなくなる。
 ゆっくりと辺りへ目を向けると、豪華なベッドの天蓋と広々とした室内が目に入る。派手な装飾が少ない機能性を重視したような内装は、この部屋の主の性格をよく表していた。
 見慣れた部屋であるが、俺の生まれ育った土地ではない。
 ここはサリダート公爵家の屋敷であり、そこの主人であるセルデアの寝室だ。
 ……ああ、そうか。俺、今異世界にいるんだ。
 寝ぼけた頭は、そんな当たり前のことを今さら認識した。
 俺は、この異世界に中学生の時に神子として召喚され、三十代で再び召喚された。非現実的なことが飛び交うこの異世界で色んなことに巻きこまれたが、結局俺はこの世界で生きていくことを決めた。
 この世界に残ると決めた理由は、二つある。
 一つ目は、元の世界と異世界は時間軸が大幅にずれていること。簡単な計算だが、こちらで過ごす一年は元の世界では五年となる。もし今俺が元の世界に戻っても仕事はクビになっていることは間違いなく、そのことで両親に迷惑をかけたくなかったからだ。
 二つ目は、今俺の目の前で心配そうに見つめてくる男、セルデアだ。
 この世界では神の血を受け継ぐ者たちを『化身』と呼び、セルデアもその一人だ。化身は古き神の一部を身体に宿し、その性質も通常の人間とは違う点が多い。
 俺は、そんなセルデアという男を愛してしまった。そして、セルデアも俺を愛してくれた。だからこそ、この異世界で共に生きると約束したのだ。

「大丈夫か、何かあったのか?」

 突然、飛び起きた俺をセルデアは心配そうに見つめている。セルデアは、リネンの寝間着に紺色のガウンを羽織って、ベッドの側に立っていた。俺よりも早く、目が覚めていたのだろう。
 セルデアの手がこちらに伸ばされ、緩やかに俺の頬を撫でる。少しぼんやりとした俺にとってはそれがとても心地よく、思わず擦り寄った。

「ちょっと変な夢を見ただけだ。驚かせて悪かった」

 そう口にしながらも、夢の内容はすでに思い出せない。別に嫌な夢じゃなかったはずだ。
 肝心なところを思い出せない。喉に小骨が引っかかったような、落ち着かない気持ちだけが残っていた。

「少し、声が酷いな」
「あ、ああ……まあ仕方ないな、うん」

 セルデアに指摘をされ、改めてひび割れたようなしゃがれ声を自覚する。ふと自分の身体を見下ろすと、衣服は何も着ておらず裸だ。そして、至るところに鬱血の痕――いわゆる色事の痕が残っている。毎回のことながら、痕が多い。
 声がしゃがれているのも、昨晩遅くまでセルデアに抱かれていたのが原因だ。嫌でも昨夜のことが思い出される。恥ずかしさから、俺はシーツを掴んで身体に巻き付けた。

「今日は、ここに朝食を持ってこさせよう。水は飲むか?」
「……もらう」

 俺の返答を聞くなり、セルデアは寝室に備えられている鮮やかな色合いの水差しから、コップに水を注ぐ。次に求められることを俺はわかっているので、ベッドの上を這うようにしてセルデアの近くへ移動した。

「……お前も好きだな、本当に」

 少し呆れ気味な俺の声に対して、セルデアは薄く微笑んだ。そのまま少しだけベッドに乗り上げ俺の肩に腕を回すと、水の入ったコップを俺の唇にそっと添える。
 ゆっくりとコップを傾け、俺が苦しくないように水を飲ませてくれる。俺が喉を鳴らして、少しずつ水を飲んでいく姿をセルデアは間近で見つめていた。その紫水晶の瞳を喜びで満たしながら細める。それは悪役がよく見せるような圧迫感のある睨みにも見えた。
 しかしこれが、かなり上機嫌の時の仕草だと俺は知っている。そして上機嫌の理由は、俺の世話をしているからだ。
 セルデアが、好きな相手に対して世話を焼きたがる人間であると知ったのは随分前のことだ。
 特に、俺を抱いた次の日はその傾向が強い。こうして水を手ずから飲ませることから始まり、食事の介助や髪の手入れや爪先の手入れ、さらには着替えさえ自らの手でしたがる。
 される立場の俺としては、楽で助かる……ではなく、普通に恥ずかしい。
 当たり前だ。三十代の男が子供のようにすべての世話をされるのだから、恥ずかしくない訳がない。自分自身が駄目人間になったようにさえ感じる。
 それでも、セルデアの好きにさせるのは……なんだかんだ言いながら、俺も好きな相手には甘いという訳だ。

「んっ」

 水はもういい、という合図に小さく唸るとセルデアはすぐにコップを下ろした。彼の指先が俺の口周りを優しく撫でる。口周りについた微かな水滴を拭ってくれているのだろう。
 あまりにも丁寧に拭うものだからさすがの俺も痺れを切らす。いい加減にしろ、という意をこめて、セルデアの指先を甘噛みした。

「そういう可愛いことを朝からされては、私も困る」
「可愛いって……あのな。今の俺は、昔と違って可愛いという言葉から程遠くなった男だぞ」

 不満げに睨みつけるが、それに対してセルデアは首を横に振って答える。

「――今の貴方も可愛らしく、美しい。私はイクマが誰よりも魅力的な人だと常日頃から感じている」

 美しいという言葉を凝縮したような男が、俺に向かってそう言った。
 他の人間であればその言葉を疑うところだ。しかし、セルデアに限っては、それが心からの言葉であることはわかっている。この男はただ純粋に、俺を美しいと言っているのだ。

「っ」

 だからこそ、心臓が高鳴る。
 目の前の男は、漫画や舞台に出てくる、逆らう者はじっくりと甚振いたぶって殺そうとしそうな悪役にふさわしい容姿だというのに、性格は真逆だ。
 その心根は純粋で優しく、誇り高い。
 そんなセルデアを――愛しいと強く想う。

「……イクマ? 顔が真っ赤だが大丈夫だろうか?」

 俺は手を広げて顔を覆うが、手だけでは隠し切れない。ゆだった蛸のように真っ赤になっているだろう俺の顔を見て、セルデアは気遣うような目線を送ってくる。
 そこは気付いてくれ、セルデア。愛している相手に真正面から口説くどかれて、照れないヤツなどいるものか。
 しかし、ふと考えて、セルデアにとっては純粋な気持ちで言っただけであり、口説くどいたつもりすらないのかと遅れて気付いた。

「っ、もしかして熱が出たのか?」

 俺の考えを証明するようにセルデアの眉尻は微かに垂れ、不安そうに瞳が揺れる。真剣に俺を気遣う姿を見ているとすべてが馬鹿らしくなって、俺は小さく笑った。

「……ったく、仕方ないやつだなあ」

 俺は両腕を広げて、セルデアの首に回す。しっかりと抱きついて、誰のせいでこんな顔になっているのか、理解させてやろう。
 少々強引にこちらへ引き寄せ、高鳴る心臓の音が伝わるように自分の胸をそっとセルデアの耳に押し付けた。
 そうして、温かくて幸せな朝がまた始まる。
 それはセルデアの神堕ちから大体半年経った時であり、さらに俺が再召喚されてから十か月目となる日のことだった。


    ■■■■


 異世界で生きていくと決めた俺だが、セルデアの願いによって今はこの屋敷に住まわせてもらっていた。俺もセルデアの側にいたかったためにその願いを断る理由はなかった。
 一年限りの居候いそうろうから、この屋敷の一員という形に変わった訳だ。つまり、居候いそうろうの時のような、ただ本を読んでいた自堕落な生活は許されない。いくらセルデアの恋人とはいえ、俺もある程度は公爵家の役に立たなければならないだろう。
 しかし俺は、この世界で活用するはずだった神子の力を失ってしまっている。

「…………やることがない」

 ――結局、昔と変わらず、俺は暇を持て余していた。
 砂糖をまぶしたような今朝の出来事からすでに数時間は経過していた。俺は新たに用意された自室におり、そこの木製のテーブルに突っ伏していた。
 この部屋は、以前居候いそうろうしていた時の部屋よりもずっと広く豪華だ。正直、この家主の寝室よりも豪華な家具や飾り付けがあって、きらびやかだ。
 目線を少し動かすと俺の背丈の倍以上あるだろう二つの大窓から、陽光が差しこんでいる。窓からは庭園がよく見える。そこはセルデアとよく話した場所だった。
 俺たちがまだ互いのことをよく知らなかった時、あそこで交流会をしていた。交流会といっても、中身は互いに二つの質問をし、できる限り素直に答えるだけだ。俺の訴えで頻度は減ったが、今も続いているのだから、呆れてしまう。

「……やること」

 気が付くと、俺は同じ言葉を繰り返してしまっていた。
 ここに戻ってきた時、俺もそれなりに役立とうとした。働きたいという訳でもなかったが、客人でなくなった三十過ぎの男が何もせずにいるのは、さすがに罪悪感を覚える。
 セルデアに公爵家のために役立ちたいと伝えてから、最初に行ったのはセルデアの手伝いだ。この世界の文字もある程度は読め、数字の計算も可能だ。現代知識によって、役に立てるのではないかと考えた。
 しかし、セルデアが行っている業務のほとんどは領地に関わるものだ。俺は領地内のことも何も知らず、経営学や商学にけている訳でもない。悪いが俺の知識は、日本の高卒止まりだ。幼い頃から領地を管理していたセルデアに比べて、圧倒的に知識が足りなかった。
 ならばと、次は身体を動かす仕事で役立つことを考えた。しかし、それに関して立ちふさがるのはセルデアだ。

『私は、貴方に傷ついてほしくない』

 肉体の仕事は大なり小なり危険が伴う。セルデアはそれに対して過剰な反応を示した。俺にはセルデアがそうした反応を示すのは理解できた。
 化身の愛は重く、執拗で、自身が壊れてしまう程に一途だ。
 そんな性質を持ったセルデアの前で、俺は二回も死にそうになった。さらに言うなら、幼かった神子時代も、彼はいつ死ぬかわからない俺を見守っていたのだ。
 それを知る俺は、自分の意見を珍しく口にしたセルデアの言葉を無下にできなかった。
 最終的に、今の俺にできることはほぼなくなった。
 セルデアは「貴方は側にいてくれるだけでいい」と言ってくれる。それに対して不満や苛立ちはない。本音を言えば、俺も自堕落に過ごすのは嫌いじゃない。だから公爵家のために働きたいと言ったのは、実はただの建前だ。
 ――俺がしたいこと。

『……私のために、貴方が動かなくていい』 

 セルデアの声が頭の中に響く。
 ――俺は、あんな考えを変えてやりたいんだ。

「何かお悩みですか、イクマ様」

 俺の視線の先に、一人の少女が現れた。栗色のぱっちりとした目と、ふわりとした亜麻色の髪は彼女の魅力を最大限まで引き出しており、可愛い以外の言葉が見つからない。この屋敷のメイドであり、俺の世話役。

「パーラちゃん。もう掃除は済んだの?」
「はい」

 パーラちゃんは可愛らしい笑顔を俺に向けてくれた。
 年齢は聞いたところ十六歳だそうだが、彼女は年齢よりもしっかりしている。俺の身の回りの世話はもちろんのこと、屋敷内のことに関しても一切手は抜かず、その仕事ぶりは完璧だ。
 パーラちゃんがただ可愛いだけの少女ではないことも、知っているが……それには触れずにおこう。

「いつも綺麗にしてくれるから助かるよ、ありがとう」
「もったいないお言葉です。それより何か悩んでいるご様子でしたが、いかがなさいました?」
「ええと……」

 さすがに一回り以上は歳が離れているパーラちゃんに向かって、自分の役立たなさに悩んでいるとは言いづらい。それに深刻に悩んでいることでもないのだ。
 どう返答するべきかと考えていると、パーラちゃんの瞳がきらめいた。

「もしかして、旦那様のことを考えておられましたか?」

 パーラちゃんの声は弾んでおり、どこか嬉しそうだ。彼女はなぜか、最初の頃から俺とセルデアが恋人同士の関係であると知っており、こういうことにはすぐに気付いてしまう。
 だが、三十代の男が十代の少女に恋愛相談なんてできるはずがない。悩んでいる内容も、セルデアからは遠からず近からずといったものだ。どう返答するべきかためらっていると、先にパーラちゃんが動いた。

「もし私にできることがありましたら、いつでもご相談くださいね」

 花が咲いたように明るく笑う。決して深く突っこんでこない辺り、やっぱりパーラちゃんはできるメイドさんだ。
 ここは、恥を捨てて相談するべきかもしれないな。
 パーラちゃんと話し合えば何かいい案が出てくると考え、俺は口を開いた。


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