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プロローグ
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その日、姫野波音は、目の前に広がる光景に対し、つま先から頭頂部まで、まさに全身を震わせ怯えていた。
(や、やっぱり、無理だって! これは!)
波音の前にあるのは、縦にピンと張られた一本の綱。その下の空間には、床との間を遮るものは何もない。綱は床から数メートルの空中にあり、波音はその綱を渡り始める直前の地点にいる。つまり、いわゆる『綱渡り』をしようという状態だ。
「おい、早くしろ! 観客が焦れてるだろうが!」
「は、はいっ!」
一向に渡り始めようとしない波音を不審に思ってか、観客たちがざわめき始めた。すかさず、波音の背後から、団長の急かすような声が飛んでくる。舞台を中心にして、それを囲むよう円状に作られた座席は、今日も満員に近い。ここは、それだけの盛況を誇る曲芸団なのだ。だからこそ、波音に失敗は許されなかった。
(やるしかない……やるしかないんだ!)
波音はバランス棒を手に、右足を綱の上へと出した。初舞台ということで、今日だけはバランス棒を持つ許可をもらっている。それと命綱があるとはいえ、高所が怖いことに変わりはない。練習は幾度もしたが、恐怖と不安に加え、本番の緊張が上乗せされると、波音の頭の中はほぼ真っ白になっていた。
綱をぐっと踏みしめ、左足をその前に出す。もう後戻りはできない。観客の声は次第に静かになり、彼らも波音の姿を注視していた。極力下を見ないように、これでもかというほど真っ直ぐに前を向いて、波音はゆっくりと前進する。
中央は特に綱がたわんでしまい、波音はそこで、一瞬だけぐらりと横に揺れた。しかし、すぐに棒を頼りに体勢を立て直す。波音が新人であることは観客たちも悟ったらしく、小さく「頑張れー!」「あと半分!」という声がちらほら聞こえるようになった。
(な、泣きそう……!)
この曲芸団の団長の、スパルタとも言える非常に厳しい特訓を切り抜けてきた波音は、観客の優しい言葉に感極まり、目を潤ませていた。これでは前が見えなくなってしまうと、瞬きをしてなんとか堪える。息をふーっと吐いて、到着地点へと必死に進んだ。
(あと、少しだから)
残り五、六歩といったところまでやってきた波音は、安堵感から笑みを浮かべる。これならもう大丈夫だと、再度右足を踏み出した。が、その足首が、意図せずかくんと曲がった。
「えっ!?」
油断大敵。そう団長から何度も教わったはずなのだが。波音の身体は空中に投げ出され、落下を始めた。同時に観客の悲鳴と落胆の声が方々から飛んできては、波音の心を突き刺す。腰につけた命綱がぐいと身体を引っ張り、床に落ちる前に止まった。
(ああ、やっぱり。だめだった……)
波音は、自ら希望して曲芸団に入ったわけではない。それでも、責任を果たそうと、努力したはずだった。結果、できなかったのだから、頑張りが足りなかったのだろう。そんなことは理解していても、自分の向かうべきところが分からず、波音は悔しさから涙を流した。
どうして、曲芸団に入ることになったか。それには、団長である深水碧が関連している。しかし、その話をするには、まず『波音は本来、この世界の人間ではない』ことから説明しなければならない――。
(や、やっぱり、無理だって! これは!)
波音の前にあるのは、縦にピンと張られた一本の綱。その下の空間には、床との間を遮るものは何もない。綱は床から数メートルの空中にあり、波音はその綱を渡り始める直前の地点にいる。つまり、いわゆる『綱渡り』をしようという状態だ。
「おい、早くしろ! 観客が焦れてるだろうが!」
「は、はいっ!」
一向に渡り始めようとしない波音を不審に思ってか、観客たちがざわめき始めた。すかさず、波音の背後から、団長の急かすような声が飛んでくる。舞台を中心にして、それを囲むよう円状に作られた座席は、今日も満員に近い。ここは、それだけの盛況を誇る曲芸団なのだ。だからこそ、波音に失敗は許されなかった。
(やるしかない……やるしかないんだ!)
波音はバランス棒を手に、右足を綱の上へと出した。初舞台ということで、今日だけはバランス棒を持つ許可をもらっている。それと命綱があるとはいえ、高所が怖いことに変わりはない。練習は幾度もしたが、恐怖と不安に加え、本番の緊張が上乗せされると、波音の頭の中はほぼ真っ白になっていた。
綱をぐっと踏みしめ、左足をその前に出す。もう後戻りはできない。観客の声は次第に静かになり、彼らも波音の姿を注視していた。極力下を見ないように、これでもかというほど真っ直ぐに前を向いて、波音はゆっくりと前進する。
中央は特に綱がたわんでしまい、波音はそこで、一瞬だけぐらりと横に揺れた。しかし、すぐに棒を頼りに体勢を立て直す。波音が新人であることは観客たちも悟ったらしく、小さく「頑張れー!」「あと半分!」という声がちらほら聞こえるようになった。
(な、泣きそう……!)
この曲芸団の団長の、スパルタとも言える非常に厳しい特訓を切り抜けてきた波音は、観客の優しい言葉に感極まり、目を潤ませていた。これでは前が見えなくなってしまうと、瞬きをしてなんとか堪える。息をふーっと吐いて、到着地点へと必死に進んだ。
(あと、少しだから)
残り五、六歩といったところまでやってきた波音は、安堵感から笑みを浮かべる。これならもう大丈夫だと、再度右足を踏み出した。が、その足首が、意図せずかくんと曲がった。
「えっ!?」
油断大敵。そう団長から何度も教わったはずなのだが。波音の身体は空中に投げ出され、落下を始めた。同時に観客の悲鳴と落胆の声が方々から飛んできては、波音の心を突き刺す。腰につけた命綱がぐいと身体を引っ張り、床に落ちる前に止まった。
(ああ、やっぱり。だめだった……)
波音は、自ら希望して曲芸団に入ったわけではない。それでも、責任を果たそうと、努力したはずだった。結果、できなかったのだから、頑張りが足りなかったのだろう。そんなことは理解していても、自分の向かうべきところが分からず、波音は悔しさから涙を流した。
どうして、曲芸団に入ることになったか。それには、団長である深水碧が関連している。しかし、その話をするには、まず『波音は本来、この世界の人間ではない』ことから説明しなければならない――。
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