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第184話 誘拐(前編)
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「少し目を離したらいなくなってて…。抱っこ紐が外れかけてたんで、ここに寝かせて直してたんです…」
若い女性の眼には涙が浮かんでいる。その手はすがりつかんばかりに杏里の肩をつかんでいる。
「お子さんはおいくつなんですか? ひとりでどこかへ行ったって可能性はありませんか?」
女性の手を握り、杏里は訊いた。
周囲は旧正月の行事の雑踏で、賑やかしいことこの上ない。
今もふたりにぶつかるようにして、人波が流れ過ぎていく。
「翔太は生後3か月の赤ちゃんです。まだ立つこともできません」
「そうですか…」
女性の名前は斎藤小夜子。近隣の住民で、きょうは夫の和夫の付き添いでここへきているのだという。
歳は杏里と同じ28歳。
「やっぱり、誘拐でしょうか」
背後から小夜子の肩を抱いた大柄な青年が心配そうに訊いてきた。
夫の斎藤和夫、32歳。
真冬なのにTシャツ一枚のその上半身は、スポーツで鍛えたのか、筋骨隆々だ。
「いえ、まだ、なんとも…」
参ったな。
杏里は内心ため息をついた。
笹原杏里は県警交通課の巡査である。
きょうは、今年二度目の”初もうで”で賑わうこの恵比寿神社の警備に駆り出されたのだ。
警備と言っても不審者がいないか見回るくらいなもので、相棒はこの村の交番の警官、北野君ひとり。
あとは地元の消防団が手伝ってくれている。
この恵比寿神社では、正月の初もうでと、その約一月後に来る旧正月に祝いの行事を行う習わしである。
きょうは、その後者の賑わいなのだった。
「和夫、そろそろ出番じゃぞ」
気まずい沈黙を破るようにして、人ごみの中からごま塩頭の老人が現れた。
腰の曲がった小柄な老人は、確かこの村の村長だ。
「あ、はい、今行きます」
老人の後に続いて境内の中央に向かいながら、振り向いた和夫が杏里に声をかけてきた。
「終わったらすぐ手伝います。それまで、小夜ちゃんをお願いします。それと、翔太も」
「出番って?」
去り行く和夫に会釈を返しながら、杏里は小夜子に尋ねた。
「餅つきです。夫はあの通りの体格ですから、毎年餅つき当番を頼まれてまして…」
「つきたてのお餅って、おいしいですもんね」
杏里が見当違いの返答をして、心の中でしまった! と思った時、
「早く翔太を探さないと。嫌な予感がするんです。もしかしたら、彼女のせいかもしれません」
急に取り乱して、小夜子が言い出した。
「知らなかったんです。ルミが流産したばかりだったなんて。なのに私ったら、能天気に翔太の写真入りの年賀状を出してしまって…。もちろん、いやがらせするつもりなんて、なかったんです。ただ、知らなかっただけで…」
「それ、詳しく話していただけませんか?」
小夜子を伴って歩き出しながら、杏里は訊いた。
小夜子の細面の顔は、尋常でないくらい蒼ざめている。
「ルミは中学校の時の友人で、高校卒業後、都会に出て行ってからずっと音信不通だったんですけど、昨年の夏、ふらっと村に帰ってきたんです。その時はもう妊娠してて、なんでも入れ込んでたホストの子だとか…。そんな噂がたっていて…」
雲一つない快晴なのに、その瞬間、世界が色を失い、モノクロに翳ったようだった。
若い女性の眼には涙が浮かんでいる。その手はすがりつかんばかりに杏里の肩をつかんでいる。
「お子さんはおいくつなんですか? ひとりでどこかへ行ったって可能性はありませんか?」
女性の手を握り、杏里は訊いた。
周囲は旧正月の行事の雑踏で、賑やかしいことこの上ない。
今もふたりにぶつかるようにして、人波が流れ過ぎていく。
「翔太は生後3か月の赤ちゃんです。まだ立つこともできません」
「そうですか…」
女性の名前は斎藤小夜子。近隣の住民で、きょうは夫の和夫の付き添いでここへきているのだという。
歳は杏里と同じ28歳。
「やっぱり、誘拐でしょうか」
背後から小夜子の肩を抱いた大柄な青年が心配そうに訊いてきた。
夫の斎藤和夫、32歳。
真冬なのにTシャツ一枚のその上半身は、スポーツで鍛えたのか、筋骨隆々だ。
「いえ、まだ、なんとも…」
参ったな。
杏里は内心ため息をついた。
笹原杏里は県警交通課の巡査である。
きょうは、今年二度目の”初もうで”で賑わうこの恵比寿神社の警備に駆り出されたのだ。
警備と言っても不審者がいないか見回るくらいなもので、相棒はこの村の交番の警官、北野君ひとり。
あとは地元の消防団が手伝ってくれている。
この恵比寿神社では、正月の初もうでと、その約一月後に来る旧正月に祝いの行事を行う習わしである。
きょうは、その後者の賑わいなのだった。
「和夫、そろそろ出番じゃぞ」
気まずい沈黙を破るようにして、人ごみの中からごま塩頭の老人が現れた。
腰の曲がった小柄な老人は、確かこの村の村長だ。
「あ、はい、今行きます」
老人の後に続いて境内の中央に向かいながら、振り向いた和夫が杏里に声をかけてきた。
「終わったらすぐ手伝います。それまで、小夜ちゃんをお願いします。それと、翔太も」
「出番って?」
去り行く和夫に会釈を返しながら、杏里は小夜子に尋ねた。
「餅つきです。夫はあの通りの体格ですから、毎年餅つき当番を頼まれてまして…」
「つきたてのお餅って、おいしいですもんね」
杏里が見当違いの返答をして、心の中でしまった! と思った時、
「早く翔太を探さないと。嫌な予感がするんです。もしかしたら、彼女のせいかもしれません」
急に取り乱して、小夜子が言い出した。
「知らなかったんです。ルミが流産したばかりだったなんて。なのに私ったら、能天気に翔太の写真入りの年賀状を出してしまって…。もちろん、いやがらせするつもりなんて、なかったんです。ただ、知らなかっただけで…」
「それ、詳しく話していただけませんか?」
小夜子を伴って歩き出しながら、杏里は訊いた。
小夜子の細面の顔は、尋常でないくらい蒼ざめている。
「ルミは中学校の時の友人で、高校卒業後、都会に出て行ってからずっと音信不通だったんですけど、昨年の夏、ふらっと村に帰ってきたんです。その時はもう妊娠してて、なんでも入れ込んでたホストの子だとか…。そんな噂がたっていて…」
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