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第5話 撒き餌

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「本当にこんなところで釣れるのか?」
 深緑色の湖面に垂らした釣り糸を眺めながら、思わず俺はぼやいた。
 山間部の名もない湖である。
 ここへ来てからもう2時間になるが、釣り糸はぴくりとも動かない。
「こんなこともあろうかと思いまして、きょうは特別な餌を用意してきました」
 部下の深見が言って、足元のクーラーボックスを指さした。
 俺は深見の腺病質の顔を横目で見た。
 こいつ、気づいているのだろうか、とふと思った。
 俺と加奈子の関係を。
 加奈子は深見の妻である。
 つい最近結婚式を挙げたばかりだ。
 が、その前から俺と加奈子は男女の仲だった。
 もちろん、誰にもばれないように隠し通してきたから、社内でもそのことを知る者はいない。
 俺は加奈子の肉感的な肢体を思い出し、束の間の激情に駆られた。
 こんな湖には一刻も早くおさらばして、加奈子を抱きたい。
 ほんの一瞬、そんな衝動に我を忘れそうになった。
 その感情の変化が伝わったのだろうか。
 クーラーボックスの蓋にかけた手を止めて、下を向いたまま、深見がつぶやいた。
「知ってますよ。先輩と加奈子の仲」
「…」
 俺は驚かなかった。
 やはり、と思った。
 釣りに誘われた時から、いつかこの話が出るのではないかという予感がしていたのだ。
「心配するな。もう終わっている」
 俺は、万一の時のために用意してきた嘘を口にした。
「そんなの昔の話だよ」
「そうでしょうか」
 深見の口元に薄笑いが浮かんだ。
「ま、いいんですけどね。それも、きょうで終わりますから」
 そう言って、おもむろにクーラーボックスの蓋を開いた。
 とたんに強烈な臭気が立ちのぼり、俺はうめいた。
「な、何なんだ、それは」
 中に詰まっているのは、どろどろの赤黒い液体と、その中に浮遊する正体不明の肉塊だ。
「だから、撒き餌ですよ。この湖の主を釣るためには、特別な餌が必要なんです」
「ま、まさか、おまえ、それ…」
 どろりとした液体の表面から、白く細い指のようなものが突き出ているのに気づいて、俺は絶句した。
 第2関節で指輪の光るそれは…。
「加奈子…」
 俺のつぶやきをかき消すように、深見がクーラーボックスの中身を湖面にぶちまけた。
 大量の血と、半ば腐りかけた臓物が水しぶきを上げて深緑色の底に沈んでいく。
 湖面に黒い巨大な影が浮かび上がったのは、その時だった。
 鋭角のひれ。
 シルエットはエイに似ている。
 それにしても、でかい。
 これじゃまるで、マンタじゃないか。
「先輩も、これで終わりです」
 いつのまにか、俺の後ろに回った深見が、静かな口調で言った。
 あっと思った時には、背中を力任せに押されていた。
 バランスを崩して湖に落ちる瞬間、俺は見た。
 かっと開いた洞窟のような口に並ぶ鋭い歯。
 その歯の間にひっかかった加奈子のちぎれた手首が、おいでおいでをするように俺を差し招くのを。
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