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美香
真 side 5
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私は階段を上った。悲鳴をあげる足裏を庇いながら、三階を目指した。なぜか、二階に向かう途中の階段の踊り場で、刺されて倒れているはずの鈴木の姿がなかった。だが、そんなもの、今はどうだっていい。美香の無事を確認することの方が先決だ。
一気に三階まで駆け上がるや否や、私はまたも吐いた。息が苦しく、胸が痛い。足裏の破片が、体の中により深く刺さった。
私は足を引きずりながら、美香がいるだろう中に入った。
「美香っ、美香っ」
名前を叫ぶも返事はない。誰かが泣いている声が聞こえるが、これは美香じゃない。私はそれを無視した。
どこかから、ギイ、ギイ、と何かが軋むような音が聞こえる。これは何の音だろう。やけに不気味な音だ。それに合わさって、水が滴り落ちるような音が聞こえる。
臭い。元からこの部屋は臭っていたが、はっきりとわかるアンモニア臭が、今は強く漂っている。
私は懐中電灯のスイッチを入れた。そして、この不気味な音が鳴る方へ、明かりを照らした。
そこには、鈴木と一緒に下ろしたはずの人形が、天井からゆらゆらとぶら下がっていた。発見した時と同じように、ロープで首を吊り、宙に脚を浮かせていたんだ。いったい、誰がこんなことを? 怪訝に思うのと同時に、私の全身が総毛立った。
滴り落ちる水音は、人形の足元で鳴っていた。何かの液体が人形の脚を伝って、床に滴り落ち、水溜まりが歪な円を作っていた。
なぜか、調べた時にはなかったはずの椅子が、人形の近くで倒れている。不思議に思いながらも、私は人形の顔を照らした。もう何度も目にしたはずなのに、何度も目を背けたくなったはずなのに、手が自然と上がっていた。
「あ……あ、ああ……」
光に照らされた人形の顔は、最初に見た時とは違う形で歪んでいた。人形の長いだろう黒い髪が空気を含んで四方へと広がり、形良かっただろう顔は両目が飛び出さんばかりに見開いている。鼻と口からは糸を引くほどの体液で溢れ、舌がでろんと飛び出ていた。
私は手元から懐中電灯を落とした。それは大きな音を立てて、どこかへころころと転がっていった。
「う、嘘だ……嘘だ、こんなの……」
私は頭を両手で抱えながら、足元から崩れ落ちた。尻餅をつき、同時に手のひらが床に着くと、散乱する人形の破片が皮膚と肉を裂いて体の中へと侵入する。だが、足裏にガラスの破片が刺さった時とは違い、今は何も感じなかった。
顎が外れたようにだらんと開き、両目からは洪水のような涙が溢れ出た。ああ、違う。これは違う。ただの人形だ。私は自分に言い聞かせた。
目の前の人形はなぜか、美香が身に着けていたブラウスとスカート、そして白衣を纏っていた。きっと衣服の乱れた人形を憐れに思い、彼女が着せたのだろう。そうだ。そうとしか考えられない。
「こんなの……こんなの、美香じゃない……絶対に、違う……」
こんな醜いものが、美香であるはずがない。
強く否定した瞬間、私の頭の中に、ある人形の顔が一枚の写真のようになって表れた。床に転がっている人形たちの顔ではない。別のどこかで見たものだ。はっきりと、鮮明に、頭の中で浮かんでいる。その人形は、ここにあるどの人形よりも、顔が酷く潰れていた。元の顔がどんなものだったのか、想像すらできないほど腫れあがっていた。
これは何だ。何の記憶だ。目の前で二人も人が死んで、また惨たらしく人形が吊るされているから、頭が勝手に架空の人形を作り上げてしまったのか? おそらくそうだ。そうだろう。私は知らない。こんな悍ましいものを目にしたのは、今日が初めてなのだから。
それよりも、美香だ。早く見つけ出してやらないと、あの鬼がここへ来てしまう。
私はぬるりとする手のひらで頬を拭い、立ち上がった。今頃はきっと、膝を抱えて怯えているに違いない。首を左右に動かして、私は美香の名前を叫んだ。
ふと、部屋の角にあるトイレの方に、持っていた懐中電灯が転がっていることに気がついた。三階へ入った時は死角になっていて気づかなかった。私は明かりを頼りにそこへ近づいた。
懐中電灯を拾うと、角で女が泣いていた。壁の方に体を向けて、膝を抱えて顔を隠し、背中を丸めている。私が肩を掴んで揺らすと、女の口からはこれで何度目だろう、短い悲鳴があがった。
私は唾を飛ばしながら怒号する。
「お前っ、美香はどこだっ。答えろっ」
「し、知らないっ。私は何も知らないっ。本当よっ。だからっ……だから、鬼にならないでええっ」
まただ。また、知らないの一点張りだ。この女は本当に私を苛立たせる。しかも私が鬼だと? ああ、腹立たしい。何でもかんでも知らないと言えば済むと思っているところが、余計にだ。
私は手にする懐中電灯で女の頭を殴った。濁音の混じる悲鳴が女の口からあがった。
「嘘を吐くなっ。正直に答えろっ」
女は鼻から血を噴き出し、嗚咽を漏らして口を噤んだ。それが火に油を注ぐ行為となった。私は女の髪を掴んで力ずくで頭を上げさせた。すると彼女は、餌を求める金魚のように口をパクパクと開閉させた。
「う、嘘じゃないっ。嘘じゃないのっ。わ、私が知るわけないじゃないっ。本当に……だ、だってっ、だってっ、あれは、まー君たちがっ、勝手にやったことでしょ!」
「な、に……?」
この女は何を言っている? まー君? それは私が、幼少期に母親から呼ばれていたあだ名だ。みっともないからやめろと、祖母に言われてすぐに呼ばれなくなったそのあだ名を、なぜこの女が知っている。
動揺して私が硬直していると、目の前の女は血と唾液の混じった口で、私に唾を飛ばしながら必死に訴えた。
「私はやめようって言ったのに……何度も言ったのに……止めたのに……どうして、二人して私を責めて……いつも、いつも……いつもっ。私が悪いんじゃないの……悪くない……だって鬼よ。鬼が悪いの。鬼がまー君に憑りついたせいなのよ。も、もう、あれから十二年も経ったのにっ……なんでまた、こうなるのよぉ。私のせいじゃないのにぃ……!」
髪を掴んでいた手から力が抜ける。ブチブチと何かが千切れる音とともに、女の頭が私から離れた。
女の言っていることがわからない。この女は、いったい誰のことを言っているんだ? ああ、この女はもう駄目だ。これ以上脅したところで、私を混乱させることしか口にしない。
私は悪臭で満たされたそこを出た。もう何も出ないと思っていたのに、再び胃の方から何かがせり上がるようだった。
両手をついて酸味の混じった液体だけを嘔吐すると、上の方から風が吹いていることに気づいた。やや涼しいそれが、私の体を撫でるように通り抜けていく。
視線を上にして、懐中電灯を向けた。キイキイと、何かが動くような音が聞こえる。
「美、香……?」
気づけば、私は階段を上っていた。何度も開かないと確かめた、屋上へと続く扉。それがどうして……
「開いて、いる?」
扉は開いていた。取りつけられていた六つの南京錠はすべて取り外され、開いたままの扉が風で揺らされていた。私はそのまま、誘われるように屋上へと足を踏み入れた。
雨はすっかり止んでいた。地面にはところどころ水溜まりができており、足の裏が濡れた。
ピチャピチャと水音を立てながら歩き進めていくと、そこにはテントのようなものが一つあった。
私は吸い込まれるようにそれに近づき、中を覗いた。そこには懐中電灯、寝袋、コート、ピルケース、齧りかけのパン、水筒、そして……
「スマホ……?」
二つ折りの携帯電話が主流だったこの時代には珍しいスマートフォン。それがあったところで、おかしくはない。だが、私はそのスマートフォンの機種に見覚えがあった。手に取って間近で確認し、私は絶句する。
それは、二〇二二年から来た私が使用しているスマートフォンと、同じ機種だったからだ。これが販売されたのはつい最近のことだ。私と同じようにタイムスリップをしていない限り、この時代に持ち込めるはずがない。
では、ここで過ごしていた誰かも、私同様タイムスリップを経験している? それはいったい誰だ? あの鬼か? 犯人か? 私の父か? それとも……
それとも……
「ここは……二〇一〇年、じゃない?」
私はふらふらと、テントから外に出た。そんなわけがない。ここが二〇一〇年じゃないとしたら、美香はなぜ、生きている。彼女はなぜ、当時の記憶のままの姿で生きているというんだ。
夢? いや、違う。ちゃんとこの目で確かめた。手にも触れた。温もりも感じた。あれが夢ということはありえない。
「う、うう……」
ああ、頭が痛い。割れそうだ。まさか私も、いつの間にか毒を盛られたのか? 平のように。
私がその場で項垂れながら唸っていると、ピチャ、ピチャと、離れた場所から水音が聞こえた。両手で頭を抱えながら、私はそちらに顔を向けた。誰かがいる。私の足は勝手に動いた。
よろよろと、よろよろと。体は揺らめきながら、その誰かのいる方へと足は動く。夜明けが近いのか、もう明かりは必要なかった。
屋上の端の方に、“彼女”はいた。後ろ姿だったが、それは美香でも、潤美でもないことがわかる。髪の長さと、色が違った。彼女は肩ほどまでの長さの茶色の髪に、薄いワンピースのような白い服を着ていた。
「誰、だ……?」
声をかけると、彼女はくるりと振り返った。
「な……み……美香……?」
その顔は、美香に瓜二つだった。
「美香……ああ、美香っ……! 会いたかっ……」
私の口から、それ以上の言葉は出なかった。なぜなら、彼女の両手には、信じられないものがあったからだ。私は今日、何度目か知れない悲鳴をあげた。
彼女はそんな私に構わず、口を動かした。淡々と、何かを述べている。話している言語は日本語なのに、私にはその内容が理解できなかった。
わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。
私は彼女が大事そうに手にする白いそれと、“目”が合った。
「ひいっ」
暗い、暗い、何もない二つの空洞は、ジッと私を見つめていた。
頭を抱えてよろめいた途端に、ドン、と強くも重い衝撃が私を襲った。
それは鬼だった。私の体を掴み、抱きかかえ、そして……
「美香……」
両足が地面から離れて、私の体は宙を浮いた。天地がぐるんとひっくり返り、私の視界から彼女は消えた。
私の口から、断末魔のような叫び声があがった。
雲の切れ目から射す陽光が美しい、などと思う暇は、もちろんない。
一気に三階まで駆け上がるや否や、私はまたも吐いた。息が苦しく、胸が痛い。足裏の破片が、体の中により深く刺さった。
私は足を引きずりながら、美香がいるだろう中に入った。
「美香っ、美香っ」
名前を叫ぶも返事はない。誰かが泣いている声が聞こえるが、これは美香じゃない。私はそれを無視した。
どこかから、ギイ、ギイ、と何かが軋むような音が聞こえる。これは何の音だろう。やけに不気味な音だ。それに合わさって、水が滴り落ちるような音が聞こえる。
臭い。元からこの部屋は臭っていたが、はっきりとわかるアンモニア臭が、今は強く漂っている。
私は懐中電灯のスイッチを入れた。そして、この不気味な音が鳴る方へ、明かりを照らした。
そこには、鈴木と一緒に下ろしたはずの人形が、天井からゆらゆらとぶら下がっていた。発見した時と同じように、ロープで首を吊り、宙に脚を浮かせていたんだ。いったい、誰がこんなことを? 怪訝に思うのと同時に、私の全身が総毛立った。
滴り落ちる水音は、人形の足元で鳴っていた。何かの液体が人形の脚を伝って、床に滴り落ち、水溜まりが歪な円を作っていた。
なぜか、調べた時にはなかったはずの椅子が、人形の近くで倒れている。不思議に思いながらも、私は人形の顔を照らした。もう何度も目にしたはずなのに、何度も目を背けたくなったはずなのに、手が自然と上がっていた。
「あ……あ、ああ……」
光に照らされた人形の顔は、最初に見た時とは違う形で歪んでいた。人形の長いだろう黒い髪が空気を含んで四方へと広がり、形良かっただろう顔は両目が飛び出さんばかりに見開いている。鼻と口からは糸を引くほどの体液で溢れ、舌がでろんと飛び出ていた。
私は手元から懐中電灯を落とした。それは大きな音を立てて、どこかへころころと転がっていった。
「う、嘘だ……嘘だ、こんなの……」
私は頭を両手で抱えながら、足元から崩れ落ちた。尻餅をつき、同時に手のひらが床に着くと、散乱する人形の破片が皮膚と肉を裂いて体の中へと侵入する。だが、足裏にガラスの破片が刺さった時とは違い、今は何も感じなかった。
顎が外れたようにだらんと開き、両目からは洪水のような涙が溢れ出た。ああ、違う。これは違う。ただの人形だ。私は自分に言い聞かせた。
目の前の人形はなぜか、美香が身に着けていたブラウスとスカート、そして白衣を纏っていた。きっと衣服の乱れた人形を憐れに思い、彼女が着せたのだろう。そうだ。そうとしか考えられない。
「こんなの……こんなの、美香じゃない……絶対に、違う……」
こんな醜いものが、美香であるはずがない。
強く否定した瞬間、私の頭の中に、ある人形の顔が一枚の写真のようになって表れた。床に転がっている人形たちの顔ではない。別のどこかで見たものだ。はっきりと、鮮明に、頭の中で浮かんでいる。その人形は、ここにあるどの人形よりも、顔が酷く潰れていた。元の顔がどんなものだったのか、想像すらできないほど腫れあがっていた。
これは何だ。何の記憶だ。目の前で二人も人が死んで、また惨たらしく人形が吊るされているから、頭が勝手に架空の人形を作り上げてしまったのか? おそらくそうだ。そうだろう。私は知らない。こんな悍ましいものを目にしたのは、今日が初めてなのだから。
それよりも、美香だ。早く見つけ出してやらないと、あの鬼がここへ来てしまう。
私はぬるりとする手のひらで頬を拭い、立ち上がった。今頃はきっと、膝を抱えて怯えているに違いない。首を左右に動かして、私は美香の名前を叫んだ。
ふと、部屋の角にあるトイレの方に、持っていた懐中電灯が転がっていることに気がついた。三階へ入った時は死角になっていて気づかなかった。私は明かりを頼りにそこへ近づいた。
懐中電灯を拾うと、角で女が泣いていた。壁の方に体を向けて、膝を抱えて顔を隠し、背中を丸めている。私が肩を掴んで揺らすと、女の口からはこれで何度目だろう、短い悲鳴があがった。
私は唾を飛ばしながら怒号する。
「お前っ、美香はどこだっ。答えろっ」
「し、知らないっ。私は何も知らないっ。本当よっ。だからっ……だから、鬼にならないでええっ」
まただ。また、知らないの一点張りだ。この女は本当に私を苛立たせる。しかも私が鬼だと? ああ、腹立たしい。何でもかんでも知らないと言えば済むと思っているところが、余計にだ。
私は手にする懐中電灯で女の頭を殴った。濁音の混じる悲鳴が女の口からあがった。
「嘘を吐くなっ。正直に答えろっ」
女は鼻から血を噴き出し、嗚咽を漏らして口を噤んだ。それが火に油を注ぐ行為となった。私は女の髪を掴んで力ずくで頭を上げさせた。すると彼女は、餌を求める金魚のように口をパクパクと開閉させた。
「う、嘘じゃないっ。嘘じゃないのっ。わ、私が知るわけないじゃないっ。本当に……だ、だってっ、だってっ、あれは、まー君たちがっ、勝手にやったことでしょ!」
「な、に……?」
この女は何を言っている? まー君? それは私が、幼少期に母親から呼ばれていたあだ名だ。みっともないからやめろと、祖母に言われてすぐに呼ばれなくなったそのあだ名を、なぜこの女が知っている。
動揺して私が硬直していると、目の前の女は血と唾液の混じった口で、私に唾を飛ばしながら必死に訴えた。
「私はやめようって言ったのに……何度も言ったのに……止めたのに……どうして、二人して私を責めて……いつも、いつも……いつもっ。私が悪いんじゃないの……悪くない……だって鬼よ。鬼が悪いの。鬼がまー君に憑りついたせいなのよ。も、もう、あれから十二年も経ったのにっ……なんでまた、こうなるのよぉ。私のせいじゃないのにぃ……!」
髪を掴んでいた手から力が抜ける。ブチブチと何かが千切れる音とともに、女の頭が私から離れた。
女の言っていることがわからない。この女は、いったい誰のことを言っているんだ? ああ、この女はもう駄目だ。これ以上脅したところで、私を混乱させることしか口にしない。
私は悪臭で満たされたそこを出た。もう何も出ないと思っていたのに、再び胃の方から何かがせり上がるようだった。
両手をついて酸味の混じった液体だけを嘔吐すると、上の方から風が吹いていることに気づいた。やや涼しいそれが、私の体を撫でるように通り抜けていく。
視線を上にして、懐中電灯を向けた。キイキイと、何かが動くような音が聞こえる。
「美、香……?」
気づけば、私は階段を上っていた。何度も開かないと確かめた、屋上へと続く扉。それがどうして……
「開いて、いる?」
扉は開いていた。取りつけられていた六つの南京錠はすべて取り外され、開いたままの扉が風で揺らされていた。私はそのまま、誘われるように屋上へと足を踏み入れた。
雨はすっかり止んでいた。地面にはところどころ水溜まりができており、足の裏が濡れた。
ピチャピチャと水音を立てながら歩き進めていくと、そこにはテントのようなものが一つあった。
私は吸い込まれるようにそれに近づき、中を覗いた。そこには懐中電灯、寝袋、コート、ピルケース、齧りかけのパン、水筒、そして……
「スマホ……?」
二つ折りの携帯電話が主流だったこの時代には珍しいスマートフォン。それがあったところで、おかしくはない。だが、私はそのスマートフォンの機種に見覚えがあった。手に取って間近で確認し、私は絶句する。
それは、二〇二二年から来た私が使用しているスマートフォンと、同じ機種だったからだ。これが販売されたのはつい最近のことだ。私と同じようにタイムスリップをしていない限り、この時代に持ち込めるはずがない。
では、ここで過ごしていた誰かも、私同様タイムスリップを経験している? それはいったい誰だ? あの鬼か? 犯人か? 私の父か? それとも……
それとも……
「ここは……二〇一〇年、じゃない?」
私はふらふらと、テントから外に出た。そんなわけがない。ここが二〇一〇年じゃないとしたら、美香はなぜ、生きている。彼女はなぜ、当時の記憶のままの姿で生きているというんだ。
夢? いや、違う。ちゃんとこの目で確かめた。手にも触れた。温もりも感じた。あれが夢ということはありえない。
「う、うう……」
ああ、頭が痛い。割れそうだ。まさか私も、いつの間にか毒を盛られたのか? 平のように。
私がその場で項垂れながら唸っていると、ピチャ、ピチャと、離れた場所から水音が聞こえた。両手で頭を抱えながら、私はそちらに顔を向けた。誰かがいる。私の足は勝手に動いた。
よろよろと、よろよろと。体は揺らめきながら、その誰かのいる方へと足は動く。夜明けが近いのか、もう明かりは必要なかった。
屋上の端の方に、“彼女”はいた。後ろ姿だったが、それは美香でも、潤美でもないことがわかる。髪の長さと、色が違った。彼女は肩ほどまでの長さの茶色の髪に、薄いワンピースのような白い服を着ていた。
「誰、だ……?」
声をかけると、彼女はくるりと振り返った。
「な……み……美香……?」
その顔は、美香に瓜二つだった。
「美香……ああ、美香っ……! 会いたかっ……」
私の口から、それ以上の言葉は出なかった。なぜなら、彼女の両手には、信じられないものがあったからだ。私は今日、何度目か知れない悲鳴をあげた。
彼女はそんな私に構わず、口を動かした。淡々と、何かを述べている。話している言語は日本語なのに、私にはその内容が理解できなかった。
わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。
私は彼女が大事そうに手にする白いそれと、“目”が合った。
「ひいっ」
暗い、暗い、何もない二つの空洞は、ジッと私を見つめていた。
頭を抱えてよろめいた途端に、ドン、と強くも重い衝撃が私を襲った。
それは鬼だった。私の体を掴み、抱きかかえ、そして……
「美香……」
両足が地面から離れて、私の体は宙を浮いた。天地がぐるんとひっくり返り、私の視界から彼女は消えた。
私の口から、断末魔のような叫び声があがった。
雲の切れ目から射す陽光が美しい、などと思う暇は、もちろんない。
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