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暗闇の中で、彼は目を覚ます

真 side 5

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 二〇二二年五月二十三日。愛知県T市内。

 朝、八時半きっかりに、私は勤務地である夢丘ゆめおか精神病院に到着した。その名の通り精神科単科の病院で、目的地はその病院内に併設されている精神科デイケア施設だ。

 私はデイケア施設に直行すると、指定の鍵付きロッカー内に荷物を置き、白衣に着替えた。デイケアとは精神疾患を抱える人間が社会復帰のために日中利用する通所型のリハビリテーションのことで、疾患に対する治療法の一つだ。高齢者が利用するデイサービスと混同されがちだが、デイケアは就労や就学、社会参加といった自立を目的としている。

 ここ、夢丘精神病院のデイケア通所人数は五十人で、配置される専門職員も医師の他に看護師や作業療法士、精神保健福祉士、公認心理士など多種多様だ。私はその内の医師の一人で、二年前からデイケアに配置された。おかげで夜勤がなく、食事も十二時ちょうどに患者と一緒にとるため、意図せずして規則正しい生活を送ることができている。

 施設内に入ると、スタッフルームにはすでに看護師が数人、丸い机を取り囲んでミーティングを行っていた。看護師には看護師内での共有すべき情報がある。他職種を交えて行うのはその後だ。だからそれが終わるまで、私や他の職種の人間はスタッフルーム外で待つ。いつものことだ。

 そのスタッフルームは患者が過ごすデイケアルームのちょうど真ん中に位置しており、一つの個室となっている。部屋の上半分はガラス窓になっていて、医療スタッフからは患者の様子が見えるように、また患者からは医療スタッフの姿が見えるようになっている。

 普段なら、看護師たちのミーティングが終わるまで、患者の様子見も兼ねて話しながら過ごすのだが、この日は工藤くどう春子はるこという、うつ病の患者について気になる点があったので、彼女のカルテを確認したかった。

 この病院は院長がアナログ人間で、いまだ紙カルテだ。持ち出されてしまっては確認ができない。特に朝はミーティングもあってカルテがあちらこちらに移動している。

 今、目当てのカルテが所定の位置にあるのか、それとも誰かの手に渡っているのか、それだけでも知りたかった。早く調べたいとはやる気持ちを抑えられず、デイケアルームから中を覗こうと顔ごと目を動かした。それが不審に見えたのか、近くにいた別の患者から、「先生、怪しすぎ~」と引き笑いをされてしまった。

 私の奇怪な様子はスタッフルームからも見えていたらしく、何人かの看護師が肩を震わせ堪えるように笑っていた。それに気づいた看護師長が「しかたないわね」と言わんばかりの表情でこちらに近づき、中からガラス窓を開けた。

 名前は向井むかい。歳は五十代と私よりもうんと上で、その年齢に見合った落ち着きのある女性だ。つり目なので周りにきつい印象を与えがちだが、それは同時に仕事に対する姿勢の表れだろう。医師とは違い、デイケア専用の制服の青いポロシャツを着ている。

「先生、おはようございます」

「ああ、おはよう。お疲れ様。そろそろミーティングは終わりそうかな?」

「いえ、まだ少しかかりますけれど……何か、お探しですか?」

「ああ。工藤春子さんのカルテを見たくてね。カルテ棚にあるのか、確認しようとして……すまないね」

 やましいことをしているわけでもないのに、つい謝罪の言葉をつけ足した。キッと睨まれるように見つめられるせいかもしれない。こうなるなら、ミーティングが終わるまで待たずとも、スタッフルームへ勝手に入ればよかった。

「ちょっと待っていてください」

 と、向井看護師長は一言残した後、スタスタとカルテ棚の方まで歩き、両手で流すようにカルテを確認した後、他の看護師たちに「工藤さんのカルテ、今は誰が持っているのかしら?」と尋ねた。するとノート型パソコンのキーボードを叩いている男性看護師が、「工藤さんのカルテなら、ついさっき江角先生が持っていっちゃったのを見ましたよ」と向井看護師長に答えた。

 向井看護師長がこちらを向き、両肩を上げてから落として「だそうです」と目で返した。私は額に手を当てた。

「また、バッティングか」

 私が見たい情報は、他の誰かも見たいもので、しょっちゅう先を越されてしまう。それを憐れに思ったのか、向井看護師長がこちらを気遣い、

「何か調べたいことでも?」

 と、続けざまに声をかける。私は頷きながら答えた。

「ほら、彼女不眠が続いていただろう。薬を新しくしてから数日経つが、その間デイケアに来ていないようだからね。ちょっと気になっていて……」

「先生にずっと訴えてましたものね。きっと、息子さんの件が気掛かりで仕方がないんですよ。心配性ですもの、工藤さん」

 そう。彼女の場合、患者の息子がキーパーソンだ。中学卒業を前に引きこもりになり、以来十年以上が経つという。その息子と物理的に距離を置くため、彼女は家を出たのだが、環境ががらりと変わり、元々の不眠が悪化したのだ。

「心配性で片づけられればいいんだがな」

 ほぼ独り言のように呟いた私に、向井看護師長が胸元のポケットからペンとメモ帳を取り出し、真っ白な紙面を出してサラサラとペンを走らせる。

「今日もお休みされるとしたら電話連絡があるでしょうから、その時に先生が気にしてらっしゃることを伝えておきますね。服薬の状態も聞いておきます」

「ああ、頼むよ」

まこと先生ぇ。話を聞いてくださいぃ」

 向井看護師長とのやり取りに区切りがついたところで、私のもとへ別の患者が語尾を伸ばしながらやって来た。脇田わきたという、ギャンブル依存症の患者だ。五十代の男性で、以前は妻と子どもの三人の家庭を築いていたそうだが、運送業務の最中に飲酒をしていたことが発覚し、自主退職をした後はなかなか定職につけず、パチンコや競馬に生活費をつぎ込み、妻の方から離婚を言い渡されたという。

 現在は生活保護を受けているものの、保護費が入るとその日のうちにパチンコ屋に流してしまう。嗜癖問題は厄介だ。本人がギャンブルから距離を置こうと努力をしても、チラシやテレビのCMといった日常に溢れるものが当人を誘惑する。この病院への通院途中にも、パチンコ屋が一軒ある。立ち寄るつもりはなくとも、店の自動ドアが開いて奥にあるパチンコ台から当たり玉が出る音を聞くだけで、ギャンブルをしたいという衝動に駆られてしまう。

 上手く治療が続いたとしても、寛解まで少なくとも三年はかかると言われている。ある意味、アルコール依存症よりも治療が困難な嗜癖問題だ。

 スタッフルームから体を逸らし、脇田に向き合う形をとると同時に、向井看護師長は「それでは」と言ってガラス窓を閉めた。彼女はやれやれといった様子で、髪ゴムで一括りにした頭から零れる横髪を耳にかけつつ、ミーティングに戻った。おいおい。その態度はないだろう。少なくとも、患者の脇田の前でとる態度ではない。医療現場での経験値は彼女の方が上とはいえ、指摘すべき点は他職種であろうと指摘せねばならない。

 だが注意は後。今はこの脇田への対応が先だ。

「今日はどうしたんだい、脇田さん」

「先生ぇ。もう先生ぇしか話が通じんのだ。俺はいつも言ってるんだ。ここにいる連中に。あんたらは俺とは違う。まだ若いんだから、やり直せるって。なのに連中ときたら……」

「脇田さん。いつものことだが、時間を区切ろうか。話す時間だ」

「ああ、十分だろう。わかってるよ、先生ぇ。今が八時四十分だから、八時五十分までだな」

 脇田は話し出すと止まらない。発達障害も抱えているからか、一度話し出すとそれだけに集中してしまい、他のなすべきことをおろそかにしてしまう。こうした患者には、時間を区切って話すようあらかじめ伝えておく。本人にも時計を確認してもらい、そして何を聞かせたいのか目的を決めてから話してもらうようにしている。

 私と脇田は場所を移すと、デイケアルームに設置されているテーブルの一つを借りて、隣り合う形で座った。嬉々とした様子の脇田は普段と同様、デイケアに通院している他の患者の不満話から始めた。特別何かがあったというわけではない。それでも彼にとっては常に新しい話題だ。

 その話題の内容もずっと一つのことを話すのではなく、途中からころころと変わっていく。そうなってしまうと、時間はあっという間に経ってしまう。この時も、制限時間の十分をとっくに越えてしまった。

 時間は九時を指した。そろそろ止めるべきかとタイミングを見計らっていると、青いポロシャツを着た男性が脇田の隣に現れた。

「それでな、俺の子どもたちも、もういい歳だろう。会ってやってもいいと思っているんだが、俺が金をせびりに来るとでも思っているんだろうか。いやあ、そこまで落ちぶれちゃいない。俺はだなあ……」

「はい、すとーっぷです。脇田さん。すとーっぷ」

 男性は脇田の目の前で手刀をするように、容赦なく会話を切った。男性の割り込ませた右手につける黒地のリストバンドには、「KOJI」と白の刺繍が施されている。

 いきなり話を止められた脇田は、眉間に皺を寄せて会話を止めた彼を見上げた。

「何だ、何だ? 俺は今、先生ぇと話をしてるんだぞ。孝治こうじ君」

「そうですね、脇田さん。でも、時計を見てください。十分っていう約束じゃありませんか?」

 脇田から孝治と呼ばれた男性は、デイケアルームにある壁掛け時計をさした。つられて脇田も、時計に視線を向けるとハッとした様子で手刀を切った。

「ああ~、すまんすまん! 先生ぇ。つい話が長引いちまった」

「脇田さん、今日は夕診の方で診察があるでしょう? この続きはデイケアじゃなく、診察の時間にお話しましょうね」

「わかってる、わかってる。そんじゃあ、先生ぇ。またな」

 脇田はぺこぺこと頭を下げながら、そそくさとその場を離れた。私はふうと息を吐くと、会話を止めてくれた孝治に「ありがとう」と伝えた。

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