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<2・登場>

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 その瞬間、鏑木夏俊かぶらぎなつとしは思った――あ、俺これ死ぬんじゃね?と。
 高校生のくせに、何を馬鹿なことをやっているんだと思ったのは事実だ。いやむしろ、体がしっかり出来てきた高校生だからこそ無茶をしたんだろうか。掃除の時間、自分達の教室がある四階の窓の拭き掃除をしていて、うっかり足を滑らせたのである。ガラスマイヘッドはそりゃつるつるするよな知ってた、なんて転げ落ちながら思っていた。要は、完全に現実逃避をしていたのである。
 人間、走馬灯を見るというのは事実であったらしい。性格には夏俊が見たのは過去の記憶ではなく、現実逃避気味のくだらない妄想ばかりであったわけだが。
 クラスメート達の真っ青な顔が遠ざかっていく。思ったよりゆっくり落ちるな、なんてことを他人事のように思っていた。自殺願望なんて微塵もないし、そこまでネガティブな性格だとも思っていなかったにも関わらず。

――人間が確実に死ぬ高さって、何階つってたっけ。五階だっけ。じゃあ四階なら助かる可能性もあんの?

 無理だろうなあ、と頭が下がっていくのを感じながら思っていた。足から落ちれば奇跡も起きるかもしれないが、さすがに頭から落ちて無事で済むとも思えない。グッバイ俺の十五年の人生――そう思った、次の瞬間である。

「大丈夫か!」

 きっと全身がバラバラになるほど痛むと思っていたのに、そうではなかった。
 地面に到着する寸前に、夏俊の身体は誰かにしっかりと抱きとめられていたのである。それも、いわゆるお姫様だっこというやつで。

「へ?……へ!?」

 まさか、四階から落ちてきた男子高校生(細身だが身長はそこそこある)を抱きとめて救出するなんて、スーパーマンばりのことをした奴がいたとでもいうのか。俺は顔を上げて――さらに呆然とした。

「怪我はねーか?」

 青みがかった切れ尾の黒い瞳と、眼があった。逆光でもわかる、整った顔立ち。そして長くウェーブした、黒髪。
 夏俊を受け止めたのはなんと――女性、であったのである。しかも。

「だ、だ、大丈夫、だけども……!?そ、そのあんた、は」

 よく見たら、この学校の制服を着ているではないか。紺色のブレザーに見慣れた腕章、見間違えるはずもないのである。
 困惑するのも当然だろう。受け止められた当の本人である夏俊が、誰より今起きた出来事を信じられないのだから。四階から降ってきた男子高校生を無傷で受け止めるなんて芸当、女どころか人間ができるものなんだろうか。

「俺は大丈夫だ、丈夫と怪力くらいしか取り柄ないしな!」

 彼女は自分を“俺”と言った。女性にしてはやや低めの声と合わせて、なんだか妙に似合ってしまっている。彼女はそのままゆっくりと俺を地面に降ろしてくれた。身長は俺より少し小さいくらい。多分170cm手前といったところだろう。怪力と言ったが、その腕も足もさほどムキムキしているようには見えない。
 もっと言えば。――にっこり笑った彼女は、ちょっと見ないくらいの美少女であったのである。

「転校初日に、家の都合で遅刻しちまってさあ。まさか到着が授業全部終わった後になるとは思ってもみなかったぜちくしょー。……掃除当番お疲れ様。友達も心配してるだろうし、早く教室に戻ってやれよ」
「お、おう……」
「じゃあな。次は落ちないように気をつけろよー」

 彼女は笑ってひらひらと手を降ると、そのまま職員用玄関の方へ歩いていった。夏俊はただただ、そのすらっとした背中を見送るしかない。ウェーブをかかった黒髪が、彼女が歩くたびにふわりふわりと風に揺れている。見覚えがないなとは思っていたが、まさか転校生だったとは。俺っ娘、美少女、怪力。――既に属性盛りすぎな気がしないでもない。

――お礼、ちゃんと言い忘れちまった。悪いことしたな。

 次に会ったらちゃんとありがとうを言おう、と決めた夏俊である。もっとも。

「あー、みんな掃除の後で悪いんだけど。実は今日来るはずの転校生が、家の事情で遅くなっちゃったみたいでね。今到着したところなのよ。紹介だけしちゃうことにするわねー」

 担任の池崎香代子いけざきかよこ教諭があっけらかんと、その日のうちに彼女を紹介してくれることになるわけだが。
 再会は実にあっけないものだった。美少女転校生というものは、現実に存在していたのである。

桜美聖也さくらみさとやです。どうぞよろしく!」

 まあ、その口調も名前も男っぽい彼女は。単なる美少女で括るには、少々独特すぎる性格をしていたわけだが。



 ***




「桜美さんっ!」

 翌日。
 友人の刈谷大毅かりやだいきと共に、夏俊は大声を出す羽目になっていた。翌日の授業が終わった、放課後のことである。たまたま席が近くて、彼女に声をかけられた結果、校舎内と部活動の案内を頼まれた自分達であったのだが。

「お願いだから、ちょろちょろすんのやめてくんねーかなあ!?」

 男前美少女は、とんでもない方向音痴だった。
 ついでに、男も女も構わず声をかけるナンパ師だった。男女どころか、老人に足を突っ込んだ教員や用務員にまでひたすら声をかけまくるのである。それも“おっちゃん、今から俺とデートしない?おっちゃんの素敵な腕毛に惚れたんだわ!”というわけのわからない理由と軽さで、である。方向音痴は、彼女が迷子になりやすいというのもあるのだろうが、それに加えてすぐナンパを実行するものだから、自分がやって来た方をすぐ忘れるのも原因であるらしい。

「あと校内でナンパ禁止!不純異性交友も不純同性交友もアウトだ!さっき声かけた坂上教頭なんか結婚してるどころか孫までいんだよやばい道に引きずり込むんじゃねーよ!」
「えー」
「えーじゃない!」

 ちなみに夏俊の隣で友人の大毅は頭を抱えてぶつぶつ言っている。惚れっぽいことで有名な大毅は、転校してきた美少女に眼を輝かせていた一人であったのだ。聖也は見た目だけならば、大和撫子系の美少女と言っても過言ではなかった。残念ながら中身はひとかけらも大人しくない、俺っ娘を抜きにしても暴走しまくりの人間であったのだが。
 なんせ、昨日の転校初日(超絶な遅刻をした挙句だったが)に、自己紹介代わりに言った言葉がこれである。

『現在彼氏も彼女も募集してまーす!あ、俺バイセクシャルだし守備範囲は0歳児から130歳くらいまで幅広くイケんで誰でも大歓迎だぜ!複数人デートも超嬉しいな!!』

 あまりの内容で、みんながドン引きもせずただの冗談だろうと笑って流してしまったわけだが。翌日になって、それが冗談でもなんでもなかったことがはっきりするわけである。彼女は男好きで女好き、ジジイ好きでババア好き。一体誰が、腹がでっぱったおじーちゃんの教頭先生にまで声をかけるなどと予想していただろうか。

「う、う、う。昨日助けてあげたのに、早速夏俊クンがいじめてくるの……俺の人生の楽しみを邪魔するし、桜美さんなんて他人行儀で呼んでくるし!」
「いやその件は感謝してるけど……昨日会ったばかだろ、桜美さん」
「いやっ!聖也って呼んでぇ!」

 美少女ってなんだっけ、と俺は白目を剥く。大毅は横でずっと“こんなはずじゃ、転校生の可愛い女の子ってこういうのじゃないはずじゃ”、と繰り返しぼやいている有様だ。180cmで柔道部、巨漢の大毅がオドロ線背負って頭抱えている様はなかなかシュールである。もうそろそろ甘い夢は捨てとけ、というのが夏俊の本心ではあるが。

「……えーっと、聖也さん?」
「さん付いらねー!呼び捨てがいい!……あと俺はナンパはやめないからな!無理矢理お持ち帰りとかしねーし!」
「それやったら犯罪だからな!?」

 廊下の真ん中でしゃがみこんで、地面にのの字を書いている美少女転校生。キャラ崩壊なんてレベルではない。昨日自分を抱きとめてくれた時は、結構かっこいいかも、とちょっとキュンとしてしまったというのに。

「……あーていうか、今だけでも自重してくれ。この調子じゃいくら時間あっても、部活動の紹介も案内も終わらないから。優先的に回りたいのはどこだ?とりあえず、そっちから先に行こう」

 もうツッコむのも疲れた。夏俊が仕方なく聖也の肩をぽんぽんと叩いて言うと、彼女は眼をうるうるさせながら、吹奏楽部、と呟いた。

「1年2組は、吹奏楽部多いし。牧島さんとかがどんな練習してるのか、見たい」
「なんだ、部活動を見たいって言ったの、部活がやりたいからじゃなくてクラスのみんなを見たかったからなのかよ」

 少し意外ではある。まずはクラスの男女と仲良しになりたい、ということだろうか。既に独特のキャラで、一部のクラスメートには随分と人気を獲得しつつある印象の聖也であるというのに。

「まあなあ。俺、どこにも入部するつもりないし」

 彼女はゆっくり立ち上がって、ぽんぽんとスカートの埃を払った。運動神経良いのは間違いないのに、部活をするつもりはないのだろうか。勿体無いな、と夏俊が言おうとしたその時だ。
 彼女が小さく、そう本当に小さく呟くのが聞こえたのである。

「今から入っても、意味なんかないしな……」
「え?」

 その一瞬だけは、さっきまでのコメディチックな顔から一変し、酷く寂しそうな声に聞こえたのは何故だろう。
 残念ながら。夏俊は暫くの後、最悪の状況でその理由を知ることなるのである。
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