琉球お爺いの綺談

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琉球お爺ぃ小話

女性兵士考察

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 日本において、末子相続という制度や嫡子相続という制度があり、相続にあたって、性別が問われない時期が長かった。これは、家を守る女性の権利が強かった時代が持っていた風習と考えられる。平安期くらいまでは、戦国時代の甲斐姫や鎌倉時代の巴御前のような女性が戦場で戦うケースは、それほど珍しいことではなかったと考えられる。

 また、人間の成長には、男女差があり、女性の成熟する方が早いため10歳前後くらいまで、女性の平均身長が男性より高くなる。(文部科学省:学校保健統計調査資料)年齢が、13歳前後の場合、男性と女性の運動能力差が小さかったことから、個人差の方が大きかったものと推定される。(文部科学省:体力・運動能力調査)さらに、702年頃の美濃の国平均年齢が20歳を越えていないとの推定や古代では、平均年齢15歳前後という推定からすると、男女での戦闘能力に差異は少なかったのではないかと思われる。(公益財団法人 体質研究会)

 小学生ぐらいまでは、女性の方が身体能力の平均値が高く、中学くらいでは同程度、高校以降に性差が強くなっていく。

 こういった状況を考えると、古代において、一定数の女性兵士が居たことは間違いない。記録が少ないのは、当時の状況(後世の父権浸透)にもよるだろうが、後代の解釈によるものではないかと思われる。また、幼児期を乗り越えた場合、平均年齢が高くなっていることから、南北朝あたりから戦国期にかけて、戦場での年齢があがり、運動能力における性差が大きくなり、女性兵士活躍の場が減っていったのも一因と思われる。

 特に性差の中で、子を孕んで産み育てる期間中、戦闘に制約かかる期間があるため、女性兵士の制約が強かったことは、物理的な事実として存在する。相撲勝負の縄文文明から、大量動員の徴傭歩兵に繋がり、健児兵こうでいへいから武士という弓騎兵という形態に変化したことで、長距離戦闘で女性の活躍が、弓という飛び道具の浸透で可能となった。

 平安期から鎌倉武士の戦の場合、恩賞という所領を得て、一家を立てるという流れがあった。

 ファンタジー系の小説では、物理的な能力における性差が無いという前提と、魔法等による補助も追加されることから、女性兵士の活躍として描かれるという状況を生じさせている。歴史系の時代考証を考える必要がある場合は、女性の活躍というのは、なかなかに難しいのかも知れない。

 日本の馬は、木曽馬135cm前後、トカラ馬110cm前後、野間馬110cm前後、馬格の小さい馬が、在来馬の特徴となっている。紀元前後くらいに幾度か海を渡り、古墳期に固有種となったとされる。馬格が小さいことから、重装備の騎兵を乗せると機動力が鈍るとされ、体格の大きく体重が重い武士は、長距離機動には苦労したとされる。軽装の弓騎兵として、女性兵士が活躍しやすい環境ができたのは、平安期以降とされる。

 西欧社会の中で女性兵士の活躍が難しいのは、ギリシャからローマ帝国系の歴史であり、女性に当主の権利が無いといった状況が、ローマ帝国時代に生じている。これはローマ軍における、重装歩兵という筋力を必要とする戦士が主力であり、大規模土木作業を継続しながら、領域を拡大していった労働者が、市民の権利を持つという点にあった。ローマ軍は単純に兵士ではなく、道路や水道の設置といった土木建築作業を行う、工兵部隊でもあり、女性の活躍しにくい軍編成となっていた。

 トロイ戦争の伝承に伝わる、アマゾネスについても、戦車兵であり弓騎兵であったから、女性の活躍しやすい軍編成となっている。高速で起動する騎馬は、軽装騎兵に意味があり、弓兵であれば男性と渡り合うことも可能となる。アマゾネスの国は、黒海がアマゾーン海と呼ばれた時代もあり、スキタイやサルマタイ黒海沿岸の地で騎馬民族の国であったと推定されている。

 現在は、ジェンダーへの配慮という観点から、性差に関係なく兵士採用等が行われているが、理想と現実は一致しないもので、現実の状況から弊害が生じている。

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