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6章
(25)濡れない涙
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マガツヒの背中は、真っ黒に塗りつぶした英雄の丘のように荒々しい鱗で隆起していた。鱗には実体がありながら川のように流動しているため、しがみついたと思えば遙か後方へと流されてしまう。そのせいで、狩人達はいまだにマガツヒの頭部に辿り着けていなかった。
一方で、飛行手段を持つ者たちにそのような制限はない。ようやくマガツヒの中腹へ差し掛かったところだった。
「どこだリョーホ! 返事をしろ!」
声を張り上げながら、エトロはくまなく鱗の表面を探し回る。
どういう原理か、暗雲の中で雷光が轟くたびにマガツヒの鱗は透ける性質があった。ならば外側からでもリョーホの姿が見えるんじゃないかと、エトロはシャルとマガツヒを囲うように飛び回っていた。が、トルメンダルクに並ぶほどの巨体をくまなく探すのも限界がある。
マガツヒの頭はまだまだ先だ。誰よりも早く登っているエトロたちでさえ、マガツヒの顔を拝むことすらできていない。
足元へ視線を移すと、ミニチュアサイズのエラムラの里が一望できた。広場があった場所には、ここからでもはっきり見える真っ赤な大穴が開いている。エラムラを囲っていた北東側の高い峰は平らになっており、薄明の塔がある西側だけが、辛うじて面影を残している有様だった。
ゴモリー・リデルゴアとの戦闘はかなり過酷だったのだろう。遠くからでも断続的に戦闘音が聞こえていたが、今は不気味なほど静まり返っていた。
エトロはしばしハウラの安否に気を取られたが、大きく息を吐き切り、顔を上げて迷いを断ち切った。
リョーホを取り戻す方法は、まだ分からない。だが、どこかにリョーホの人間の体が残っているはずだと、エトロは踏んでいた。
報告によれば、オラガイアに出現したキメラトルメンダルクは、頭部にニヴィの人間部分が残っていたそうだ。ニヴィの魂もまた人間部分に繋ぎ止められていたらしく、リョーホが首を切った瞬間、トルメンダルクの肉体へ魂が流されてしまったらしい。
もし、マガツヒもニヴィと同じような状態にあるならば、上手く人間の部位だけを切り離すことでリョーホを救えるかもしれない。淡い希望を握りしめながら、エトロたちはマガツヒの背を駆け上った。
「シャル、リョーホの魂は見えたか!?」
『重力操作』の負担にならぬよう、片腕を絡ませるように密着しながら隣のシャルへ目を向ける。シャルの紫色の瞳は、強風に晒されながらも、マガツヒの全体を粘り強く視界に写した。
だが、シャルは鼻先に皺を刻み、大きく首を左右に振った。
「うぅ、何も見えない! なんか、鱗の中身がでっかい影で塞がれてる感じ!」
「そうか」
紫色の瞳は壁越しでも魂を見つけられるはず。それでも見えないということは、マガツヒの鱗が特殊なのか、中身が分厚すぎるせいで透かすことが出来ないのかもしれない。
考え事をしていると、空から巨大な布を広げるような音がした。見上げれば、一枚だけで村を乗せられそうな翼がはためいている。あまりの遠大さに、エトロはしばし言葉を失った。
この巨体がたった一人の人間から生み出されたなんて、誰が想像できる。
ヤツカバネ然り、ディアノックス然り、巨体のドラゴンは生命を維持すべく暴食に走りやすい。特にディアノックスは常に捕食し続けなければ身体が崩れ落ちてしまうほど、燃費が悪いことで有名だった。
マガツヒもそれは例外ではないはず。だが、誕生して以降、マガツヒは一向に捕食行動を取っていなかった。災厄の竜とあろうものが、いくらなんでも大人しすぎる。ハウラの結界で阻まれ、成長し切れていないのもあるだろう。しかし、マガツヒの下には餌になりそうな人間が大勢いるのだ。なのに、なぜ人間に襲い掛からず、空に留まり続けているのだろうか。
リョーホの意識がそうさせているのか、それとも……。
「うわっ!」
がくん、とシャルの『重力操作』が途切れ、一瞬大きく落下する。すぐに持ち直したものの、先ほどより明らかに速度が出せていなかった。
「どうした、シャル」
「わかんない、急に力が出なくなった!」
エトロは嫌な予感を覚えながら、シャルの菌糸模様を見下ろした。すると、手首にはっきりと刻まれていたはずの『重力操作』の模様が、緩やかに薄らいでいくところだった。
「なっ……」
咄嗟にエトロも『氷晶』を確認するが、案の定、同じように菌糸能力が消え始めているではないか。
能力を発動しようと指先に力を込める。幸い、氷は生み出せるようだが、普段より明らかに発動が遅れた。観察を続けると、どうやらマガツヒの頭部に近づくほどに能力が弱まっているらしい。
「まさか、マガツヒの捕食対象は菌糸能力なのか!?」
それならば、マガツヒが小康状態を保っているのも納得がいく。わざわざ結界の外に出ずとも、狩人達が勝手に餌を提供してくれるのだから。
逆に言えば、ここにいる狩人たちが菌糸能力を全て食われたら、マガツヒは一気に凶暴化しかねないということだ。
思わぬ伏兵にエトロは冷や汗をかいた。これは時間との勝負だ。体内の菌糸を食い尽くされれば、おそらくマガツヒが撒き散らすドラゴン毒素によって、エトロ達もドラゴン化する。つまり、菌糸能力を全て失う前に、マガツヒを討伐しなければならないのである。
しかしエトロとシャルの目的はリョーホの救出。討伐よりも遥かに困難だ。
間に合うのか。見つかるのか? 手遅れだったらどうする。いつかリョーホが人間に戻る方法が見つかっても、そこにエトロがいなければ、彼はどう思う?
「──!」
マガツヒの翼が大気を打った。その衝撃で、たまたま近くにいたエトロ達は凄まじい速度で吹き飛ばされた。
「エトロ、離さないで!」
シャルとしっかり腕を掴み合いながら、片腕と両足を広げてバランスを取る。マガツヒが凶暴化していたら、今の一瞬で食い殺されていてもおかしくなかっただろう。
「油断した……!」
舌打ちをしながら『氷晶』の壁を作り、それを蹴って方向転換する。
一度至近距離から遠ざかったことで、真っ黒な壁にしか見えなかったマガツヒの全体像がよりはっきり見えるようになった。
雷鳴が轟き、マガツヒの鱗が再び透ける。
チカ、とマガツヒの胸の辺りで何かが光った。針先のように小さな銀色が、何かと呼応するように点滅を繰り返している。
「──見つけたぞ。心臓部だ!」
エトロが人差し指を掲げた瞬間、シャルの口元に獰猛な笑みが刻まれた。
「猛進! 突撃!」
シャルの全身から紫色の閃光が放たれる。直後、二人は銀色の光目掛けて落下した。
鼻先が折れそうなほどの強風が押し寄せる。それとほぼ同時に、景色が流線的に引き伸ばされる。氷槍を掲げて空気を切り裂かなければ、四肢がバラバラになってしまいそうだ。
マガツヒに菌糸能力を食われたばかりと思えぬほどの加速だった。だが、マガツヒに近づくにつれ、シャルの菌糸模様が導火線のように擦り切れていく。シャルはこれを最後の機会と決めたらしい。
心臓部に取り付けるチャンスは、おそらくこの一度きり。
一撃で、鱗に穴を開ける。
エトロは目尻を鋭く尖らせ、風圧の先に狙いを定める。
「いっ……けぇ!」
最後の最後で、力を振り絞ったシャルがエトロを押し上げる。紫色の閃光がエトロに全て譲渡され、シャルの矮躯は反動で投げ出された。
──ありがとう、シャル。
内心に溢れた感謝を遙か後方へ置き去りに、エトロは両腕を絞り、氷槍と一体化した。
「うおおおおおお!」
喉が裂けんばかりに怒号を上げ、全身全霊で槍先を捩じ込む。鱗と鱗の間にめり込んだ槍は、杭で木材を割るように深々と突き刺さった。
エトロはさらに槍に全体重を乗せ、菌糸能力を発動する。
「弾けろ!」
首筋から溢れ出した青白い光と、紫色の閃光が混ざり合う。刹那、槍の先端から周囲の鱗を吹き飛ばすほどの氷山が出現した。騒々しい音を立てて四散した黒い鱗は、空中に漂いながら霧のように消えていく。
『──────ッッッ!』
マガツヒの胴体が大きく揺らいだ。エトロの両足が遠心力に振り回され、馬鹿みたいに宙でばたつく。
「まだ、足りないっ!」
氷山はまだ周辺の鱗を弾き飛ばしただけだ。エトロが求める銀色の光は、分厚い筋肉を引き裂いた先にある。
「うおおおあああああッ!」
力を振り絞り、より深くへ氷を展開する。刺々しい氷柱が内側から肉を破り、また鱗を吹き飛ばしたが。
それでも、やはり表面だけだ。奥に行くほどに氷柱が阻まれ、思うように切り開けない。
どうやら、マガツヒの心臓に近づくほどに、菌糸能力が消化される速度も上がっているらしい。
「まだだ! まだ行ける!」
何度も、何度も氷柱の先端から新たな氷針を生み出す。鑿で大岩を削るような大変な労力だった。あげく、進むほどに手応えがなくなっていった。
力を使うたび、エトロの中で温かいものが消滅していく。弱っていく力に反比例するように、マガツヒの捕食速度も次第に上昇していた。
そうして、内臓に到達するより前に『氷晶』の進行が阻まれた。氷柱で抉った分だけ槍を穿っても、これ以上先に進めない。
「痛った……!」
視界の端で、エトロの左手の皮膚が割れた。ガラス細工のようにパックリと裂けた傷口は、やがて花びらのように逆立ち、青白く変色していく。艶やかで血に濡れた、ドラゴンの鱗だった。
それを認識した途端、死神に心臓を撫でられたような悍ましい感覚に襲われた。
それでも、エトロはより一層冷気を放出した。
「リョーホ! 聞こえてるんだろう! 迎えに来た! 一緒に帰ろう!」
エトロの怒鳴るような声は、吹き荒れる冷気と上空の風に攫われた。
「返事をしてくれ! そこにいるんだろう!」
糸電話の真似事でもするように、突き刺した槍に顔を近づけて叫ぶ。溢れる冷気で視界が真っ白に染まり、マガツヒの黒鱗が激しく明滅した。
「リョーホ! 私だ! エトロだ! 頼む! なんでもいいから、お前がここにいると答えてくれ!」
返事はなかった。
──リョーホは、私に対して怒っているのだろうか。
唐突にそのような思考が過ぎる。
リョーホは他人を傷つけることを極端に恐れる人だ。ハインキーやロッシュが死んだ時も酷く動揺していたし、誰かの死には特に敏感だ。それは、何度も死を経験した彼の人生観がそうさせたのだろう。
そんな彼が、大勢のエラムラの民を虐殺してしまうのを止められなかった。もしこんな姿になっても意識があるのなら、彼は凄まじい怒りに駆られていることだろう。それが何よりも残酷なことだと分かっていながら、エトロは意識があって欲しいと願っていた。
「リョーホ! 聞いてくれ! またお前と話がしたいんだ!」
なけなしの希望を捨てられず、刃を突き立てながらぶつけることしかできない。
エトロはリョーホのことを、自分が思っているほど知っているわけではない。だが、リョーホは旧人類でありながら、新人類のために終末の日を止めたいと言ってくれた。その気持ちだけは、絶対に尊重したいのだ。
終末の日が起きれば、旧人類は復活を遂げる。リョーホがあれだけ彼が帰りたいと願っていた世界だ。
なのに、リョーホはその可能性を投げ捨て、エトロ達とこの世界で生きると決めてくれた。自らの意思で家族や友人と訣別するようなものだ。それはスタンピードで故郷を失うよりも、ずっと重い決断だったはずだ。
リョーホは、旧世界の再誕を望んでいない。そんな彼が、終末を招こうとしているのなら、止めなければならない。
もっと話したいことがある。
もっと一緒にやりたいこともある。
リョーホの故郷の話を、もっと聞きたい。リョーホが自分を知ろうとしてくれたように。
自分は大馬鹿者だ、とエトロは白い息を震わせた。
「……初めてお前と会った時、事情も知らず、殺そうとしてすまなかった。私の復讐のために、お前を利用してすまなかった!」
溢れ出した思いが、脈絡もなく形を持って溢れていく。
「私は今まで、お前に嫌われるようなことばかりをしてきた。自分でも最低だと思う! だって私は、一時でもお前に、死んで欲しいと願ってしまったんだ!」
べきりと左耳で鱗が生えた。口の中で顎が膨らみ、歯の配列が強引に前へ押し出されていく感覚がする。
「私はお前に嫉妬していた! 人を殺したこともなく、何の苦しみも味わってこなかっただろう、お前が! 私は故郷を失ったのに、お前には帰る故郷が残っていると聞いた時は、内臓がひっくり返りそうなほど憎かったんだ!」
噛み合わせがズレた奥歯を食いしばると、頭蓋に響く不快な音がした。
「私より楽な人生を歩んでいるくせに、師匠に気に入られたお前が、邪魔で、我慢できなかった……!」
目尻から凍った涙が滲み、冷気に吹き飛ばされる。その涙も、マガツヒの力によって空中で消化された。
「なのにお前は私の傍にいてくれた! 嬉しかったけど、怖かったんだ! また大切なものを失ってしまうのが!」
左の頬骨が、視界の下に見えるほど大きく前へとせり出した。皮膚が引っ張られる痛みで表情筋がひしゃげる。だが、それが止まる理由にはならなかった。
「お前を大切だト、思いたくなかった!だけどお前があまりニも諦めが悪いから、っ、私を好きだと言ってクれるから、私も応えたいと思っテしまった!」
左目が極彩色に染まり、今まで知覚したこともない色が見え始める。真っ黒だったマガツヒの鱗は、まるで鴉のように多種多様な色で煌めいて、リョーホの髪の色に少しだけ似ていた。
「お前なラきっと、私に殺してくれと言うだろう。でも私は、かつてノお前と同じように、諦めない!」
氷の進行と捕食による均衡が、ついに崩れ始めた。押し負けたのは氷の方だ。
マガツヒの体内から生み出される不可視の捕食者によって、氷が次々とマガツヒに吸収されていく。
バキン! と氷柱が砕け散った。不可視の捕食者は、歯を鳴らしながらエトロの目前まで迫ってきている。
捕食者の顎門が肉体に到達すれば、エトロはもう人の形を保っていられないだろう。
逃げるなら今だ。
エトロの頭の後ろで悪魔が囁く。
その幻聴を振り払うが如く、エトロは音がしそうなほど強く目を見開いた。
「リョーホ! お前は前に、死にたくないと泣いてイたじゃないか! こんな終わり方、望んでないダろう!?」
残りの一滴まで注ぐ覚悟で、エトロは氷槍へ縋り付く。
「私と共に来い! リョーホ! 私がお前の居場所を作ろう! そうしたら気が向いた時デもいい、誰も見たことのない景色を見よう! 私と、二人でッ!」
勢いが萎んでいた氷槍は、主人の僅かな菌糸と強く共鳴し、一気に推力を取り戻した。
あえて不可視の捕食者の口へ押し込むように、氷山ごと槍をねじ込み肉を抉る。高速で消化され続ける氷山からは、いつしか冷気ではなく、水蒸気が迸っていた。
「頼むよ……もう失いたくないんだ……! 」
猛烈な熱気がエトロの頬を焼く。エトロだけでなく、武器に練り込まれた『氷晶』ですら、マガツヒから生み出される不可視の捕食者に食らいつかれ、菌糸能力が失速していく。
これだけ力を絞り出しても、リョーホを包む分厚い壁は揺るがなかった。
「ぅッ!」
ついにエトロの左耳が剥げ落ちた。身体の半分は既に人間ではない。もはや、水蒸気に焼かれているのか、鱗で引き裂かれて痛むのか判別がつかなかった。激痛のあまり、残っている右目が濁り始めている。
全身が重い。呼吸が途切れそうだ。手足が痺れて、物を掴んでいる感覚すらない。
「──……リョーホッ」
エトロは半ば白目を剥き、かくりと頭を下げた。
その時。
ほとんど停止していた氷槍の石突に、猛烈な衝撃が加わった。
一方で、飛行手段を持つ者たちにそのような制限はない。ようやくマガツヒの中腹へ差し掛かったところだった。
「どこだリョーホ! 返事をしろ!」
声を張り上げながら、エトロはくまなく鱗の表面を探し回る。
どういう原理か、暗雲の中で雷光が轟くたびにマガツヒの鱗は透ける性質があった。ならば外側からでもリョーホの姿が見えるんじゃないかと、エトロはシャルとマガツヒを囲うように飛び回っていた。が、トルメンダルクに並ぶほどの巨体をくまなく探すのも限界がある。
マガツヒの頭はまだまだ先だ。誰よりも早く登っているエトロたちでさえ、マガツヒの顔を拝むことすらできていない。
足元へ視線を移すと、ミニチュアサイズのエラムラの里が一望できた。広場があった場所には、ここからでもはっきり見える真っ赤な大穴が開いている。エラムラを囲っていた北東側の高い峰は平らになっており、薄明の塔がある西側だけが、辛うじて面影を残している有様だった。
ゴモリー・リデルゴアとの戦闘はかなり過酷だったのだろう。遠くからでも断続的に戦闘音が聞こえていたが、今は不気味なほど静まり返っていた。
エトロはしばしハウラの安否に気を取られたが、大きく息を吐き切り、顔を上げて迷いを断ち切った。
リョーホを取り戻す方法は、まだ分からない。だが、どこかにリョーホの人間の体が残っているはずだと、エトロは踏んでいた。
報告によれば、オラガイアに出現したキメラトルメンダルクは、頭部にニヴィの人間部分が残っていたそうだ。ニヴィの魂もまた人間部分に繋ぎ止められていたらしく、リョーホが首を切った瞬間、トルメンダルクの肉体へ魂が流されてしまったらしい。
もし、マガツヒもニヴィと同じような状態にあるならば、上手く人間の部位だけを切り離すことでリョーホを救えるかもしれない。淡い希望を握りしめながら、エトロたちはマガツヒの背を駆け上った。
「シャル、リョーホの魂は見えたか!?」
『重力操作』の負担にならぬよう、片腕を絡ませるように密着しながら隣のシャルへ目を向ける。シャルの紫色の瞳は、強風に晒されながらも、マガツヒの全体を粘り強く視界に写した。
だが、シャルは鼻先に皺を刻み、大きく首を左右に振った。
「うぅ、何も見えない! なんか、鱗の中身がでっかい影で塞がれてる感じ!」
「そうか」
紫色の瞳は壁越しでも魂を見つけられるはず。それでも見えないということは、マガツヒの鱗が特殊なのか、中身が分厚すぎるせいで透かすことが出来ないのかもしれない。
考え事をしていると、空から巨大な布を広げるような音がした。見上げれば、一枚だけで村を乗せられそうな翼がはためいている。あまりの遠大さに、エトロはしばし言葉を失った。
この巨体がたった一人の人間から生み出されたなんて、誰が想像できる。
ヤツカバネ然り、ディアノックス然り、巨体のドラゴンは生命を維持すべく暴食に走りやすい。特にディアノックスは常に捕食し続けなければ身体が崩れ落ちてしまうほど、燃費が悪いことで有名だった。
マガツヒもそれは例外ではないはず。だが、誕生して以降、マガツヒは一向に捕食行動を取っていなかった。災厄の竜とあろうものが、いくらなんでも大人しすぎる。ハウラの結界で阻まれ、成長し切れていないのもあるだろう。しかし、マガツヒの下には餌になりそうな人間が大勢いるのだ。なのに、なぜ人間に襲い掛からず、空に留まり続けているのだろうか。
リョーホの意識がそうさせているのか、それとも……。
「うわっ!」
がくん、とシャルの『重力操作』が途切れ、一瞬大きく落下する。すぐに持ち直したものの、先ほどより明らかに速度が出せていなかった。
「どうした、シャル」
「わかんない、急に力が出なくなった!」
エトロは嫌な予感を覚えながら、シャルの菌糸模様を見下ろした。すると、手首にはっきりと刻まれていたはずの『重力操作』の模様が、緩やかに薄らいでいくところだった。
「なっ……」
咄嗟にエトロも『氷晶』を確認するが、案の定、同じように菌糸能力が消え始めているではないか。
能力を発動しようと指先に力を込める。幸い、氷は生み出せるようだが、普段より明らかに発動が遅れた。観察を続けると、どうやらマガツヒの頭部に近づくほどに能力が弱まっているらしい。
「まさか、マガツヒの捕食対象は菌糸能力なのか!?」
それならば、マガツヒが小康状態を保っているのも納得がいく。わざわざ結界の外に出ずとも、狩人達が勝手に餌を提供してくれるのだから。
逆に言えば、ここにいる狩人たちが菌糸能力を全て食われたら、マガツヒは一気に凶暴化しかねないということだ。
思わぬ伏兵にエトロは冷や汗をかいた。これは時間との勝負だ。体内の菌糸を食い尽くされれば、おそらくマガツヒが撒き散らすドラゴン毒素によって、エトロ達もドラゴン化する。つまり、菌糸能力を全て失う前に、マガツヒを討伐しなければならないのである。
しかしエトロとシャルの目的はリョーホの救出。討伐よりも遥かに困難だ。
間に合うのか。見つかるのか? 手遅れだったらどうする。いつかリョーホが人間に戻る方法が見つかっても、そこにエトロがいなければ、彼はどう思う?
「──!」
マガツヒの翼が大気を打った。その衝撃で、たまたま近くにいたエトロ達は凄まじい速度で吹き飛ばされた。
「エトロ、離さないで!」
シャルとしっかり腕を掴み合いながら、片腕と両足を広げてバランスを取る。マガツヒが凶暴化していたら、今の一瞬で食い殺されていてもおかしくなかっただろう。
「油断した……!」
舌打ちをしながら『氷晶』の壁を作り、それを蹴って方向転換する。
一度至近距離から遠ざかったことで、真っ黒な壁にしか見えなかったマガツヒの全体像がよりはっきり見えるようになった。
雷鳴が轟き、マガツヒの鱗が再び透ける。
チカ、とマガツヒの胸の辺りで何かが光った。針先のように小さな銀色が、何かと呼応するように点滅を繰り返している。
「──見つけたぞ。心臓部だ!」
エトロが人差し指を掲げた瞬間、シャルの口元に獰猛な笑みが刻まれた。
「猛進! 突撃!」
シャルの全身から紫色の閃光が放たれる。直後、二人は銀色の光目掛けて落下した。
鼻先が折れそうなほどの強風が押し寄せる。それとほぼ同時に、景色が流線的に引き伸ばされる。氷槍を掲げて空気を切り裂かなければ、四肢がバラバラになってしまいそうだ。
マガツヒに菌糸能力を食われたばかりと思えぬほどの加速だった。だが、マガツヒに近づくにつれ、シャルの菌糸模様が導火線のように擦り切れていく。シャルはこれを最後の機会と決めたらしい。
心臓部に取り付けるチャンスは、おそらくこの一度きり。
一撃で、鱗に穴を開ける。
エトロは目尻を鋭く尖らせ、風圧の先に狙いを定める。
「いっ……けぇ!」
最後の最後で、力を振り絞ったシャルがエトロを押し上げる。紫色の閃光がエトロに全て譲渡され、シャルの矮躯は反動で投げ出された。
──ありがとう、シャル。
内心に溢れた感謝を遙か後方へ置き去りに、エトロは両腕を絞り、氷槍と一体化した。
「うおおおおおお!」
喉が裂けんばかりに怒号を上げ、全身全霊で槍先を捩じ込む。鱗と鱗の間にめり込んだ槍は、杭で木材を割るように深々と突き刺さった。
エトロはさらに槍に全体重を乗せ、菌糸能力を発動する。
「弾けろ!」
首筋から溢れ出した青白い光と、紫色の閃光が混ざり合う。刹那、槍の先端から周囲の鱗を吹き飛ばすほどの氷山が出現した。騒々しい音を立てて四散した黒い鱗は、空中に漂いながら霧のように消えていく。
『──────ッッッ!』
マガツヒの胴体が大きく揺らいだ。エトロの両足が遠心力に振り回され、馬鹿みたいに宙でばたつく。
「まだ、足りないっ!」
氷山はまだ周辺の鱗を弾き飛ばしただけだ。エトロが求める銀色の光は、分厚い筋肉を引き裂いた先にある。
「うおおおあああああッ!」
力を振り絞り、より深くへ氷を展開する。刺々しい氷柱が内側から肉を破り、また鱗を吹き飛ばしたが。
それでも、やはり表面だけだ。奥に行くほどに氷柱が阻まれ、思うように切り開けない。
どうやら、マガツヒの心臓に近づくほどに、菌糸能力が消化される速度も上がっているらしい。
「まだだ! まだ行ける!」
何度も、何度も氷柱の先端から新たな氷針を生み出す。鑿で大岩を削るような大変な労力だった。あげく、進むほどに手応えがなくなっていった。
力を使うたび、エトロの中で温かいものが消滅していく。弱っていく力に反比例するように、マガツヒの捕食速度も次第に上昇していた。
そうして、内臓に到達するより前に『氷晶』の進行が阻まれた。氷柱で抉った分だけ槍を穿っても、これ以上先に進めない。
「痛った……!」
視界の端で、エトロの左手の皮膚が割れた。ガラス細工のようにパックリと裂けた傷口は、やがて花びらのように逆立ち、青白く変色していく。艶やかで血に濡れた、ドラゴンの鱗だった。
それを認識した途端、死神に心臓を撫でられたような悍ましい感覚に襲われた。
それでも、エトロはより一層冷気を放出した。
「リョーホ! 聞こえてるんだろう! 迎えに来た! 一緒に帰ろう!」
エトロの怒鳴るような声は、吹き荒れる冷気と上空の風に攫われた。
「返事をしてくれ! そこにいるんだろう!」
糸電話の真似事でもするように、突き刺した槍に顔を近づけて叫ぶ。溢れる冷気で視界が真っ白に染まり、マガツヒの黒鱗が激しく明滅した。
「リョーホ! 私だ! エトロだ! 頼む! なんでもいいから、お前がここにいると答えてくれ!」
返事はなかった。
──リョーホは、私に対して怒っているのだろうか。
唐突にそのような思考が過ぎる。
リョーホは他人を傷つけることを極端に恐れる人だ。ハインキーやロッシュが死んだ時も酷く動揺していたし、誰かの死には特に敏感だ。それは、何度も死を経験した彼の人生観がそうさせたのだろう。
そんな彼が、大勢のエラムラの民を虐殺してしまうのを止められなかった。もしこんな姿になっても意識があるのなら、彼は凄まじい怒りに駆られていることだろう。それが何よりも残酷なことだと分かっていながら、エトロは意識があって欲しいと願っていた。
「リョーホ! 聞いてくれ! またお前と話がしたいんだ!」
なけなしの希望を捨てられず、刃を突き立てながらぶつけることしかできない。
エトロはリョーホのことを、自分が思っているほど知っているわけではない。だが、リョーホは旧人類でありながら、新人類のために終末の日を止めたいと言ってくれた。その気持ちだけは、絶対に尊重したいのだ。
終末の日が起きれば、旧人類は復活を遂げる。リョーホがあれだけ彼が帰りたいと願っていた世界だ。
なのに、リョーホはその可能性を投げ捨て、エトロ達とこの世界で生きると決めてくれた。自らの意思で家族や友人と訣別するようなものだ。それはスタンピードで故郷を失うよりも、ずっと重い決断だったはずだ。
リョーホは、旧世界の再誕を望んでいない。そんな彼が、終末を招こうとしているのなら、止めなければならない。
もっと話したいことがある。
もっと一緒にやりたいこともある。
リョーホの故郷の話を、もっと聞きたい。リョーホが自分を知ろうとしてくれたように。
自分は大馬鹿者だ、とエトロは白い息を震わせた。
「……初めてお前と会った時、事情も知らず、殺そうとしてすまなかった。私の復讐のために、お前を利用してすまなかった!」
溢れ出した思いが、脈絡もなく形を持って溢れていく。
「私は今まで、お前に嫌われるようなことばかりをしてきた。自分でも最低だと思う! だって私は、一時でもお前に、死んで欲しいと願ってしまったんだ!」
べきりと左耳で鱗が生えた。口の中で顎が膨らみ、歯の配列が強引に前へ押し出されていく感覚がする。
「私はお前に嫉妬していた! 人を殺したこともなく、何の苦しみも味わってこなかっただろう、お前が! 私は故郷を失ったのに、お前には帰る故郷が残っていると聞いた時は、内臓がひっくり返りそうなほど憎かったんだ!」
噛み合わせがズレた奥歯を食いしばると、頭蓋に響く不快な音がした。
「私より楽な人生を歩んでいるくせに、師匠に気に入られたお前が、邪魔で、我慢できなかった……!」
目尻から凍った涙が滲み、冷気に吹き飛ばされる。その涙も、マガツヒの力によって空中で消化された。
「なのにお前は私の傍にいてくれた! 嬉しかったけど、怖かったんだ! また大切なものを失ってしまうのが!」
左の頬骨が、視界の下に見えるほど大きく前へとせり出した。皮膚が引っ張られる痛みで表情筋がひしゃげる。だが、それが止まる理由にはならなかった。
「お前を大切だト、思いたくなかった!だけどお前があまりニも諦めが悪いから、っ、私を好きだと言ってクれるから、私も応えたいと思っテしまった!」
左目が極彩色に染まり、今まで知覚したこともない色が見え始める。真っ黒だったマガツヒの鱗は、まるで鴉のように多種多様な色で煌めいて、リョーホの髪の色に少しだけ似ていた。
「お前なラきっと、私に殺してくれと言うだろう。でも私は、かつてノお前と同じように、諦めない!」
氷の進行と捕食による均衡が、ついに崩れ始めた。押し負けたのは氷の方だ。
マガツヒの体内から生み出される不可視の捕食者によって、氷が次々とマガツヒに吸収されていく。
バキン! と氷柱が砕け散った。不可視の捕食者は、歯を鳴らしながらエトロの目前まで迫ってきている。
捕食者の顎門が肉体に到達すれば、エトロはもう人の形を保っていられないだろう。
逃げるなら今だ。
エトロの頭の後ろで悪魔が囁く。
その幻聴を振り払うが如く、エトロは音がしそうなほど強く目を見開いた。
「リョーホ! お前は前に、死にたくないと泣いてイたじゃないか! こんな終わり方、望んでないダろう!?」
残りの一滴まで注ぐ覚悟で、エトロは氷槍へ縋り付く。
「私と共に来い! リョーホ! 私がお前の居場所を作ろう! そうしたら気が向いた時デもいい、誰も見たことのない景色を見よう! 私と、二人でッ!」
勢いが萎んでいた氷槍は、主人の僅かな菌糸と強く共鳴し、一気に推力を取り戻した。
あえて不可視の捕食者の口へ押し込むように、氷山ごと槍をねじ込み肉を抉る。高速で消化され続ける氷山からは、いつしか冷気ではなく、水蒸気が迸っていた。
「頼むよ……もう失いたくないんだ……! 」
猛烈な熱気がエトロの頬を焼く。エトロだけでなく、武器に練り込まれた『氷晶』ですら、マガツヒから生み出される不可視の捕食者に食らいつかれ、菌糸能力が失速していく。
これだけ力を絞り出しても、リョーホを包む分厚い壁は揺るがなかった。
「ぅッ!」
ついにエトロの左耳が剥げ落ちた。身体の半分は既に人間ではない。もはや、水蒸気に焼かれているのか、鱗で引き裂かれて痛むのか判別がつかなかった。激痛のあまり、残っている右目が濁り始めている。
全身が重い。呼吸が途切れそうだ。手足が痺れて、物を掴んでいる感覚すらない。
「──……リョーホッ」
エトロは半ば白目を剥き、かくりと頭を下げた。
その時。
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