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第二章 柴イヌと犬人族のお姫様

第三十一話 アジェル

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 アジェルさんの匂いのする家に着いたオレは、血の匂いが漏れてくる二階の窓を見上げました。
 ちょうど開いているので窓までジャンプしましょう。

 もちろん『デキるオス』モードでなら難しくはありません。楽々窓枠に飛び乗り中をのぞきこみました。
 するとアジェルさんと一緒にいた二人の獣人さんが血まみれで倒れていて──

「大丈夫ですかっ!」

 急いで駆け寄ってみたのですが、一人はもう息をしていません。でももう一人の獣人さんがかすかに目を開いてオレを見ながら口を動かしています。

「ひ、ひ……さま……つ……て……」

 何を言っているのかわからないので、オレは口元に耳を寄せました。

「ひめ……さま……つれて……いかれ」

「アジェルさんが連れていかれたんですか?」

 オレがそう聞き返すと、獣人さんは目でうなずいて──だからアジェルさんの姿がないのですね。
 どうやらアジェルさんの匂いは残りだけだったようです。

 でもこの人、いまにも死にそうだけど……どうしましょう、オレだけでは助けられません。
 なのでオレは救いを求めて大きく遠吠とおぼえをしました!

「ワオオオーーーンッ!」

 お願いしますリリアンさん、気づいてくださいっ!

「あっ、コテツ殿の遠吠え……!?」

「どうしたのリリアン?」

「いま……コテツ殿の遠吠えが聞こえた! 何かあったんだっ。モニカ、私ちょっと行ってくるッ!」

「えっ? コテツさんいまアジェル姫の所に居るのよ? てか、何が聞こえたのよ?」

「モニカも後から来てくれっ! 急げッ!」

 困りました。オレは獣人さんの傷口をめ続けているのですが、血が止まりません。
 でもオレが出来ることといったらこれくらいですし……

 とにかく必死で舐め続けていると、リリアンさんが近づいてくるのがわかりました。
 よかった! オレの遠吠えに気づいてくれたんですねっ!

「こ、コテツ殿っ! こ、これは一体どうしたのですかッ!?」

「わかりませんッ! でもこの人が死にそうなんです、何とかしてあげてくださいっ」

「えっ! し、しかし私は回復魔法は使えなくて……と、とにかく止血しましょうッ!」

 リリアンさんが手早く布を切り裂き、傷口を強く縛ろうとした時です。
 ちょうどモニカさんも駆けつけてくれて。

「あ、リリアン、止血は待って!」

 やはり驚いた顔をしたモニカさんでしたが、応急措置しかできないけどと言って例の怖いブツブツを言い始めました。

呪詛じゅそむしたかり』をかけましたわ。相手を不快にさせるだけの初歩の呪詛ですが、実はこの蟲には傷を治癒する能力がありますの」

 うわあ……獣人さんの傷口に白いウネウネした虫さんが一杯たかっています! 気持ち悪い……
 でも確かに獣人さんからは少し楽になった匂いがしてきました。

「ひ、姫様を……どうか……姫様を助けてくだ……さい……」

 声にも少しだけ力が戻った獣人さんは、さっきより長く話せるようです。
 いまリリアンさんが回復師という人を探しに行っているので、もう少しの辛抱ですよ。

 それにしても……

「アジェルさんを連れて行ったのは誰なんですか?」

「わから……ない、見た事のない人間の男で……二本の短剣をつか手練てだれ……だった」

 それを聞いたモニカさんが、途端に厳しい顔をしました。

「それって……まさかオスカーじゃ!? その男から匂いはしていましたかっ?」

「いや……途中から……匂いと気配……それに姿が消えて……あれは……魔法なのか?」

「いえ、アサシンの技ですわね。なるほど、アジェル姫をさらったのはオスカーで間違いないでしょう」

 ふむ、やっぱりオスカーさんはくそ野郎でしたかっ!

 アジェルさんは獣人とはいえイヌの仲間ですからね。ならやっぱりオレは助けてあげたいです──

「モニカさん、オレ、アジェルさんを取り返しにいってきます!」

「ええ、私もオスカーに今度こそ復讐してやりたいので、一緒に行きますわ!」

「はいっ! でもオレは全力で走って行きますので、後から来てくださいっ!」

「え、でも、私が案内しないと、オスカーの仲間から聞き出した取引場所が分からないのでは?」

「大丈夫です! 集中すればアジェルさんの匂いで辿たどって行けますのでっ!」

 オレは窓から外に飛び降りて、微かに残るアジェルさんの匂いを辿りながら駆け出しました。

 町の外に広がる荒れた野原に、アジェルさんの匂いがわずかに続いています。
 その先に大きな岩山があって、どうやらそこへと向かっているようです。

 あ、間違いないですね。いまオスカーさんとアジェルさんの声が聴こえてきました!

「あれえ、誰もいないぞ? おかしいなあ、捕えた獣人たちも一緒にここで売る手筈てはずだったのに」

「ふむ、どうやらわらわ同胞はらからたちは、無事に救出されたようじゃの」

「お嬢ちゃん、何か知ってるのかな?」

「知らぬ。おぬしの様な外道げどうに話す事など何もないわ」

ひどっ! 犬が人間様に外道とか言っちゃうんだ? よくないなあ、しつけがなってない犬は──蹴らなくちゃねっ!」

「うぐっ!……」

 なんかヒドいと言ってるオスカーさんの方が、ヒドいことしてますよね……
 躾は確かに大切ですが、だからってイヌを蹴るのは許せません!

「まあいいや、君は獣人の間では姫巫女ひめみこと呼ばれている特殊能力持ちなんだろ? あの人なら気に入って高く買ってくれそうだしね」

「ふん、あの人とやらには気の毒じゃが、妾は奴隷になどなるくらいなら自死を選ぶわ」

「はあ? 君は自分が奴隷になるとでも思っているのかい? おめでたいね! 君はね、あの人の実験動物にされるんだよ。はは、犬らしい使い道だねっ!」

「…………」

「君の特殊能力って、いわゆる回復魔法の事だろ? 獣人って魔力が殆ど無いはずなのに珍しいよなあ。ねえ、ちょっと使ってみせてよ」

「怪我人もおらんのに何を治せというのじゃ。ふん、ちなみにおぬしの馬鹿は、妾でも治せぬぞ」

「確かにっ! でもさ、怪我人なんて作ればいいじゃんね? 例えば君の尻尾しっぽを斬り落とすとかさっ!」

「なっ!? よ、よせっ! 汚い手で妾の尻尾に触れるなッ!」

「大丈夫、大丈夫! 斬っても回復魔法で繋げれば問題ないだろ? てか、それが見たいんだよねっ」

「よ、よさぬかッ!」

「よっさな~い──よおっ!?」

 イヌパーーンチっ!

「ぶべぼっ!!!」

 なんて人ですかねっ! 尊きイヌの尻尾を斬ろうとするなんてッ!

「お、おぬしはコテツっ!? 来てくれたのじゃなッ!」

「はい、イヌ同士のよしみで来ましたよ! てか、手と足をこんなにキツく縛られちゃって……仔イヌにたいして何てことをっ! ヒドいですよオスカーさん!」

「なぬっ? いま妾を仔犬と申したか!?」

 可哀想に。オレはアジェルさんを縛っている縄を噛み切ってあげました。

「き、き、君は一体何をしたか……分かっているのかっ! こ、この僕のことを殴ったんだぞッ!」

 だから何だというのでしょうか? 悪いことをしておいて……

「アサシンのこの僕にさとられずに、いつここに現れたっ! 君は何者だよッ」 

「おいコテツ! 仔犬とは何じゃっ!」

 二人して一度に話さないで欲しいです……しかもなんか二人とも怒ってるし。

「そうか! 君は確かモニカと一緒にいて自分を柴犬とか名乗った奴だな? なるほどね、ここに拐った獣人たちがいないのも全部モニカの仕業か……」

「妾の歳は十六じゃ、れっきとした成人であるぞっ!」

「へ~え、じゃあきますが、発情したことはあるんですか? そういう匂いの跡がまったくありませんね!」

「ぬぐぐ……た、確かに妾はまだ発情の経験はないっ! だが心身ともにすでに成人しておるわッ!」

 プッ、笑えます。

「お、おい君たちっ! 僕を無視してないか!? こんな屈辱は初めてだよッ!」

 うるさい人ですね、話したいなら順番を守ってくださいよ。オスカーさんこそ躾がなっていませんっ!

「チッ……とりあえず柴犬君、君は死にたまえっ! どうやって僕に覚られずに近づいたかは知らないが、本物のアサシンの技で殺してあげようじゃないかッ!」

 おや? オスカーさんの匂いと気配、それに姿まで消えてしまいました。どうしたのでしょうか?
 そう思った時です。首筋の近くで微かな風切かざきおんがして、オレは反射的にその場を飛び退きました。

「うおマジか! ナイフのわずかな風切り音に反応したの? やるねえ君も! じゃあ次は無音にさせて仕留めるよっ」

「コテツ! 気をつけよっ! オスカーなる者が姿を消し、おぬしを殺しにかかっておるぞッ! 妾の従者を斬り伏せた恐ろしき技じゃっ」

 はあ? なんでオレが殺されるんですか? 意味わかりません。
 てか、だとしたら姿が見えないし匂いもしないんじゃ、イヌにとってはお手上げじゃないですか。

 って──

「イテえーッ!」

「ハハハ、ほら柴犬君の指が二本落ちた。さあ姫巫女さん、ちょっとくっつけてあげてよ。君の能力を確認しておかなくちゃならないんでさ、あの人に高く買って貰いたいんで!」

 オレの指がくなりましたっ! てか、めちゃくちゃイタいですっ!

「動くなコテツっ! いま妾が指を繋げてやるゆえじっとしておれッ!」

 オレの落ちた指をアジェルさんは拾ってくれ、手を血だらけにしながら指の切口を合わせてくれています。
 口の中で何か言葉のようなものをつぶやいているのでしょうか? 小さな声とともに傷口から光がチラチラと漏れているようです。

 姿が見えないままオスカーさんの笑い声だけが響きます。このままだと次の攻撃でオレは殺されるでしょうね。

 はてさてどうしたものか……

「聞くのじゃコテツ。おぬしは妾を置いて逃げよ。動きの速さだけならば、コテツはあの男など敵ではなかろう」

「イヤですね」

「そう言うな。おぬしが自分を犬だと申した事、いまは妾も信じておる。動くものを視る力にけ、嗅覚や聴覚も人間ではありえぬ有能さじゃ。だがいまあの男はその優位を全て封じておる。あきらめて逃げるが得策──」

「イヤなものはイヤですっ。オレが逃げてもオスカーさんは、アジェルさんにヒドいことするに決まっていますからねッ!」

「やれやれ……頑固者め」

「柴イヌですのでっ!」

「そろそろ指はくっついて治ったかい? アサシンの隠形おんぎょうの技も疲れるんだよね。まあ姫巫女さんの能力も分かった事だし、もういいや──おっとその前に、ナイフに着いた柴犬君の血の匂いを消しておこう」

「アジェルさん……離れていてください」

 しかしどうやって匂いを消しているのでしょうかねえ──

 これ前にも思いましたが不自然すぎますよね。この世に匂いのないものなんかありませんし……てか、あれ!? 

「バイバイ、柴犬君っ!」

 なるほど、そうですね……

 オレはあることを試してみようと、目一杯集中してこの場の匂いを嗅ぎました。

 次の瞬間に自分がまだ生きていることを祈りながら……
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