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9 世界最速の戦闘機

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       九月十三日 各務ヶ原飛行場

 山から吹き下ろす早朝の風が九月にしては少し冷える。飛行服を着込んでいるから地上では大丈夫だが、上がると寒そうだな。想像して洋一は軽く身震いしてしまった。
「娑婆で身体がなまったんじゃないか?」
 小暮二飛曹が洋一の背中を軽く叩いた。
「あいつよりはましですよ」
 首をすくめた洋一が見た方には、松岡が皆にお土産の雷おこしを配っていた。久しぶりの休暇だったので皆どこか浮ついている。
「整列!」
 成瀬一飛曹が声を張り上げたので慌てて列を整える。その前を紅宮綺羅が歩き、こちらを向いた。
「諸君、五日の休暇は満喫しただろうか。私は充分に楽しめた」
 そのうちの一日は実はうちで過ごしたのかと思うと、洋一はなんだか不思議な気分だった。ばれたらここに居る皆に袋叩きにされるかもしれない。
「鳥羽から各務ヶ原に変更になったのは補充の十式艦戦を受け取るついでに、実験飛行を手伝うためだ。何しろここは実験飛行隊だからな」
 彼女が両手を広げて示した各務ヶ原飛行場。ここは二つの側面を持つ基地だった。菱崎重工の工場から近いため、新造機、特に十式艦戦の受領は大抵この飛行場だった。もう一つは実験飛行隊。開発途中の試作機や実験機などを飛ばして性能を確かめる場所だった。
 牛の鳴き声が聞こえるのどかな田舎飛行場なのだが、その実海軍の最新鋭機が飛び交う場所でもあった。
「補充用の三機と、訓練用に別に三機ほど借りたので、手空きのものはそれで腕を暖めておくように」
 搭乗割りなど細かいところは後ろに控えていた池永中尉に押しつけていた。
「さあ、実験飛行はこっちだ、ついてきてくれ」
 綺羅についていくのは成瀬一飛曹と、どういうわけだか洋一もだった。
 整備員も五名ほどがそれに続く。探してみるとやっぱり朱音も混ざっていた。
 部下を引き連れて勝手知ったる足取りで綺羅は各務ヶ原を進んだ。
「中隊長は、兵学校卒業直後に各務ヶ原の実験飛行隊付だったんだ」
 いつの間にか洋一の隣にいた成瀬が教えてくれた。
「普通だったら飛行学生になって操縦を習うはずなんだが、中隊長もう操縦免許持ってたからな」
 そんなことを云っていた気がする。たしかノルマン留学中に飛んでいたとか。
 どうして十二で初飛行できたのか、ノルマンの飛行免許はそんなにいいかげんなのか、疑問は色々あったが、紅宮綺羅は海軍兵学校入学時点で二百時間以上の飛行経験を有していた。飛行の科目はないはずなのに、卒業までに更に百時間ほど積み重ねていた。
「一人だけ経験があるからって早速実戦部隊に配属するのはいろいろ不都合があるらしくってな、実験飛行隊付で同期と歩調をあわせることになったらしい」
 古参の成瀬一飛曹の耳にも噂話ぐらいは届いていたらしく、海軍の内面を推測してみせていた。
「半分体の良い厄介払いだったんだろう。けど新型機のたくさんある実験飛行隊なんて我らが中隊長にとっちゃ猫に鰹節だ。気がついたら世界記録保持者だ」
 目立たない閑職に置いたつもりが華々しい功績を立ててしまった。その程度では紅宮綺羅は縛れない。
 一行はやがて格納庫の一つについた。見上げると「重ね菱」と呼ばれる菱が菱形に配置された紋が描かれていた。菱崎重工の印であった。
「やあ塚越さん、お久しぶりです」
 格納庫の前の人影を見て、綺羅は声を掛けた。
「おお、きーちゃん。待ってたよ」
 眼鏡を掛けた中年の男が振り返ると、足早に近づいてきた。
「この中だと洋一君と朱音ちゃんが初めてだったかな? 紹介しよう。菱崎重工の設計主任、塚越義郎さんだ」
 眼鏡に白いつなぎと技術者らしい姿をした男が軽く手を上げた。意外と背丈がある。この人がこの前話題に出た塚越さんか。洋一は背筋を伸ばす。
「よ、よろしくお願いします」
「お、お逢いできて、光栄です!」
 朱音の方はなんだか声が裏返っていた。
「軍人じゃないから、そんなにかしこまらなくていいよ」
 こちらの緊張とは対照的に気さくな態度で塚越は答える。
「それよりきーちゃん。ちょっと乗って欲しい機があるんだ」
 『きーちゃん』とは綺羅様のことだろうか。相手が宮様であることをまったく頓着していないようだった。
「ちゃんと真っ直ぐ飛ぶんでしょうね」
「大丈夫大丈夫、多分」
 当てにならない云い方で塚越は格納庫の中に綺羅を案内する。部下たちもそれに続かざるを得ない。
「こいつなんだけどね」
 そう云いながら一行は中に入る。明るいところから入ったので少し目が慣れるのに時間が掛かった。
 薄暗い、大きな塊が横たわっている。十式艦戦と同じぐらいの太さかな。そう思った洋一だったが、なかなかその端が把握できない。縦にも横にも、とにかく長い。
 異形。洋一のみならず誰もがそう思った。その影から大きめな飛行機ではあろうが、皆が常識と考える飛行機とその姿はあまりにもかけ離れていた。
 真ん中に胴体らしきものがある。その両脇にエンジンがある。そうすると双発機なのだろうが、しかし胴体とおぼしき部位は妙に短く、エンジンの後ろのナセルがなぜそんなに際限なく伸びているのだろうか。いくら何でも胴体より長いのは意味が判らない。しかもなぜ、二つのナセルを尾翼が橋渡ししているのだろうか。
 そんなあり得ない姿をした謎の物体であったが、洋一の脳裏で何かがひっかかった。
「も、もしかして電光?」
 紅宮綺羅が萬和八年に七五七㎞/hで世界記録を達成した菱崎の速度記録機電光。双発機を極限まで小さくした異形の飛行機ではないだろうか。
「うん、おしい」
 少し嬉しそうに塚越は答えた。
「こいつは電光をベースに実用機として使えるように、もうちょっと常識的に仕立て直した機だ」
 それでもかなりの怪異だと思うのだが。洋一は銀色に塗られた怪物を眺めた。
「ああ、大分大人しい形になりましたね」
 しかし紅宮綺羅は違った感想を持っていたようだった。
「幅を縮めるために胴体すら削ってエンジン近づけるのはどうかと思ってたんですよ。知ってますか塚越さん。電光って頭出すと右と左で顔に当たる風が逆向きになるんですよ」
「本番はちゃんと片方逆回転にしただろ。いろいろ試行錯誤ってもんがあるんだよ」
 二人とも実に楽しそうに口げんかをしていた。洋一にはすごくうらやましく見えた。
「独創的ですよね、電光って」
 異形の翼を洋一は見上げた。
「六式とか十式とかと全然違うし、双発といっても陸攻とも違うし」
 これまでのどの飛行機にも似ていない、およそ菱崎らしくない機体だった。
「まあ、基礎設計は俺じゃないしな」
 塚越の口から意外な言葉が出てきた。
「交換留学から菱崎うちに入ったジョンソン君ってのが居てね、面白い奴なんだこれが」
 翼を軽く叩きながら塚越は機を回る。
「変な機体ばっかり設計するもんだから試しに実験機やらせてみたら世界記録作っちゃうしさ。そうなるとどうせだから実用機にしちゃえってことでこうなったわけ」
 つまり軍の要求ではなく、菱崎が自社開発をした機と云うことになる。その辺りが設計の奔放さに現れているのだろうか。
「なにしろ元が記録を作ったからには速いはずだ。六五〇㎞/hは出したいね」
 世界記録よりは一〇〇㎞/hくらい遅いが、それでも現用戦闘機である十式艦戦よりも一〇〇㎞/h以上は速い。
「まあ電光は戦うことなんて考えていなかったんでずいぶんいじったよ。中央胴体を大きくして機銃を搭載した。二〇㎜が一門に一二、五㎜が四丁だ、中々なもんだろう」
 そう云って塚越は機首を叩いた。黒光りする銃口がいくつも覗いていた。
「有村のエンジンも、きーちゃんが乗ってた頃よりは安定してきたよ」
「綺羅は両脇の発動機を覗きながら答える。
「これ、やっぱり排気タービンですか?」

「当たり前だろ、これからの発動機、過給器の競争だろ」
「えぇ? すぐ燃えるのはなしですよ。どれだけ危ない思いしたことか」
 そう云って綺羅は側胴の発動機の辺りを撫でた。文句を云いながらもその眼は輝いていた。
「こいつはエンジンの後ろにスペースの余裕があるからな。いろいろやってようやく排気タービンが判ってきたよ。やっぱり大事なのは中間冷却器インタークーラーだ。電光の時は水が沸騰するまでの三〇分限定だったが、こいつは翼の前縁で冷やすんだ。ジョンソン君やっぱり面白いだろ」
「そう聞いてるとなんだか飛びたくなってきたなぁ」
「そうこなくっちゃ」
 塚越の甘言にあっさり乗った綺羅はその機体に手を当てた。
「じゃ、早速行きますか」
 初めて見る新型機なのに気の早い綺羅に洋一たちは驚いたが、塚越はすでに準備を始めてしまった。
「ブーストはこんな感じ、油温と排気温度と水温と。まあとにかく温度には注意してね。三車輪にしたから滑走は楽になったよ」
 ボードを渡して注意事項を説明し始める。菱崎の作業着を着た整備員たちが機体を押し始めるので洋一たちも手伝う。
 格納庫の外に押し出したところでハシゴが掛けられ、綺羅が乗込む。
「視界は大分良いですね」
「速度記録機に比べたらな」
 最後の説明をすべく塚越もハシゴを登った。
「温度計の配置が大分換わったから気をつけて。ブーストはこっち」
 操縦席のあれこれを塚越は指で指し示した。
「大体こんなもんかな。よろしく頼むよ」
 最後に天蓋キャノピーを閉める。横の小窓を開いて綺羅は塚越を振り返った。
「ところでこの子、名前は何になるんですか?」
「うーん、実験機は電光だったからなぁ」
 ハシゴの上で塚越は考え込む。
「雷電なんてどうかな。強そうだ」
 綺羅が頷いたのを見て、塚越はハシゴから降りた。プロペラに巻き込まれないように即座に離れる。
 まず左の発動機の前に車が着く。陸軍でよく使われる起動車だった。後ろから伸びた棒がスピナーに繋がれる。整備員の合図と共にまず起動車からモーターがうなり始める。プロペラが空気をかき回し始めた。
 中で綺羅が点火栓のスイッチを切り替えると重たい爆発音が響く。最初だけ白煙を盛大に吐き出すと、起動車によって回らされていたプロペラがさらに速く回り始める。左のエンジンが鼓動を奏で始めた。
 聞き慣れた葛葉とまた少し響きが違う。V型十二気筒V二八型は有村発動機が葛葉と対抗すべく開発した一一〇〇馬力級発動機である。
 次いで右のエンジンも始動して、独特の共鳴音が聞こえ始める。入念に暖機を済ませると、操縦席の中で綺羅が左右に払うように手を振った。
 輪留めが外されるとするするとその機は進み始める。無線機のある天幕に塚越たちが移動するとちょうど綺羅の声が聞こえてきた。
「これは楽だなぁ。塚越さん、三車輪って良いですねぇ。前がよく見える」
 尾輪式だと前方の視界を持ち上がったエンジンが塞いでしまい、前を確認するために左右に機首を蛇行させなければいけないが、三車輪式ならその心配もない。さらに尾輪式は方向制御が安定せず、新米はすぐ回転させてしまうが、三輪式は方向安定性が良いのも強みだった。
 誘導路を経て滑走路に入る。ブレーキを踏んだまま出力を上げて最後のチェックに入る。うなり音に合わせて機体が大きく身震いをした。
「クレナイ一番、離陸」
 そう告げると双発の機体はするすると走り始めた。双発機だけに迫力も二倍だ。轟音が迫ってくるかと思ったら少しばかり機首をあげ、そしてゆっくりと浮き上がった。
 さすがにかなり重いらしい。脚を引き込みつつ滑走路すれすれを走り抜ける。洋一は爆撃機の離陸を思い出した。さすがにあれよりは軽いかな。それでも滑走路端に達した辺りで小さく機首を持ち上げると、そのまま空への階段を昇っていった。
 背を見せた機がよく見える。異形ではあるが、ある種の調和はあると洋一は思った。ギリギリまで切り詰めた電光と比べて二倍ぐらい伸ばした主翼と、細く長い双胴にそれを繋ぐ尾翼。
 何故か洋一は正月の凧を思い出した。凧の二筋の尻尾が似てるのだろうか。
「こちらクレナイ一番。塚越さん、これは面白いですね。ちょっと遊びます」
 そう云うと上空の機は銀翼を輝かせながらくるくると回り始めた。
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